芸術とゲームと感情の関係

ひょんなことから3連休の最終日はTVゲームについてネットサーフィンしてた。
ファミコン世代だからこその、思い出のファミコンから始まって3DOやPC-FXに脱線して、その流れでセガがサターンの前にSG-1000なるハードを作っていたのを知った。「スーパーマリオを5分でクリアする」を見て、そのままYoutubeの攻略動画にハマってた。魔界村とかスパルタンXとか。「ファミコン音痴」ほどでは無いが、才能のかけらも無かった身としては、クリアできずに押し入れの奥にしまっていたゲームの最短クリア動画を見ていると妙に癒しになると気づいた(笑

ちょうどイイ機会なので、ゲーム性と感情について、二十歳の時に考えて出た結論を書くことにする。
まずゲーム性について。ネットで見つかる文章の中ではこちらが一番良いと思う
自身は、ゲーム性=ルール性だと考えています。映画は映像のメディアで、ラジオはサウンドのメディア、そしてゲームはルールのメディアであると。《略》 当たり前と思われるかもしれませんが、ユーザー自身がゲームの中で意志決定を下せること。そのための選択肢が幾つも用意されていることですね。そして、それぞれの選択肢にリスクとリターンがバランスよく配分されていることも重要だと思います。《略》 そしてその選択次第で結果が変化し、「嬉しい」「悔しい」といった感情が生まれれば、人はゲームに対して自ずと夢中になっています。意志決定を促す仕掛け があり、そこにユーザーの意志が介在することによって、一つの物語が生まれる。物語自体をつくるのではなく、物語が生まれるような仕掛け・ルールこそが面 白いゲーム、面白いルールの条件だと思います。

この人=佐々木さんはスゲーな。それに「エセ芸術家ニューヨークへ行く」って面白いゲームだね。今年の会社の仕事納めでやってみようかな(笑

こちらのブログはカイヨウまで出てくるけど、全体的には長い。こちらビデオゲームは「システム」「フレーバー」「ボリューム」で構成される。って面白い用語使っているけど。こちらも狭義/広義のゲーム性と分類しているけど。検索で一番最初にでてくる慶応SFCの卒業論文は時間がある人向けだね。

個人的整理軸も入れつつ、超乱暴にこれまでの見解をまとめると
.押璽爐涼罎任TVゲームはちょっと違う (ボードゲームやトランプ等と比較して)
TVゲームの中でもノベル系(文字主体の読ませるゲーム)はちょっと違う
L滅鬚ぅ押璽爐蓮▲ぅ鵐織薀ティブである (TVゲームはインタラクティブ性(コントローラによる操作、画面による反応)が非常に高い)
ぅぅ鵐織薀ティブとはルール(構造)とリスク/リターンのバランスである
ゥ罅璽兇旅堝阿ら自分自身の物語が生まれる仕掛け・ルールこそが大事(作った物語を単に読ませるな)

この5点でOKでしょうか。


では、ここからは私の個人的な話に行きます。
70年代生まれはファミコン世代の中核であることが、上記「思い出のファミコン」でも分かる。60年代生まれはアーケード。80年代生まれはスーファミ以降だから。けど、私はファミコン以外のハードは持ってない。PCゲーム主体だった。信長の野望、水滸伝、大航海時代と、全てPCゲーム。高1の頃まだ「ぷよぷよ」はPCでしか発売されてなく、友達がそのために遊びに来た。高3の頃は同級生2のために友達が遊びに来た。そんな僕は大学受験の合間にゲームのシナリオを作ってた。

 中高一貫の男子進学高に高校から編入した主人公が、その高校の半不登校2人と、彼らの友達である女子高生2人の間に立って、彼らの心の闇を解いて行くゲーム。彼らは見晴らしの良い公園に午後から集まって、取りとめの無い話をしているだけ。けど、それぞれが問題を抱えていて、誰にも言えず、その場にいることだけが唯一の支えになっている。そこに主人公が登場する。主人公は何の取り柄も無い普通の家庭の普通の人。しかし、唯一、夕日を一緒に見た他人の、その日の夢の中に入れる特殊能力があった。実際の世界では淡々とした情景描写と、稀に大きな出来事。けど、主人公は彼らの悪夢の中で彼らの敵と戦う。そこは常にダンジョンアリの冒険アリの世界。
タイトルは「あの空の色」


これを実際のゲームにするために、大学ではゲーム製作サークルに入った。そして同級生に見せてた。「文学的すぎてゲームのシナリオじゃない」と言われた。昔からの友達は「ゲームのシナリオになるのかどうかは分からない。けど面白かったし、やっとお前の事が分かった気がする」と言ってた。そうだろう。それまでの自分自身に生じた事を分解し、類想しながら4人に分解して作っていったのだから。

それもあって、ゲームが芸術になるためには何が必要か、あの頃、真正面から考えてた。
映画が8番目の芸術ならば、ゲームは9番目の芸術になるべき可能性があると思ってて、けどそうなれていない理由を真面目に探してた。以前の個人的な感動論こそがその結果です。芸術を考えるということは感動を考える事であり、そこを掘り下げないで、ゲーム芸術論を語ってもねぇ。乱暴に言えば演劇に映像機材をかけあわせれば映画になるけど、映画に○をかけあわせてゲームになる。けど、その○こそが感動の定義と背反なんだよね。

