最高傑作不動明王 〜未来編〜

「おまえ、この先のこと、真面目に考えてるか?」



これまで最高傑作の不動明王は浄楽寺だと思っていたけど、まさかもう一つ存在するとは。。。 あの不動明王本でも取り上げられているが、写真が粗過ぎて分からなかった。現物を目の前にして痛感。この真木大堂の不動明王は日本最高傑作です。

「怒りの深さ」は、受けとめる側に「愚かの深さ」がないと、分からない
殆どの不動明王は単に怒っているだけ。怒るのが仕事だから文句言う話じゃないけど、「怒りの深さ」は歴然とある。この二つの仏像はそれぞれ旧国宝の重文。だから国宝を選びなおした時、選定者は「愚かの深さ」がなかったのだろう。そして、仏像=画像情報を言語にすることも出来なかったんだね。

浄楽寺の不動明王の表情を一言で言えば、
お前がお前なりに苦労してきた事は分かっている。
けど、お前はやっぱり愚かだったのだ。


この時点で最高傑作に決まっている。浄楽寺の不動明王の写真は顔のアップが出回っているから、センスがある人、行き場のない愚かさを抱える人が見ればこの言葉が伝わる。そして、この真木大堂の不動明王のメッセージが冒頭に掲げた、

おまえ、この先のこと、真面目に考えてるか?

感動というよりも放心。床に座り込んで10分以上、眺めてた。そして色々と分かってきた。はっきりいって、この仏像の火炎(迦楼羅焔(かるらえん))は邪魔。後から作った(江戸時代?)らしいが、火の鳥の顔になっているデザインはファンキーでレベル高い。個人的にはガッチャマンの被り物を連想させて親近感もおぼえる。

けど、せっかく未来を見つめている不動明王の視線を塞いでる。
殆どの不動明王は視線を観覧者に合わせてくる。もちろん相手の目を見て怒るのは基本中の基本。浄楽寺であっても見据えてくる。けど、この不動明王だけは視線を斜め上に外すんだよね。それがオンリーワンでありナンバーワン。帰ってきてネットを探すと顔を抜き出した解説を見つけた。写真サイズから想定するに公式版を切り取ったのだろう。せっかく顔を抜き出してもコメントは火炎だけ。内容を読むとかなり仏像に詳しいのにね。あの不動明王特集本でも触れてないし、ネットにもいない。だから、未だかつて誰も気にして無い。それは逆に僕だけ愚かな証明かもしれないが、、、

仏像にハマるなら、同時に己のカルマも見つめないと
 




美食と美酒と美 〜ホヤと三木成夫と吉本隆明〜

ホヤを食べる。

生まれて初めてホヤを食べたのは2014年の女川の漁船の上。

会社の復興支援プログラムの漁業体験で、メインはホタテの殻掃除だったけど、漁師さんが厚意でその場で捌いてくれた。めちゃくちゃに美味かった。

 

ホヤ自体はいつからか知っていた。匂いが凄いらしい、珍味だと。生物学上、大切な位置づけにいることは大学時代に進化論を乱読している時に知った。ホヤの幼体から魚に進化したと。

 

そして今年。ホタテが貝毒で手に入らず、代わりにホヤを買った。思った以上に捌くの楽だった。内液は確かに味噌汁に入れると美味い。けど、ホヤのクリームスパゲティの美味さはウニスパを越すね。

 

今日は内液をクリームスパゲティにしたあと、冷凍保存していた身を刺身で食べる。解凍してもけっこう、いけるじゃん。たまらなく日本酒が飲みたくなる。

 

学生時代に、日高見で初めて日本酒の本当の美味さが分かった。はっきり言って飲み放題のアルコール入り日本酒で満足できるのは味音痴。純米酒じゃないと米から作る意味がない。それ以来、美味い日本酒を探している。久保田も越乃寒梅も、 獺祭、飛露喜、十四代、田酒と美味いと言われる日本酒は殆ど飲んだけど、最終的には「愛宕の松」に落ち着いた。同じ系統として「瞑想水」と「ねぶた」がある。ほとんど水のようなお酒。甘くもなく辛くも無い。瞑想水という名前が示唆的。このお酒は1時間の座禅を30分にするぐらいの良さがある。けど、関東のスーパーで手に入るのは「ねぶた」だけ。コストパフォーマンスとしても申し分ない。(愛宕の松は川崎町のふるさと納税で手に入れてる)