とは以前にBlogやHPで書いた通り。この○が「選択肢」であり「自由」であり「インタラクティブ」
じゃあなぜ、それが感動の定義と背反なのかって? うちのサイトを読んでいる人なら分かると思うけど、「感動とは作品に手を引っ張ってもらって階段を登れる事」だから、自由を入れた瞬間に「手を振り払う」ことも可能になる。

もっと分かりやすく言う。今のゲームにおいて、ゲーム内部の登場人物との会話は選択肢から選ぶだけ。この先、AIが進んでフリーな会話が可能になれば、自由度は上がる。けど、その分、感動は下がる。極論を言うと、「完全に自由度が達成された芸術おいて感動できる人は、現実世界でもちゃんと感動できるから芸術を必要としてない」 これが当時の俺の結論。

これじゃあさすがにつまらない。
だから、AIを完成させたあと、完全に会話が自由なゲームをつくり、その自由度が高まった世界の中で、それでも芸術のレベルまでいける仕組みを考えたかった。その結論として、シンプルに自由度の上がった世界自体丸ごと階段の上方に持ち上げればいい。どれだけユーザーが自由に行動しても世界自体が魂の梯子を上るのだから。

え、どうやってやるかって、それがタイトルの最後の単語である「感情」です。
この続きはHHAIの完成後で(爆

 



感情と意識の整理(2009年時点)

年末に整理をしてたら昔のノートが見つかった。どこかの本に書いてあったというよりは、色々と考えて出てきた結論。今からみても納得できたものをメモ程度に置いておきます。(ちょっと表現には手を入れてまとめてます)

----
・発現(行動として表現)できなかった感情ほど負として記憶に残る
・感情の記憶とはシンプルに以下の4つ
ー分の意志で選択して、成果が出た → 一番楽しい記憶。このまま明日を迎えよう
⊆分の意志で選択して、失敗した → 一番辛い記憶。自己イメージを直す必要ある
自分の意志で選択できなかったし、失敗した → もっと手前に選択ポイントがあったハズ。それを見つけよう
ぜ分の意志で選択できなかったけど、成果が出た → 運が良かったで済ます?

・感情は特別なもので検知しているのでなく、体感覚(内臓・皮膚・表情)に一度落ちて、(or体感覚とオーバーラップして)、知覚される
・感情の上位に自己意識があり、過去の評価と未来の予測がある
・自己意識は自己ループ構造になっていて、意識していることを意識できる。この自己ループは言葉によって始めて存在できる?
・意識がすごいのでなく、出力をフィードバックさせ、言語化し、ワーキングメモリを確保して、そこに展開する。この仕組みが凄い事では?
・意識的に記憶を消すことは出来ない。同様に意識的に感情を消せないし作れない。ただ、娯楽のような代替手段で感情を操作することはできる
・客観的な感情は認めない。それは思考だ
・主観的な思考は認めない。それは感情だ
・主観的な思考をしている状態を、感情に囚われていると気づかないと、先に進めない時がある
・主観と客観の違い →自分と他人(数は厳密に決まってないが、大数の平均)の結論が一緒かどうか
・思考は導出過程に道理がある。対象がはっきりしている
・感情は対象がはっきりしてない(奥に真の対象があるときも)。導出過程に断絶があり、振り返って「あの時なんで」と思うこともある
・主観は何故生じる?→現実と自己イメージの違い
 



ギャンブル欲を考察する

このコーナーではこれまでも色々と感情の分析をしていたけど、ギャンブル欲について全く抜け落ちていたことに今さっき気がついた。。そもそも自分自身がギャンブル欲が少ないもんで。これまでギャンブルといえば株ぐらいかな。あれをギャンブルというのかよく分からないが。最初のうちは150万円入れて毎日チェックしてた。これは確かにギャンブルやね。けど、そのうち考え直して、半年に一回ぐらいのチェック。そしたら資産運用であってもギャンブルではないような・・・

単純な「勝ちたい」という欲望はマズローでは承認欲求(うちではもっとシンプルに団体上位と読み替え)だけど、ギャンブル欲は勝ちたいだけではない。勝負の結果として「金銭の報酬」なんだよね。単純な勝ちだけなら、スポーツでもゲームでもいいのだから。

ギャンブル欲=勝利欲+金銭欲

とりあえずこのように仮定する。ギャンブルにハマっている人は、いくらお金がもらえても(金銭欲の充足)、やっぱりそれだけでは満足しないと思う。宝くじがあたったら海外にどかんとギャンブルに行くと思うから。そういう意味では勝利欲のウエイトも高いのか。他にも要素がある気がする。勝利の報酬としての金銭だけでなく、「勝っている姿を見せつけたい」という欲求もあると思う。だからこそ以前のパチンコ店では「勝ってる時のど派手な演出と椅子の横のケースの山積みこそが、その欲求を充足していた」と昔、何かで読んだ記憶がある。逆に「画面上の自分しか見えない小さい数字が増えていく」だけなら、そこまで人はハマらないと思う。(警察はそういう制限かければいいのでは?)

「勝っている姿を見せつけたい」は勝利欲の一部分?

うーん、本当の勝利は今までの自己を超えることであり、その認識を持っている人はこの欲求は無いと思う。すると勝利欲にも承認欲求レベルと自己実現/超越レベルの2種類があるとすればいいのか。

ギャンブル欲=勝利欲(承認欲求レベル)+金銭欲

うん、それなりにマシになってきた。
けど、ネットで色々と調べると、単純な勝利ではなくてハラハラドキドキの興奮状態もウエイトが高い気がする勝負&金銭ならば囲碁や将棋の棋士も該当するが、彼らはギャンブラーとは言わないような。。それはランダム性がかなり低い(零にちかい)世界の勝負だからだと思う。プロスポーツも勝負&金銭だし、ランダム性は囲碁将棋よりは大きいと思うが、プロ選手はギャンブラーでは無い。引退したら金銭部分零でそのスポーツを楽しんでいると思う。プロ選手は引退後に「単にスポーツするのでなくお金かけようよ」とは言わないと思うなぁ。

するとやっぱり、ギャンブル欲の中にはランダム性も影響度が高いと思えてきた。私自身、ギャンブルの経験はほぼ零だが、ゲームの経験でいうと、完全情報ゲームの囲碁・将棋は遊んでいて自身の頭の悪さを痛感するから辛い。ゲームの途中で自分が勝っているか負けているかも見れば分かる(盤面が複雑で分からない時もあるが、ハラハラドキドキは少ない)。逆に100%ランダムなゲームは全然オモロナイ。結局は、頭で考える部分とランダム性のバランスなんだよね、ゲームバランスって。それはギャンブルでも一緒か。しかし、ランダム性という捉え方では欲求の理解としては不十分。ランダムが何の欲求に結びつくかというと、今の私は「一発逆転夢想」と思いついた。

ギャンブル欲=一発逆転夢想+勝利欲(承認欲求レベル)+金銭欲

ということで、今日の考察はとりあえず終わり。ポイントは「一発逆転夢想」と「承認欲求レベルの勝利欲」かな。こうやって考察してアウトプットが出てくるのが今の自分が求める勝利欲か、、、ノートでやればいいのにわざわざBlogに書くのは「この分析が何かの参考になれば」と「アピール」ならば、この勝利欲は承認欲求レベルだね。。それはちゃんと認めないと。

----
だからこそ、この分析をふまえギャンブルにハマってる人が足を洗うにはどうすればいいかを考える。
先ほどのリンクの「ギャンブルを中途半端(1円パチンコとか)にやるなるな。完全に足を洗え」は正しいけど、それが出来れば誰も苦労しない。こちらの「でっかい勝負を思い描け」はかなり楽しいけど、でっかい勝負をするにはでっかい準備期間が必要で、それが「ちまちま感」と思ってイヤなんだと。こちらのサイトは面白いなぁ。ここまで突き抜けると凄いね。

月並みなアイディアとしては、
,任辰い勝負を思い描いて
△修海砲いまでの準備期間を個別目標&個別ご褒美でサブ勝負に分解して
たまに一発逆転夢想を入れる

,蓮∋纏上の大きな取引とかで、△1万〜10万程度のご褒美で、難しいのはか。
ここら辺はいいアイディアあったらコメントください(笑

 



AIにおける存在と関係について

前回、Blog1に書いたけど、やっぱり納得いかん。恋愛と夫婦の違いは対外的な関係として認められているかどうかで、婚約自体も婚約破棄で賠償問題になるのだから、一部分は認知された関係ではある。どのタイミングで婚約成立かは揉めたら裁判沙汰(個人的な記憶では単純に婚約指輪でなかったような)。

そこまではいいとしよう。
問題は、「夫婦がお互いに死んだら、夫婦関係は存在しなくなるか?」
あの本(「オントロジー工学の理論と実践」)ではNOと言っているように見える。(「時間依存としているから」)

これってさ、正しい?
結局、従関係と主関係があって、組織と集団の違いは組織が主関係で、集団が従関係。従関係の一番分かりやすい例が夫婦=婚姻関係。家族になるとメンバーの交代が可能なようにも見えるので主関係かもしれん。だからこそ、夫婦について考える事が多いのだが、上記の指針は単純には納得できない。なぜって、基本、同じ墓だから。そして子供がいるから。

すると、子供がいない&別々の墓に入っている夫婦については、お互いに死んだら夫婦関係はなくなる?

こういう風に考えていくと、結構カオスというかDeepというか、価値観の違いというか、意見が割れるというか。。なんで、俺は休日にこういうことを延々と考えなくちゃいけないのか、避けては通れないけど正面から取り組むとさっぱり分からん。。

一見、当たり前のような関係もある線以上に掘り下げるとワケ分からん。もっと当たり前のような「存在」に関しても、単純な物体ならばいいのだけど、以下については本当にどうすんの?