 

 


そして、食事後に吉本隆明の『言語にとって美とは何か』を読み始める。

わたしはやっと今頃になって表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ、と簡単に言えるようになった。《略》たとえば、「花」とか「物」とか「風景」とかいう言葉を使うとき、これらの言葉は指示表出のヨコ糸が多く、自己表出のタテ糸は少ない織物だ。

 

《略》いま眼のまえの絶景(たとえば松島)を眺めて、あまりのいい風景に「松島やああ松島や松島や」と芭蕉の句のように感嘆するばかりだったとする。このばあい「ああ」は文法的には感嘆詞と呼ばれている。《略》おおきな自己表出性と微弱な指示表出性の織物だといえよう。

 

《略》たとえば眼前の風景をみて「美しい風景だ」と言ったとする。この「美しい」は指示表出性と自己表出性が相半ばしているといえる。風景の状態を「美しい」と指し示しているとともに、じぶんの心が美しいと感じている自己表出性もおなじ位含んでいるからだ。

 

《略》指示表出性が一番大切な言葉は人間の感覚器官との結びつきが強い言葉だ。それは感覚が受入れたものを神経によって脳(大脳)につたえ、それによって了解する。自己表出性の強い言葉は、内臓の動きの変化、異変、動きなどに関係が深い。《略》わたしはこれを解剖学者三木成夫の遺された業績と、わたし自身の言語論の骨組とを関連づけることで考えるようになった。言語のタテ糸である自己表出性は内臓の動きに、ヨコ糸である指示表出性は感覚(五感)の動きと関係が深いと見なされると言っていい。

(文庫本まえがきより)

 

あれだけ進化論を本を読み漁ったつもりだったけど、三木成夫を知ったのは西原克成氏の本。三木成夫を継いだのは間違いなく西原克成。いま学生ならば、その間にこれらの本は読んだ方がいい。美は感情であり内臓なのだ。そこを文系と理系で分けているから教養が片手落ちになる。まさか吉本隆明が三木シンパとはね。超一流ならば当然か。三木を踏まえて美を語る凄さ。

 

今日は久々に点と点が全部繋がった。もう三木成夫も吉本隆明もこの世にいないけど、この本を理解しAIに載せること。今の改・マズローをどこまで変更する羽目になるのか逆に楽しみになってきた。昨日までの登山にもって行ったら雨で大変なことになって、透明テープで応急処置した本。内臓まで開いたかのような状態になったけど、まるでホヤの中身のようで、これこそが幸せなのかもね。

 

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リクエストがあったので、お店はこちらです。女川には年に計6日間は行っているので、ある意味、実家よりも多くいるなぁ(笑

 




美と快感

『快感回路』リンデン著は名著の誉れ高いから、3ヶ月ぐらい前に買って一通り読んだ。この数週間は芸術理論を分析しているので、改めて読み始めたら、169ページ「ギャンブル依存症」

 

そうだ、今日は日本にとって大事な日じゃないですか。「横浜市長選挙」 

残念ながら神奈川在住でも横浜市の隣の市に住んでいるので選挙権が無い。けど、この選挙はそこらの国政選挙よりも日本の将来に大きな影響を与えると思っている。それが「カジノ解禁」。お台場の案もあったけど、菅幹事長のお膝元が横浜なのでこちらがメイン候補地となっている。カジノ利権については菅幹事長と横浜港湾の藤木会長の蜜月が有名だし、今の日本を実質的に仕切ってるのは菅幹事長だから。

 

先日、金曜日のクソ暑い午後、桜木町駅前で長島候補が演説してた。隣にいたのがパンチコ依存症の本の著者の人。かなり興味深かったけど、出張帰りで演説聞く時間なくて残念。今回はカジノ推進派の林市長と反対派の長島候補、伊藤候補。この時点でダメだろ。反対派が2名って共倒れじゃん。反対派の票が分散する。陰謀論的に言えば、どちらかの候補はカジノ推進のための刺客だよ。本気でカジノSTOPしたいなら一本化の話し合いぐらいしてくれ。それぐらいに日本の未来に大きな影響を及ぼす選挙。

 