・どこにも明記されてないけど、皆が守っている暗黙ルール
・誰も読めない太古の文字で書かれた本

この二つをちゃんと扱えるAIはどうあるべきか・・・今までここら辺のメンドクサイ部分はスルーしてきたからなぁ、やっとここに来たと言うべきかもしれないけど、先に進まなくてとにかく凹む。新年早々とことん壁にぶつかった投稿だけど、まあこれが2016年の幕開けとしては相応しいかもしれないな、と。

----
[01/04]
こういう事を突き詰めると、「関係」自体の定義が必要で、これって基本的過ぎて恐ろしい世界。結局、哲学とプログラミングと実際のビジネスの3つでの成果では世界トップと思えるポールグレアムの言うとおり

哲学にとって不幸なことに、私はこれこそが哲学の中心的な事実だと言おう。ほとんどの哲学的議論は、言葉による混乱によって悩ましいものとなっているだけではなく、その混乱が議論を導いている。私たちは自由な意志を持つのだろうか? 「自由」が何を意味するかによる。抽象観念は存在するだろうか? 「存在」が何を意味するか次第だ。

一般に、「哲学論争の大部分はことばをめぐる混乱によるものである」と考えたのはヴィトゲンシュタインだとされている。しかし私は、どの程度、ヴィトゲンシュタインの貢献と見なすべきか疑問に思う。私の思うに、多くの人々もそう理解していたのだが、哲学の教授になるのではなくて、単に哲学を勉強しないことで自分の理解を示したのだ。


要するに、「あんま悩みすぎても余計に答えから遠くなる」という生活の知恵の方が正しいんだよね。二十歳の頃も同じ問いで悩んでいて、あの当時調べたら、大体の言語において「関係がある」=「セックスした」なんだよね。男と女の関係って。まあ、それがシンプルな事実なんだろうけど。あの当時から、ここら辺は考えはじめるとキリ無いと思っていたけど、18年経って、また同じ状態かよ。。すげー、「振り出しに戻る」感。こういうすごろくはマジやめて欲しい。

----
[01/09]
とりあえず対処方法は決めた。こういう問題は悩んでもキリない。「決め」の問題。ただ、今までの設計が不十分なのが判明。出戻りはどうしても発生だね。。



自己の同一性と記憶の関係


近年、人工知能がブーム化してる。Googleの碁については本当にびっくりした。ついにここまできたか・・・という感慨がある。けど、期待が先行しすぎると注意が必要。シンギュラリティの話題を見ていると、過去の人工知能バブルを思い出す。松尾豊氏と同じ意見で、「死ぬ事のないAIに真の感情は生まれない」が根本スタンス。電源OFFが人工知能にとっての死だとしても、電源OFFと人間の死はアナロジーレベルの同一性。2050年前後にシンギュラリティが実現するとは思ってないし、強いAI自体を眉唾と思っているのも事実。けど、2050年までには「自由に記憶を消せるようになっている」とは思ってる。記憶を自由に消せるようになった時、人間はどこまで変わるのか? ここ一週間ぐらい悩んでいるのがこの問題。

なぜ、意志の力で記憶を消せないのか?
当たり前すぎて誰も疑問に思っていない。けど、生物を設計するならば、一番上位にくる意志にはこれぐらいの力を与えても良かったハズ。これまでの膨大な読書結果から、一番同意しているのは、

自己の同一性とは記憶の同一性
突き詰めると自己の同一性の担保は外見ではない。外見は服や髪型や整形で変わる。身長だってシークレットブーツで5cmは変えれる。5cm変わったらそれなりに印象も変わる。身長を低くすることは難しいけど、ニーズ自体もないような。。痩せるのは大変だけどね。「多重人格(今はこの言葉は使っちゃいけないのだけど、分かりやすく書くために)とは、記憶の分割から生じる」という説を聞いたことがある。あまりに辛い記憶を追いやることが人格の分裂に繋がるという観点は正しいと思っている。

 



雪が恋しい北限:仙台1996-2002

ポール・グレアムは言った。それぞれの都市には固有のメッセージがあると。
驚くことに、都市によってメッセージはぜんぜん違う。ニューヨークのメッセージは「とにかくもっとお金を稼げ」だ。もちろんニューヨークは「もっとカッコよくなれ」というメッセージも発している。でもいちばん明確なメッセージは「もっと金持ちになれ」だ。  《略》 
私がボストン(いや、むしろケンブリッジ)を好きなのは、そこでのメッセージは次のようなものだからだ。「もっと賢くなれ。本当に自分が読みたい本を読みあさるべきだ」。 どんなメッセージを発しているかを都市に尋ねると、ときどき驚くような答えが返ってくる。シリコン・バレーでのメッセージは、賢さもさることながら、「もっと影響力を持て」なのだ。 ロサンゼルスでは名声が重視されているように思える。もっとも旬で、もっとも人気の一流の人のリストがあり、それに載るか、載っている人の友達になると羨ましがられる。そのメッセージに隠れているのはニューヨークのものと似ているが、おそらくもっと肉体美が強調されている。

パリが現在送るメッセージは「自分のスタイルを持て」だった。私は実のところ、そのメッセージが気に入った。パリは私が暮らした中で、市民が芸術を本当に愛している唯一の都市だ。

2009年ぐらいにこの文章を読んで以来、自己に置き換えて考え込んでいた。96年から02年まで過ごした仙台について、体感では分かるのに言葉にできないもどかしさ。 今日、たまたまDay26のPerfectly Blindを聴いてやっと分かってきた。この曲は96年の冬に発売された先輩グループ112のデビュー作と手触りが同じ曲だから。

 

すくった手の隙間からこぼれるほどの粉雪が降る場所だけど、生活が不便になるほどの雪は積もらない。街の中心部からスキー場が見えるし、仕事が終わってからすべりに行くことも可能だけど、暖流に面していて寒すぎるほどの冬でもない。仙台は「雪が恋しい北限」なんだと。 もちろんこれは情景描写であってメッセージではない。仙台のメッセージは小田和正に聞きたいくらいだけど、僕はこの本を仙台に住んでいる時に読めなかった時点で資格が無いのだと感じる。哲学で著名なのは京都大学だし、誰も東北大学にその伝統を認めないけど、卒業してから読んで感動した本のほとんどが著者はOBだった。あちらが京都という街がもつ伝統に立脚する哲学ならば、正宗が開いた江戸時代の初期からの歴史しかない街だけど、この風土が育む哲学があってもいい。城の名前が体現するような5月の青葉と、東北の山がもつ紅葉。僕は仙台でしかできない思索があると思っているし、それを積み重ねてきた体感がある。

最近は恋愛分析ですらAIが使われるというけど、根源的にWhyに答えられないワトソンは一生(AIに一生も無いけど)Why Doesの情景は分からないだろう。ディープ・ラーニング? 画像でどれだけ上手く行っても、それだけで壁を越せるほど甘くない。先端の研究者は当然、囲碁と画像が親戚関係と分かっているけど、言葉を甘く考えているように思える。またさ、90年代のようにオオカミ少年って言われたいの? 夢を抱いて専攻した学生をああいう行き詰った状況におくのは、あの時だけでいいと思ってる。

 


決めた。野球やプロレスとかに登場曲があるならば、今作っているAIの登場曲はこの曲だ。Windowsですらあんなに拘っているならば、起動時に流れる5秒ぐらいのメロディーはこれしかない。流石に96-02に聴き込んだ曲をそのまま選ぶほどナイーブでもないけど、理想としては男性ボーカルグループでJodeciでもBoyzIIMenでもSilkでもなくShaiに近いこと。透明感があって切ない息吹と、壊れそうな後悔を含んだ奥のシャウト。願わくば曲名も良くて歌詞にも落ち度は無いこと。だから今の時点では本曲こそがMAXだね。

 

----

紅葉について色々と思うことがある。生活圏に近い山は植林されすぎていて紅葉が綺麗じゃない。理想はこんな風に高山に行くことだけど、東北地方は古来から国の中心部よりも遠い分だけ植林の度合いが弱くて、街の近隣の山まで紅葉のコントラストが綺麗。その点で京都だけは特別。貴族や神社寺院が己の日本庭園の借景のために近隣の山を保護してきたから。東北の山の紅葉に親しむと、京都の紅葉には権力を感じる。これは「白河以北一山百文」と言った熊襲発言の逆かもしれないけど、素直な感想としてね。

 




AI:人工知能は再び冬の時代へ


今年の国立情報学研究所:NIIのオープンキャンパスに行って根掘り葉掘り聞いてきたから、壁にぶつかっていることは理解していたけど、まさか撤退するとはね。その決断は褒めるべきなのかもしれない。もともと「東大入試に合格するAI」という目標自体がキャッチーではあっても本質ではないと思っていた。本撤退に加えて、ムーアの法則の終了、そしてDeep Learningの先行企業アライアンスのニュースまでの3つが重なると、

季節の変わり目
にいる事を痛感する。シンギュラリティーとか言っている人はカリブの夏の気分かもしれないけど、第一線の研究者の心象風景は夏が終わって秋だろう。悪いけど、自分はもう冬支度の気分。どんなジャンルだろうと波の上下はあるけれど、何故か人工知能はその上下の幅が激しくなる。昔からそう。そして、波が高い時ほど底も低い。この反動は一体どこまで落ちるのだろう。

クリティカルで本質的な目標ならば、「中学の国語の問題を解く人工知能」
これだけでいい。東大なんてどっちでもいい。そんなのは2001年には分かってた。だから、東大入試と聞いてもアホらしかった。社会的に注目されたのは素晴らしいけど、国語の偏差値が一番低いのは当然。Deep Learningだって言語には使えない。そんなに言語は甘くない。

14日の成果報告会で情報学研の新井紀子教授は「意味を深く理解しないといけないことを聞かれると、とたんに難しくなる」と話し、問題を理解する読解力に限界があることを明らかにした。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14HI5_U6A111C1CR8000/

何をもって深い理解とするのか、本当に人間は深い理解を出来ているのか、考えることは山ほどある。朝日新聞は成績表を出してくれて素晴らしい。個人的に興味深いのは英語のリスニングの一番偏差値が低い事。結局、単純な音声→文字データの変換なのでなく、常識に照らし合わせた回答が求められており、今も昔も常識を扱うのが一番困難。だから、短すぎる文章も苦手なのだ。こちらが補足しなくちゃいけない事が多すぎる。長い文章も短い文章もダメ。それが今の現実で、僕が大学院生だった15年前から何も変わってない。変わったのはDeep Learning。けど、ニューロコンピューティングで一番大事なのは抽象・ロジカルレイヤーの作成であり、それは80年代からの課題で、やっぱりDeep Learningでも達成出来てない。