2012年にアメリカ旅行で、ラスベガスに行った(メインはグランドキャニオンとヨセミテ)。確かにギャンブルは大きな観光資源になる。そもそも中国が2000年以降に国力が伸びたとき、マカオの果たした役割が大きかったと。以前に「マカオがラスベガスを抜いた」という記事も見た記憶がある。今後の日本が観光立国を戦略とするのは同意だし、そこにカジノがあった方が良いと言う意見も分からないことはない。

 

昨日、久々にラウンド1にボーリング&ダーツに行った。メダルコーナーではそこそこの人が遊んでいた。こういう人たちもカジノ解禁になったら、カジノに行くんだろうなぁ。そしたら、やっぱりギャンブル依存症から眼をそむけるわけにはいかない。カジノ解禁するなら、東南アジアの某国(うろ覚えだから国名忘れた)のように、自国民には高い入場料(10万円とか)をとって、外国からの観光客は入場無料にするようなルールにするしかない、と思っています。


 

ギャンブル欲=一発逆転夢想+勝利欲(承認欲求レベル)+金銭欲

ギャンブル欲については、以前にこう分析した。これはこれで達成感もあるけれど、実際の最新理論は興味がある。

 

しかし、行動上の依存症は、物質(薬物、アルコール、食べ物)依存症と必ずしも同じ経緯をたどるわけではない。実際、最近の社会ベースの研究(治療中の患者をベースとしない研究。患者は社会の代表例ではない)からは、ギャンブル依存症やゲーム依存症者の三分の一ほどは、他人の助けを借りずに独力で一年以内に依存から脱却できることがわかっている。薬物依存症では、まずありえないことだ。

 現在では、薬物もセックスも食べ物もギャンブルもゲームその他の強迫的行動も、すべてを含む幅広い依存症の定義に妥当性があると考えるに足る生物学的根拠が存在する。ここで考えられているのは、内側前脳快感回路の活性化と変化がすべての依存症の核心にあるということである。(P171)

 

中学校の同級生はパチプロになっていた。パチンコ発祥の名古屋だと当たり前の風景なのか、それは謎だけど。3年ぐらいで足を洗ったらしい。ずっと椅子に座ってるから痔になりやすいとか。プロの間は月20万は稼いでいたみたい。もちろん僕はギャンブル依存症になったことはない。けど、ゲーム依存症は耳が痛い。「独り桃鉄依存症」なんてアホの丸出しだが、かれこれ合計100時間はやっている気がする。。一番ダメダメなのはAOC。合計で1500時間ぐらい遊んだ。。唯一の救いは、2004年の時点でゲームが改悪されてつまらなくなったこと。もしAOCの改善点が治った版が発表されたら、また1000時間ぐらい遊んでしまうかもしれない。確かに独力で1年以内に依存脱却できるかもしれないけど、ギャンブル依存って、こういう思い出し欲求あるからなぁ。

 

病的なギャンブルは遺伝し、女性より男性にはるかに多い。ほぼ確実に言えることだが、ギャンブル依存症の人と近い関係にある人ほどギャンブルに病的にのめり込むリスクが高くなることには、生まれと育ちの両方が関係していりる。《略》男性の病的ギャンブルのうち35%〜55%が遺伝的要因で説明がつくと言える。女性ではそれほどはっきりしたことは言えない。《略》カジノを覗いたことがある人なら、ニコチン依存とアルコールと病的ギャンブルは並存する事が多いという現実を目にしているはずだ。そこにはドーパミン作動性の快感回路の障害という共通の原因が反映している。実際、病的なギャンブラーの場合、アルコール依存症の比率は米国の同年齢層全体に比べて10倍高く、喫煙率は6倍高い(P175)

 

学生時代の友達で、凄境遇の家に生まれた人がいた。

父親が真のギャンブラー。韓国で5億ぐらい当てて、駅前の一等地のマンションに住んでいた。確かに彼の家に行くと日中でも父親がいた。その彼は当時はギャンブルにはまっていなかったけど、今はどうかな?最近は年賀状ぐらいなのであまり分からない。今の日本ではギャンブル=パチンコ・パチスロ、競馬、競輪、競艇ぐらいなのかな。リアルなお金が稼げるという面では(オンラインゲームのRMTは知らない世界)。あまり周囲に該当者がいないのですが、遺伝性について特に否定したい何かがあるわけでもない。