AIについて率直に発言していたNIIの佐藤教授も流石にネガティブなことは言えないのかな。けど今回のムーアの法則終了については非常に面白かった。ここでは「ハードウエアボーナスがなくなり、今後はソフトウエアの比重が高まる」と書いているけど、AIに関してはもっと手前の問題。そもそもの言語設計から見直さないと。東大入試AIがそれをしてないのはチャレンジ1年目の時点で分かってたし、今回の撤退判断は、そもそもどうやって見直せばいいのかも分かって無いのだろう。

松尾先生もコンパクトに要点かいているけど、画像の特徴量と言語の特徴量はワケが違う。画素同士の関係性と意味同士の関係性だから。30Pの「言語の意味理解 – そのうち(10年〜15年?)、意味理解を伴う自動翻訳が実現される 」というのは早めに訂正した方がいい。真の意味の理解のためには、比較言語学でなく比較宗教学が必要。うちの指導教官は論理以外はまったく無視だったから、僕は博士課程に残れなかったけど、ごめん。そろそろ勝負はついた。間違っているのはロジカル至上主義であり、最近のDeep Learning至上主義。そういう意味では、東大入試AIの国語担当の人には親近感は持っている。Word2vecは確かに面白いけど、これを延々とやればいつかできるって? 90年のマックがアップルウオッチのサイズまで小さくなったようなハードウエアの進歩がこの先に無いなら、Word2Vecの全単語処理なんて有りえない。それより先に火星に人類行けるんじゃないか。

どう?そろそろ俺のやり方についてこない?
英語を2000単語まで絞ったロングマンは素晴らしいけど、2000語を丁寧に見てみな。こんなにいらないから。本気でやれば、この二割でいける。それがうちのやり方。そしたらぶち当たるのが、名詞と動詞、どちらがプリミティブか。この答えまで同じなら、俺と一緒に手を組まない? ドングリ貯めずに浮かれている奴はみんな冬を越せない。それが自然の掟。俺に必要なのは残り一つのドングリ。ここで2ヶ月以上足踏みしてるんだが。。

 



4つの「部分と全体」

本コーナーでは前回、「残りはどんぐり1つ」と書いたけど、近くに寄ってみると一つでなく、一塊だと分かる。。。

 

散々ネットで調べてる。クラスベースのオブジェクト指向と、プロトタイプベース(インスタンスベース)のオブジェクト指向があるけど、なぜクラスベースが主流になったのか? 結局、そこは実装の容易&実行速度向上の容易さ だと思うんだが、そこら辺をちゃんと分析しているサイト・論文が見つからない。

 

以前にも関係を分析したつもりだったけど、抜け漏れがあった。やっぱり突き詰めるとソフトウエア工学というよりも阪大の溝口研に行くのね。。

意味表現で基本的な役割を演じるのが「関係」である.意味ネットワークを見るまでもなく,is-a,instance-of,subset-of,part-of,member-ofなどの「関係」は最も頻繁に使われる基本的な関係であり,その「意味」に関しては完全に理解しているように思われている.しかし,次の簡単な例を考えてみれば分かるように,実際はそうではない.

 

IT技術者なら基本中の基本のオブジェクトとインスタンスの関係だけど、階層を最上位まであがってオブジェクトとインスタンスを考えるとかなり言語設計に近くなる。以前にどこかでRubyを作った松本さん自身の解説を見た気がするが、あの時の文章も認知論というかオントロジーまでは触れていなかった記憶がある。

 

ネットを漁っていたら言語学側からの例題の答えがあって結構面白い。

この4つが基本的な関係であることは常識として納得。けど、この中でinstance-ofは削除すべきと思い始めている。こんなの、いらん。クラスとインスタンスに分けるのは認知の最後なのだと、言い切りたい。どれだけソフトウエア分野の主流がクラスベースであったとしても「うちはうち。隣は隣」と。幼いころは親からこういわれてショックを受けた子供も多いと思うけど、大人になるとそれで押し切る誘惑に駆られることは、ままある。

 

結局、インスタンス化とは、個体認識であり、ユニーク名=個体指示子とセット。登場人物がクラス=概念をそのまま考える状況をモデリングしたら、「世の中すべてはインスタンスです」という世界観なんて相手にできないToyモデル。ここら辺って、本当に統一的に扱えるの?? まじかよ。頭が悲鳴を上げる。ここをリアルに突き詰めるのに、足らないものが多すぎる。

 

そう思っていたらソフトウエア技術者のBlogを見つけた。読んでいるうちに本テーマでなくパニック症候群の記事に惹かれた。社会人になってから多大なストレスがかかることについて、きっと自分は今まで甘く考えていたのだろう。これまでのヘビーな体験は端的にBlog1にも書いたけど、全部就職前だったのはある種の幸せなんだと、読みながら気づいた。パニック体験談を読んで癒されるのだから、作者はすごい。重いことほど爽やかに書いている。
 