 

不確実性の快感

「働いていて得た99ドルより道ばたで拾った1ドルの方が嬉しい。それと同じで、トランプや株で勝ったお金は気持ちをくすぐる マーク・トウエイン」

《略》

最近、サルやラットの実験から別のモデルが提案されている。それによると脳はもともとある種の不確実性に快感を見出すようにできているという。《略》サルの実験結果から導き出せる解釈の一つは、人間の脳はもともとリスクのある出来事から快感を得るように出来ているということだ。このモデルでは、ギャンブル好きになるのに初期の報酬は必要ないということになる。むしろ、見返りの不確実性そのものが快感を導く。

 進んでリスクをとろうとする神経系は、進化上も適応的だったというシナリオが提案されている。《略》人間の祖先では、狩猟をするオスのほうが、採取をするメスよりもリスクを取ることに適していた可能性があり、そのことが、現在の人類で男性の方がギャンブル依存や衝動のコントロール障害のリスクが高いことの由来となっているとも考えられる。

 

非常に良い本。素晴らしい。働いた99ドルと拾った1ドルの嬉しさは個人差大きいと思うけど。そういう意味ではギャンブル中毒の可能性は付き合っている時に分かるかもね。女性としてはかなり要チェックポイントかも。けど、こういう理論を知っておいた方が絶対に良い。このレベルはネット上のコンテンツでも、TV番組でも有りえない。来年の新入社員への推薦図書リストには入れなかん。

 

この本は他にも興味深い記述が多い、ある有名な痩せ薬は自殺を誘発するという副作用から禁止になったと。結局、プリミティブな欲求を下手に薬でコントロールすると、生きる意欲→ストレス耐性も減るんだね。。それは凄く納得。

 

---

いかん、ギャンブル欲に引っ張られすぎた。

本題に行こう。

 

美です。

いま、写真芸術論が気になっている。とりえあえず、ネットで見つかるのは以下の三つ。どれも興味深い。そもそも写真は芸術なのか? 

http://park7.wakwak.com/~ueno/archive/92/sv9206shashin.html
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub1-2.html
http://book.asahi.com/reviews/column/2012030900005.html

 

もっともっとプリミティブな地点から考える。芸術は何かしらのインプットが必要であり、何かの感覚器が必要。その中で味覚と触覚と嗅覚について、ここに訴える美ってあるのかな? 味覚については料理は芸術といってもいいのかもしれない。普通は料理の味だけでなく、皿も含んだ見た目もあるね。確か味覚は5チャンネル。嗅覚は香水。これって芸術のジャンルになりうるんだっけ? ラリックの香水瓶とかはガラス工芸だからなぁ。そして触覚。マッサージも最近は英国式、タイ式とかあるけど、やっぱり芸術のジャンルでは無いような・・・。嗅覚と触覚には癒しはあっても美は無い様に思える。

 

すると「癒し」と「美」の違いを考えなくては。。

そもそも美人って、癒しの意味しか無いのでは??

 

うーん、面白い結論になってきた。ここら辺を掘り下げて、コンパで美人の横に座った時に「美人って大変でしょ〜」から始まって、美と癒しの関係。「結局、美人は美じゃなくて癒しの意味しかないんだよ」と言ってみる。う〜ん、成功の時と失敗の時の差が激しいな。ただ、こうやって知識の幅を広げ自分なりに掘り下げいてく楽しさこそが大切。ここら辺の話を中学生ぐらいで聞けると将来が伸びるのは間違いない。遺伝が大事なのでなく、こういう環境が大事。それが家の無形文化財。今でも覚えているのは、名著の誉れ高い岩井克人の貨幣論。当時、親がハマっていて夕食時に話題にしていた。あのエッセンスを高校生で知れたことは今でも感謝している。二世論でも書いたけど、こういう環境ってあまり無いから、少しでも次代に繋げようとしているのかもね。これも、ある意味では、人の欲望か。

けど、何の欲望なんだろう。

 

 

 




浄楽寺不動明王 2018年3月

角度によっては「泣き顔」に見えてくる。それが最高傑作の証


仏像の顔が変わった。

足掛け4年、4回目のご対面にして一瞬、固まってしまった。数秒経過して台座が新しくなって仏像の位置が少し高くなったことに気づいた。この仏像は角度によってこんなにも表情が変わるのか・・・。だから、今まで以上に色んな角度から眺めた。今回はお土産コーナーが外に移った関係で建物の中が広々としている。閉館間際の時間だったので人が少ない状態。

 

仏像に向かって左側に立ち、

右手に持つ剣で右半分の顔が隠れる場所から、

左側の表情だけを眺める。

「憂い」というよりも「奥悩」、いや「泣き顔」にさえ見えてくることに気づいた。慌てて仏像の正面に立ち、自分の顔の前に指を立てて、片方ずつの表情を見る。こんなにも左右の顔が違うのか・・・この仏像が持つ深みをこれで客観的に証明できたのかもしれない。剣の奥で泣いている左顔の写真が広まれば、運慶の最高傑作かつ不動明王の最高傑作という事実が、やっと皆に伝わるかもしれない。

 

 

昨晩気づいて慌てて今日、御開帳に行ってきました。

ご開帳は3/3と10/19の年2回のみだけど、今年は3/1〜3/5までの特別開帳なんだね。というよりも、昨年秋の東博の運慶特別展に出展していたとは。。ポスターに浄楽寺の運慶仏が載ってなかったら行く気にすらなからなかったけど、流石に浄楽寺も揃えるのか。それは安心。けど、未だに運慶の最高傑作を晩年の無著・世親菩薩像にしている点はどうにかして欲しい。「迫真の写実は個性描写を超越し、普遍的な精神性を感じさせるまでに昇華されている。この無著、世親の両像は、運慶がどのうような信仰心を抱いていたかを代弁してくれるものとも言われる。それほど祈りをこめたリアリズムが際立っている」

 

この文章を否定するつもりはない。ただ、あの仏像を最高傑作と思う人は、同じ道を歩んでいる人だけでは? それって日本人の何%になるのだろう。確かに運慶自身の歩みの終着点とも言えるかもしれない。けど、悟った表情って、実はあまり伝わらないんだよ。それは大日如来や阿弥陀如来の仏像を見れば一目瞭然。あまりに感情を超越しすぎて、僕らの今とかけ離れすぎるから。その点、不動明王の良さ。普通は怒っているだけだから、反省心の薄い人には伝わらない。けど、この仏像だけは別。以前にも書いた通り、

 

憤怒の表情の奥に慈悲があるのが真の不動明王だし、それに唯一該当するのが浄楽寺の像。
お前がお前なりに苦労してきた事は分かっている。
 けど、お前はやっぱり愚かだったのだ。

という言葉が聞こえてくるほどの表情になっているから。

 

---

今回は土産物が増えた。東博の運慶特集で新たに作ったのだろう。この不動明王をピックアップしていて良かった。けど、アップの画像は右目が半分で切れている。せっかく若冲は鳳凰が一番良いというコンセンサスになりつつあるのにね。檀家の人?がお土産コーナーでレジをしていて、購入する時に雑談した。

「お土産ふえたんですねー。それも不動明王が。凄く嬉しいです」

「そうなんですよ。(略) 住職も不動明王が一番っていってます」

「不動明王以外は伊豆の願成就院が上ですが、不動明王は間違いなくこちらが上。これは国宝に戻すべきですよ」

「不動明王以外はあちらが上ですか・・・・」

「もっとこの不動明王のポスターカードの種類を増やして欲しいなぁ。このアップはいいけど、目が半分切れてるからもったいない」

 

ということで、ちょっとお姉さんを悲しませてしまいましが、ウソは言えない。。ほんと、あの泣き顔にみえる角度は、ちゃんと写真を撮って広めないと。そういう意味ではクラウドファンディングをやっていたのを全く知らなかった。そりゃ当然1万円ぐらい出しますよ。フラッシュ禁止でいいから自由に写真を撮らしてくれるなら2万だって痛くない。4年前に比べてお寺のサイトできて嬉しい限りだけど、もっといける。写経もいいけど、あの収蔵庫で座禅も企画してほしい。絶対行くよ!!

 

あ、あともう一つ。

前島密がこの運慶仏像群についてどう言っていたのか。せっかく運慶仏像群と前島密でアピールするならば、もっと両者の関係を掘り下げて良いと思う。

 

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前回のときにみた「頼朝の守り本尊」という説明板が無くなったことについて。どっかから「いい加減なこと言うな」と突っ込み入ったのかもしれないし、そもそも守り本尊ならば銘札の内容と矛盾するから。この点については、勝長寿院跡に行くしか無いね。鎌倉五山と合わせて、そのうち行きます。




若冲の守破"離" − 石峯寺/石峰寺の石仏群

[2016.6.4]
関西地方に一度も住んだことがなくても、京都観光は8回目。これだけ通った観光地は京都だけ。金閣寺・清水寺、嵐山といった有名所、枯山水のための龍安寺・南禅寺、半跏思惟像のための広隆寺、お茶と日本精神のための高山寺。今回は有名すぎて後回しにしていた東寺、伏見稲荷に寄りつつも、一番のメインは若冲の最期の寺として有名な石峯寺/石峰寺。正式名称が常用漢字じゃないと、Web検索時代には辛いね。Wikiは正式漢字で、お寺の正式サイトは峰だから。

TV番組で若冲特集を見て以来、いつか石峯寺に行こうと思っていた。さすが黄檗宗。細部にいたるまで中国的な建築デザイン。若冲自体が伝統的な日本画からはみ出ているから、個人的にはマッチしていると感じる。この門も手すりの卍も良い。

石峰寺には晩年の有名な絵があるけど、一番の見所は間違いなく石仏群。現在は写真禁止なので、正式サイトか禁止前に撮影された写真を見てもらうしかない。裏山としては想像以上に広いし、五百羅漢というには狭い。仏像のデザインとも交じり合って凄く不思議な空間になっている。

ある線を超せる人は、普通の人には無い業を抱えている。
 画家もそう。次に生まれ変わっても同じく画家になるぐらいの業。
 殆どの著名な画家の絵を見ていると、来世も画家になると思わせる業を感じる。
 けど、この石仏群を見ていると、「若冲は生まれ変わったら次は画家を選ばないだろう」と感じた。
 それが、若冲の守破


この事実を体感できたのが一番の収穫でした。

結局、これだけ若冲を追っかけても、彼の心の奥にある狂気の源は分からなかった。あそこまでの禁欲生活をしないとコントロールできないものなのに。その狂気の片鱗はこの先でも見つからないかもしれない。 けど、この石仏の笑顔は、そいういう拘り方を溶かす力がある。この表情こそが若冲の到達地点ならば、来世は画家になる必要がない。この体感は、若冲を突き詰めた人が行けば自然に感じると思うよ。


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 守破離という言葉は有名になっているけど、この言葉が生まれた由来についてネットに情報が無い。だから
こんな解説になる。大量に読んできた本の記憶だから原典を明示できないけど、もともとは古代中国の弓の名人の話。独自の流派を立てるのは"破"であって、"離"ではない。本当の離は、その存在からもFly Awayすること。

 細部まで覚えているわけではないが、その名人は弓を極めて、一本の矢で複数の鳥を打ち落とすようになっただけでなく、最後は矢がなくても念だけで射落とせるようになった。そして、最期は弓という存在も射落とすという行為も忘れて死んで行った。これこそが真の離。この由来を「超能力なんて有りえない。最期はボケただけだろ」という人とは同じ空気を吸えないね(笑。 少なくとも、離が自己流派という浅い解釈だけは辞めたほうがいい。この石峰寺にくれば真の離が体感できる。京都に行ってよかった。


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[2018.4.21]

守破離の原典をやっと見つけた。僕は他の人が紹介していた原文を見たけど、中島敦が小説化しているとはね。記憶にある内容よりもビビットで読んでいて純粋に面白い。

 

紀昌の家にび入ろうとしたところ、に足をけた途端に一道の殺気が森閑とした家の中からり出てまともにを打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来(じらい)、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方はけてり道をし、い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。 

原典にこの部分があったら絶対に記憶の片隅にある。だからこそ、これが中島敦独自の肉付けなんだね。いいじゃん! これまで『山月記』しか知らなかったけど、才能ある作家だとしみじみ思う。最後のくだりも感動した。この文章が皆に読まれれば、巷に広まった守破離の間違った解釈も無くなるだろう。国語の教科書は『山月記』でなくこの『名人伝』を収録すべきでは?と思うほど。




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