とりあえず、今はここを生活のメインにする勇気もストレス耐性もないのは、よくわかった。同じ分野で常識に挑戦するよりも、隣の分野の常識に挑戦する方が及び腰になるのは何故だろう。潜在的な味方が減るからか。。

 

----

お、すごいサイトを見つけた。読んで感動。99年にここまで考察しているとは。爆発的に流行る前の方が色々な可能性・例外についてちゃんと考察しているんだね。この著者のいうとおり、オブジェクト指向でなくクラス指向というべきなのだ。だから、やっぱりinstance-ofはいらない。本当ならここで紹介されている本も読みたいけど、今はその時間がない。今必要なのは確信。このサイトは確信をくれる。よしっ。じゃあ、やっと本題の「概念を考える人」をモデリングか。




美を突き詰めて聖にいくのか。聖と性はどこかで重なるか。

どれだけAmazonがメジャーになっても、評判とレビューの意見だけでは買えない本がある。文章を直に読まないと価値が分からないけど、専門的な本は普通の本屋に置いてない。かつ図書館にも無い場合、「大学の本販売コーナー」で見つけるしかないね。以前も「魅惑のブス」という傑作本を買ったけど、今回は母校。ちょっと気合?入ってます。

 

Amazonのレビューを見ても決め手にかけて迷っていた『人工知能とは』 人工知能学会監修 近代科学社。は五ページぐらい読んで買うことにした。ここまで率直に書いているとは想定外。確かに日本の人工知能の大御所は揃っているけど、池上高志さんまでいるならば、発売当時に問答無用で買うべきだったかも。そして、こちらは横浜図書館においてあって、あまりに内容がよかったので、購入した『言語と思考を生む脳』 東京大学出版会。今まで脳科学は池谷氏しか意識してなかったけど、入来篤史氏は凄い。

 

「芸術」や「美」の世界はヒト以外の動物には無い。人間精神の特性である。これもまた、言語や思考から連なる、人間の認知特性の脳神経基盤の上に成り立っていると考えざるを得ない。「芸術的」な作品世界では、時間・空間・意味・価値・・・・などの数限りない多くの「次元」が渾然一体に溶け合い、結びつき、混ざり合いながら同居して、好ましく愛おしい「魅力」を放ちながら、観る人の「心」を惹きつける。動の中に凍りついた瞬間を、静寂の中に激動と情熱を、矛盾に満ちた不条理に秩序を感じるとき、我々の心は魅了される

《略》

この「美」の世界は、しかし、現実には決して存在しえない。我々人類の脳と心の中に閉じ込められたときだけ安息しうる「夢」の世界である。夢見心地の「美」の世界は、古今東西すべての人類に共有され、そしてあえてそれを現実世界に再現しようとすると、人々は必ずそこに「狂気」を感じてしまう。芸術世界は、芸術という範疇世界の外の現実の時空間では、整合性をとって安定化することができない。この芸術的な多次元空間を、現実世界の実在する時空に写像するとき、余った次元は無秩序に暴れ出すだろう。そして、我々の感覚運動器官を通じて、凶暴な奔流となって、脳と心に逆流する。

《略》

我々の感覚神経系のはたらきが実体験から芸術を生み出そうとするとき、しばし著しい「産みの苦しみ」を体験する。それは、我々の身体構造と現実世界の「次元」の構造に拘束された情報からは、芸術的な美を纏う多次元構造は直接的には立ち現れないからである。(P16,17)

 

脳科学系の本を散々読んできたけど、この文章が最高峰。ここまで美を喝破するとは。そして狂気の必然性。弟子入りをお願いしたくなるレベル。だからこそ、この先を考えたい。それが本文のタイトルである「美を突き詰めると聖に行くのか」です。

 

そもそも今のHHAIの設計自体が有用性レベルしかなくて、美までカバーできてない。美は客観的には対称性とフィボナッチ数列⇒黄金率でしか語れない。対称性は竹内久美子氏の本を読めば分かりやすく書いてある。なぜフィボナッチ数列が大切なのかは、結局、前々回までが流用可能であって、うちの3世代説と関係あると思ってる。聖はあまりに深すぎるテーマだから、「信じる」しかインプリメントしないつもりだったけど、、、。そして聖と性で言えば立川流。あんな吐きそうになる髑髏なんて、真面目に文献を探す気にもならないけど、ヨヨチューとも繋がるのかもね。

 

結局、完成した後にアドオンできる部分と、最初から組み込んでおかなくちゃいけない部分。その切り分けに尽きる。設計完了したつもりだったけど、意図を考え出して1ヵ月は迷いの森。その中に誘惑としてのこれらの本。最初からデカク作ろうとすれば必ず破綻するのは分かっているつもりだけど、美と聖の誘惑はある。AIに性はどっちでもいいと思っているけど・・・。そういえば、『人工知能とは』で皆さんがかなり活発に自由に意見を書いているけど、AIに性別は存在する?させる?勝手に出現する?べきかまでは、誰も考えていないような。無性から有性の発生および有性の有利さは昔からメジャーだし、性を担うのが極小の精子と極大の卵子になるのもシュミレーション的に証明されてたハズだけど。アルファ碁がデスクトップサイズまで小さくならない限りシンギュラリティなんてありえないけど、遥か未来はAI同士がSEXするのかもしれん。無機物ベースだとすると、SEXと言っても精子と卵子でなく知識の断片の交換!? それって通常のコミュニケーションと何が違うのだろうね。

 




コミュニケーションにおけるメッセージの洗練が芸術

AIにおける美と聖と性について昨年末からドツボにハマってる。

以前にクリアしたと思っても、より前に進んで問題意識も深くなると、以前の解答の荒さに耐えれなくなる。こうやってゴールが遠ざかる・・・

 

 

「哲学の道」じゃなくて「登山道」ならばヒントが思いつくかもと思って金時山に行ってきたけど、そんなに世の中甘くないか。だからもうちょっとインプットも必要だと思い、元旦と二日目を費やして小林太市郎氏の著作を読んだ。これだけ有名な人だけど、今まで全く知らなかったです。昨年、月刊誌『選択』の新連載で知った。

 

まさか著名な尾形光琳の『紅白梅図屛風』を下記のように述べるとは・・・。

中央の水流は、光琳が手をつけた奉公人「さん」の女体で、仰むけにのけぞった顎から胸の線が左で、右は巨大な尻だという。左の白梅は光琳で、その枝は手のように肘をまげて乳の先をまさぐっている。そして樹根は恥骨をたたきながら「どうだ。俺のは太くて固いだろう」と得意がっている。右の紅梅は、光琳のパトロンであり愛人でもある銀座役人の中村内蔵助で、後ろから襲いかかろうとするところを大きな尻でドンとはねとばされたため、驚いて両手を上げ、一物勃起したまま突っ立っているところだというのだ。 この説を述べたのは、決してポルノ作家ではない。神戸大学教授も務めた美術史研究者小林太市郎である。

 

この絵は伊豆のMOA美術館で見ているけど、確かにこういわれると、そう見えてしまう・・・。

選択の連載でも「この説は一度知ってしまうと、どのように記憶をリセットしても、そう見えてしまうので注意が必要だ」と書いてあるのも納得。もちろん連載にはこの解釈にいたった背景も書いてあるので、そこもふまえて同意できるのだけど・・・。この解釈が面白かったので、小林氏の経歴を調べ、著作を買う事にした。まさか西田門下に芸術論に行った人がいたとはね。これは絶対に抑えなくては、と。

 

長い前置きはこれぐらいにして、小林市太郎の芸術論はこちらに要点を纏めたので、これをベースにAIにおける美と聖と性について掘り下げていきたい。

 

----

まず小林氏の「人間とはなにか」については、肯定も否定もない。人間の抱える悩みの根底に「欲」があるのは釈迦が言った話で、すべての人間理解の基本だと思っている。それを生まれる前からの原罪とみなすキリスト教との差も、実はそんなに大きくないと感じてる。だから、ベースが「欲」だとしても、そう捉えなくても、結局はそれが原因で動くのだから、あとは欲の中身とバランスでしかない。例えば承認欲・貢献欲がダークサイドになると名誉欲・権勢欲=命令欲になるのであって。

 

根本的には「欲」を無くす方法であって、初期仏教にも四諦八正道とかあるけど、これだけじゃ凡人は無理っていうのが一番の事実だと思ってる。こういう事を言うと天罰モノかもしれないが、そもそも釈迦だって、若い頃は皇子として綺麗な奥さんや第X夫人がいて、旨い物食べて、そういう生活をしてたわけじゃん。そりゃ過剰すぎる豪華さを体験した人は空しさを痛感するよ。問題は体験してない→憧れている人に、「どうせ欲を満たしても空しいだけだぞ」を痛感させる方法なのでは?? 

 

ネット世代以降の若い人に草食系が増えているのも、単純に「女性の裸画像の入手のし易さ」だと思ってる。僕らが中学生のころは、コンビニ自体の数が少ない・置いてなかったし、エロ本を手に入れるには、誰かのお兄ちゃんが集めたものをこっそり見るか、中学の学区に唯一あったそういうお店の店頭のエロ本自動販売機で購入するか、すげーハードル高かったわけだから。今なんて、ちょっと検索すればゲロしたくなるぐらい見つかる。欲望初期に大量に与えられると、逆にその欲望が育たないんだよね。車もそう。学生時代に親から買ってもらった人ほど、車に拘ってない。彼女はいても車が無くて悔しい思いをした人ほど、就職したら百万以上のローンで有名な車を買う。けど、大体、30過ぎるとどっちでも良くなる。そんな感じ。

 

ここら辺を踏まえると、もっとバーチャルリアリティーが発達し、金持ちになっても子供達が遺産相続で骨肉の争いするとか、イケメンモテモテでもX又バレて修羅場とか、羨望だけじゃないリアルな苦労も初期の頃にバーチャルに体験させれば、それだけで欲は減ると思ってる。

 

 

続きを読む >>



<< | 2/3PAGES | >>

categories

links

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM