零と矛盾の禁欲

 

先週末、ネットを色々と調べて、時枝文法→三浦つとむ の先にあるのは川島正平だと思った。ところが絶版&Amazonで中古2万円。増刷するか、角川ソフィア文庫にでも収録してくれ〜 と思って、悩んでいたら図書館の書庫にあるのが判明。この週末で読みたかったので、金曜日の昼休みにダッシュで借りてきた。

 

 

で、今読んでます。こちらに書いたように吉本隆明が絶賛する三浦つとむの理論だけど、やっぱり色々と納得できてない部分がある。

 

零記号の使いすぎ

弁証法の使いすぎ

 

一番の違和感はこの2点かな。もちろん時枝文法の時点で零辞があったけど、三浦つとむは使いすぎな気がする。数学における零記号は「0」という形があるけど、零辞は形もない。以前にあったものを省略したならいいんだよ。過去を調べれば証明できるから。けど、時枝文法における零辞は本当に影も形もなくて、省略ですらない。

これは認めた瞬間に何でもありだよ。すげー卑近な例でいれば、恋愛において「私のこと好きでしょ」「はぁ!?」「そんな態度も行動も全くないけど、分かってる。零辞だからね」って無茶苦茶な世界。

 

そして弁証法フリークもダメだね。全ての対立が止揚を求めているワケじゃない。子供の喧嘩や、男女の性差や、単なる誤解もあるワケで。そこら辺もすべても「矛盾」という言葉を使われると、「家に帰ってもそんなノリで会話してたら奥さん出て行くぞ」と思える状態に近いのかも。零記号も対立と止揚の弁証法も物凄く強力なフレームワークだからこそ、使用には禁欲的にならないと。

 

三浦理論のコアである認識の分裂は凄く興味深いけど、「この俺が引き受けた」という表現における「この」の意味を「認識の分裂」まで使って説明する必要性は謎。単なる強調でいい気もする。「過ぎたるは及ばざるが如し」というけど、及ばざるよりは絶対に良いけど、それでも使い過ぎると本質からズレるのを痛感。ここら辺を川島氏がどう料理してくれるか、楽しみにしながら、いま、読んでる。そんな週末。

 

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[6/10]

川島正平氏本人のサイトがあって、メールアドレスが公開されていたからメールしてみた。幸運にも2,3度やり取りをさせてもらった。おかげで言語過程説に関する自分のスタンスが決まった。メールを書きながら、疑問点まとめたので、ここにおいておきます。

 

◆主体、客体と零辞の関係

『言語過程説の研究』P.152をみると、客体の認識とは「誰が表現しても同じ表現になる」と暗黙的に述べていると思える。
主体表現=個の意見表明、客体表現=客観的な事実描写として読み替えることで、時枝氏の理論も、三浦氏の理論も、川島様の理論も理解できるのか、三者の間に主体と客体の定義の違いは存在しないのか。
P.154を見ると時枝氏は主体表現は概念過程を含めない場合があるとしている。個人的にも「怒りの雄たけび」などは概念過程を含んでいないと感じる(雄たけびは言語では無いという区分なのかもしれないが)。

 

『言語過程説の探求 第一巻』には、「概念化されない認識はあるか」「表象をもたないと概念とは言えないか」「客体化されない概念はあるか」等の点では、人によって異なる解釈が行われている(P342) と書いてあるが、この差が実は一番大事で、零辞はその微妙な差をうやむやにする力があるように感じる。客体を突き詰めるのは難しく、「純粋な客観があるのか」、「客観=他人の主観」とするのか、の対立に近い。
これは片方が間違っているかどうかでなく、認識モデルの違い。世界観全体の中でのバランスの問題であり、認識モデルだけ取り出して議論してもしょうがない。

 

 

◆認識の二重化
頭の中で観念的な対象を設定して、それを見るとき、

 仝充太こΔ砲い覆ら、観念世界とその中の対象物を見ている
 ⊆ら二重化して、観念世界の中に自分の分身が存在し、それが像が見ている

この両者はモデリングの違いであり、どちらが正しいのか証明はできないと感じる。もちろん色々な言語の時制等を理解するときに、△里良い説明ができるのは非常によく分かる。だからといって、△鉢,鮴擇蠡悗┐道箸辰討い覯椎柔は零でない。特に「この」という単語は、殆どを,悩僂爐茲Δ粉恭个あり、「この俺」という表現まで△噺世錣譴襪函¬な違和感を感じる。

 


◆関係意味論
個を主として関係を従とするのが西洋哲学とすれば、関係を主として、個を関係の束として捉えるのが東洋哲学の本質だと理解している。関係意味論は、関係を主としたい衝動をもちながらも、それを言語化(自己認識)できず、理論化が中途半端となっている。この部分は、主関係、従関係という分類を作り、もっと考察を進めるべきだと思っている。

 




言語比較とパラダイム

ビバ働き方改革!

平日にこれだけ早く帰ったのは久しぶり。月の残常時間が平均20H未満だった静岡時代が懐かしい。あの頃に自作スピーカーとか遊びすぎた。。

 

コンピューター言語比較。4年ぶりだね、ここまで戻ってきたのは。

久々に零から調べたら面白いサイトが多くなっている。コンピュータにまったく疎い人は、コンピューター言語は一つだと思っているだろうね。ちょっとでもかじると、逆にコンピューター言語が沢山ありすぎてびっくりすると思う。自然言語の方はバベルの塔という、この世の言語が複数になった神話があるし、この展覧会に行くべきか悩んでいるけど。

 

※自然言語とは人間が日常的に使っているすべての言語の総称。コンピューター言語と比較した場合、こう呼ばれる。

 

ぶっちゃけ個人的には、自然言語は成人になってからの学習コストが高いだけなんだと思ってます。5歳児ぐらいまでにマスターしないと、スゲーめんどい。もしこういう脳の可塑性の問題がなければ、とっくの昔に世界統一言語があるような・・・。

 

コンピューター言語の数が多い理由はこちらが一番分かりやすい。シンプルに言えば、ドライバーだってプラスやマイナス、星型とかの種類もあるし、プラスドライバーにだって眼鏡のネジ用の小さいのから、大きいのまで沢山種類がある。道具ってそういうもんだよ。ぐらいかな。世の中、ハサミだって左手用と右手用があるんだぜ! みたいな?

 

その上で、詳しい人ならばこのサイトの意見はかなり納得できると思う。「ですがRubyはあまりにも良く出来過ぎているため、小学生でも使えるサブマシンガンみたいな感じがして使ってる人が怖いです。」なんて言い得て妙。PHPのことは知らないけど、Perlは後からObject指向を入れたから汚い。自然言語で言えばピジン語に近いのでは。2000年当時は消去法でRubyにしたけど、まさかここまで人気がでるとはね。

 

言語の種類じゃなくて、もっと奥あるもの。

それをコンピュータ言語では「パラダイム」という。以前の投稿で取り上げたガウディ本の発売から10年。そろそろその先が知りたいと思って調べたけど、このサイトぐらいか。こちらは要点まとまっていて、大学院の授業をこれだけ公開してくれているのは素晴らしい。Egsionは面白い言語だけどパターンマッチングを拡張しただけで「新しいパラダイム」と言っていいの? 個人的には実行モデルすなわち分岐と繰り返しのやり方に独自性がないとダメだと思う。

 

新しいコンピューター言語が必要だと思って考え始めたけど、どうやら本当に必要なのは新しいパラダイムらしい。まじかよ、こういうのやめてほしい。新しいパラダイムの作り方なんて大学院でも習ってないし、あのガウディ本にも載ってないし、どうにかしてくれよ・・・ここら辺をサクっとできる人っているのかな? 

◆論理型    解を求めるのに公理と推論ルールを用いる点が特徴である    Prolog、OPS5
◆宣言型    解を求める方法ではなく、解を記述する    XSLT、SQL、Prolog

◆書き換えモデル     関数モデルや論理モデルで与えられた表現を変形し、意味の自明な表現を導く。
◆代数モデル     処理対象となるデータを集合として捉え、 集合に定義された演算により、新たな集合の生成や要素の特定を行う。

 

 

自然言語にもどって考える。自然言語ではパラダイムとは言わないが、英語等のSVOや日本語のSOVとか「語順」は結構大きな違い。対格と能格の違いも面白い。日本人にとっては能格言語って目からうろこだね。ただ、何か違う気がするな。ある種の状況においては、対格言語の方が正しいし、違う状況では能格言語の方が正しい。

 

‖析困走る

太郎が本を読む

この場合は、動作主体はどちらも太郎だから対格言語が正しい。

 

財布が落ちた

ぢ析困財布を落とした

こちらの場合は、両方とも物理的に落ちたのは財布であって太郎じゃないから、能格言語が正しい。

 

なんでこういう議論を言語学畑の人はしてないの? それとも僕の探し方が不十分? 言語学を死ぬ気でやった人ってどこかにいないかな?宗教哲学は魚川氏がいるし、本当に必要になったらメール書いてみよっかな。

 

いかん、流石にそろそろ寝なければ。調べながら書いていたらもうこんな時間。。ぶっちゃけ、「うん、そこまで行けば新しいパラダイムが必要なんだよ。新しいパラダイムの作り方? 俺も知らん。世の中に本当のパラダイムなんて、5個か6個ぐらいしかないのだがら、そんなもの教えれる人なんていない」の一言が欲しいだけなのだが、それをスパッと言い切れる人ってどこにいるのかなぁ。

 

お、今日、改めて色々と調べて、「少数総合的言語」のページは凄く興味深い。昔はこのページ自体なかったような。エスペラント語には失望したからなぁ。マヤ語には期待できるかも。もともとマヤのピラミッドから始まったパワースポット探訪だから、もしかして点と点が繋がった?!ホントかよ(笑

 

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[5/16]

 

ウォーフの本が届いた。文庫本なのに3ページずつしか読めない。。3ページ読んだら30分は寝てしまうなんて、20年ぶりぐらいの経験。当時、ベルクソンの本はそんなペースでしか読めなかった。経験値があがると、「理解できない自分がバカ」「難解にしか書けない著者がバカ」の区別ができるようになる。今一番お勧めなのがこちらに書いた木田元の本。けど、いくら木田元であっても『現代の哲学』になると分かりやすさが減る。著者自身のメインテーマになると客観性が弱くなって、自己の想いのほうが強くなる。かっちりとした哲学書でもその傾向が出るのは、ある意味で面白いのだが。

 

パワースポット系ではホピ族の第4の太陽の話は凄く有名。「世界は3回滅んだ」という説は「神々の指紋」の立場からすれば、すんなり納得。けど、まさか言語体系自体もここまでぶっとんでるとは。。

ホピ語にはわれわれの言う「時間」とか、過去、現在、未来とか、持続や継続とか、《略》 といったものを直接指すような語も文法的形態も構文や表現もない。《略》

それでいて、ホピ語では宇宙の全ての観察可能な現象を実用的、あるいは操作的な意味で正しく説明し、記述することができるのである。《略》

このようなホピ族の見方では、時間の概念が消失し、空間も変貌し、その結果、われわれのいわゆる直感、ないしは古典的なニュートン力学に基づいた均質的で同時的は、無時間的空間というようなものではもはやなくなるのである(P.15)

 

この時点であんぐり。過去形も未来形もない。でも正しく説明できる。オイオイ・・・・いかん瞼が重くなってきた。。

 

確かにトコトン突き詰めたら、最後はここにくる。以前にサイトに書いたように「唯心論的物理学の誕生」を発売当時に読めたのは大いなる幸運。この人こそが現代のガリレオ。100〜200年後には証明されると思う。その時までに人類が滅んでいなければ。どちらか二択しかない。そう断言できる本。今の常識である「時間と空間と意識のモデル」は不十分。だけど、文明は発達している。なぜかって、レベルの低い部分だけで回しているから。DNA操作と核操作は禁断の技術。両方持った文明は意識レベルを上げないと亡びる。以前にどっかの本で読んだけど、正しいと思う。

 

 

今の現代社会の世界モデル・言語体系と、ホピ・アステカ・マヤに代表される世界モデル・言語体系との中間地点を見極めて、ウォーフが真に望んだ「少数総合的言語」を作り上げ、それをコンピューター上に載せること。そんだけじゃん。僕がすることは。

 

ずっと先人がいないと思っていた。ちがう。ウォーフこそが先人。やっとわかった。彼の見果てぬ夢を引き継ぐのが僕の仕事。

 

物凄く簡単に言えば、「祈る」意味。それをどうモデリングするか。ここが山場なんだと感じる。

 

今の人工知能はワトソンだろうとペッパーだろうと「祈り」のモデリングから逃げてる。それが当たり前なんだけどね。現代社会では、祈る効果は「運を引き寄せる場合もある」ぐらい。この落し所はそんなには間違っていないとも思っていて、HHAIもこれでスルーしようとずっと思っていたけど、、、

 

そもそも現代の科学では祈りの効果を証明できない。けど、気づいたら祈ってることは多々ある。祈りの力は欲望と反比例。これが直感的な真実。エゴが零になれば祈りの力はMAXになる。祈りMAX=奇跡の発生であり、悟る=エゴが零であり、奇跡の発生こそが凡人にも分かる悟りの証明。けど、エゴが零になった時の想いは全て相手目線。すると、その相手の心にエゴがあればいくら尊い想いであっても現実化しない。これが極論。

 

 

やった事ある人は痛感すると思うけど、3P読んで、30分寝て、そんなの数回繰り返したらもう寝れない(笑 だから昔の写真を漁ってた。何が一番ショックだったって、このチェチェンイッツアのピラミッドはもう上に登れないこと。アメリカ?のデブなオバサンが転げおちて死んでしまって、それ以来禁止なったと現地で説明された・・・このピラミッドの上に登れるなら、必ず現地に再び行く。当時はオーブが撮れなかったけど、今ならかなり撮れると思っている。まあこれもエゴなんだけどね(笑

 




Only1とNo1の違い

自己実現って何?

 

以前はマズローをアレンジして、自己実現=「死んでも名を残したい」と決めたけど、HHAIの設計も結構進んで、やっとここに戻ってきた。もちろん自己実現=「自己の願望の実現」が基本だけど、願望の一番上位が「死んでも名を残したい」だと思っている。本当ならば「永遠の生命」だが、それは最大権力者=秦の始皇帝でもダメだったから次善の策として「名を残したい」

 

始皇帝に命令されて不老不死のために徐福が東方の海に蓬莱山を探しに行って、日本各地に徐福伝説があるけれど、興味深いのが熱田神宮。過去は伊勢湾がもっと奥まで入り込んでいて、熱田周辺は島になっていて、その別名が「蓬莱島」。徐福は熱田の地に来たという伝説があるらしい。だから、「ひつまぶし」で一番有名な熱田神宮の隣にある店の名前は「蓬莱」

 

おっと話がそれた。

自己実現を考えるならば、No1とOnly1の違いは掘り下げておくべきだと今日思った。結構、いろんな人が考察しているね。ネットで簡単に見つかる中では、こちらこちらは非常に納得。けど、もう一歩掘り下げれると思う。だから研究途中のメモ代わりとして書いてます。

 

ウチの結論から先に言うと、こんな感じ。

|かの作った軸で1番を目指す道に、真の主体性は無い

⊃祐屬話でもOnly1である

ただし、誰の憧れにもならないのなら、独りよがりのOnly1

い世らこそ、自分なりの軸を作りつつ、その軸をアピールする必要がある

 

どんどん軸を細かくしていけば誰だってOnly1になる。「○○県に住んでいる」「身長が○〜○cmの範囲である」とか。もちろん一般的には男性なら175cm以上が憧れになる(たぶん)。けど、2m以上だと逆に敬遠されるかも。「男の身長は173cmが一番です」とか評価軸を作ってもいいけど、「なんで?」と聞かれるのがオチ。

 

結局、,鉢い覆鵑世茲諭B臉擇覆里蓮もちろん世間一般的に手軽に通用する軸はある。顔の作り、年収、頭の良さ、スポーツの上手さとか。けど、突き詰めると一番良く分からないのは、

 

No2との差がほとんどないNo1ってどれだけ価値あるの?

もちろんNo1を達成した過程はその本人にとっては大きな価値。祝勝会でも1位と2位なら全然違うね。けど、「No1として証明された能力の活用=仕事の依頼」という文脈で見れば根本的には可換性(交換容易性)では? いくらプロでもいくらNo1でも稼げなければ、現代社会で生きていくのは難しい。だから、いくらNo1でもNo2とほとんど差がなければ「君じゃなくてもいい」状態になる。そういう意味では、可換性が一番のポイントだと思ってきた。

 

今年も新人教育が始まったけど、藤原和博氏の『現実的に稼ぐために、100万人(100×100×100)に一人の存在となる方法』については毎年伝えるようにしている。やっぱりこの考え方こそが大事。これって中学1年生ぐらいで教えるのが理想だと思ってます。

 

 

個人的なことでいえば、最近、山の雑誌を読んでて「山で珈琲を飲むのが流行している」という記事で、山×珈琲の専門家が登場して、かなりショックを受けた。おいおい登山歴5年程度の珈琲も適当な検定もってるぐらいで雑誌に登場させるな(笑 本当の山のプロを目指すなら20代で7000mに行かなくちゃいけない。そのためには登山部で有名な大学が一般的な道。最近のあの娘は登山の凄さよりもお金の凄さの方が気になるかもね。珈琲のプロになるには?→バッハで修行でしょう。富士山10回+北岳6回+日本の3000m全制覇かつ自家焙煎10年なので、いっちゃわるいけど山×珈琲では日本TOPだと思っているのですけど〜〜〜

そういう意味では、Black Music理解、登山、珈琲、宗教哲学の各ジャンルにおいて100人に1人のレベルを軽く超えているけど、誰もこれらを組み合わせた軸を良いと思っていない。というシンプルな現実(笑

 

ジョブスは「点と点はいつか繋がる」とあの有名スピーチで言ったけれど、繋がらない点と点もあるような・・・そんな意味ではせっかくの藤原和博氏の理論の反例になっている気もしますが・・・個人的には、

 

最初から組み合わせを目標にするのでなく、まずは一つの軸でNo1を目指し、それが出来なかったときに、改めて次の軸を探す方が良いと思っています。これは直感レベルだから上手く理由は説明できないが。No1を目指すなら膨大な時間を費やす必要があるけど、その点で藤原氏の理論と対になるのが、『プロになるには1万時間』  最近はこの理論も色々と深堀されているんだね。そりゃ当然か。プロという単語一つとっても世界No1〜飯が食えるまでの幅がある。ただ、個人的にも「おおよそ1万時間」は納得。

 

一番困るのが、恋愛における可換性。

一見、分かりやすい共通軸で皆が競争しているようにみえて、実は個性的な軸が大事だったりもする。それは、もちろんお互いが普通からズレた境遇の場合だけど。今回の貴乃花の息子の結婚ニュースはあまりにそのまんま。そして、結婚相手を決める軸に「普段、話をする異性」を入れれるかどうかが、実は一番のミソなんじゃないかと、最近思っている。学生から社会人になって考え方を改めたことは多いけど、その中でも大きいのが「社内結婚に対するスタンス」 恋愛相手の人となりを知るのにデートだけじゃどれだけ回数増やしても無理。その点、仕事で接点があるのは大きい。

 

多分、この世で誰も言っていなく、(これだけ膨大な本やサイトを読み込んできても見た事が無い)、けど今の自分自身が一番大切だと思っているのは、「i.恋愛相手 ⇒ 普段、話をする異性」 でなく、「ii.普段、話をする異性 ⇒ 恋愛相手」に反転すべきという点。普段、話す異性がいない/良い人いないなら、「iii.本気で出会いの場を探せ」なんだろう。iiもiiiもするガッツがないなら、そりゃ結婚まで行かないって。

 

その上で、結婚生活が続くかどうかは、ライフステージの変化に合わせてOnlyの軸を変えていけるかどうかだと思っています。子供が生まれても、「この子にとっての父親/母親は自分しかいない」という軸が弱いと、そりゃ離婚にもなるかもね。そういう意味での「子はかすがい」ということわざは深い。

 

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人工知能とは理系の中で一番文系に近い分野であり、コンピュータに載る哲学を作っている。哲学、心理学、言語学、宗教学、生物学、数学を網羅する必要がある。大学時代はアホみたいにこれらの本を読み込んでいたけど、その上で空論にならないように、卑近な例(SMAPの歌)からリアルに体感できる世界モデル=サブセットを作っていく必要がある。だからディープラーニングで上手く行くと思っている人は世の中舐め過ぎだと思ってる。




神武東征の謎と吉野←吉野ヶ里のすり替え

 

GWは蔵王堂御開帳にあわせて熊野三山と吉野に行ってきた。ついでに大峰山にも登ってきた。熊野三山は真の元宮である神倉神社から始まり、熊野本宮では当然大斎原にも行く。奥吉野では天河大弁財天だし、吉野では吉野水分神社も必須。ここら辺は詳しい人なら立ち寄る場所でしょう。

 

今回の旅行で収穫だったのは、宿の近く&時間が余ってたまたま寄った尾鷲神社。wikipediaに情報が無いくらいマイナーなのにこの大楠は凄い。紀伊半島の反対側の藤白神社の大楠と対になっていると感じる。藤白神社の大楠は明治の偉人:南方熊楠の産木だし、父方の故郷なので何度も行っているが、尾鷲神社の大楠の方が凄いと思う。今回、これだけ色々と行って、一番オーブが撮れたのが此処とはね。

 

 

帰ってきて、散々調べました。個人的にはサッカーファンではないので、そこまで八咫烏(ヤタガラス)に興味は無い。逆に和歌山市から海南市に向う途中に「神武天皇の兄の陵」があるのがずっと謎だったけど、見つけました。

◆神武が来た道

これを読めば一目瞭然じゃん。古代の大阪がほとんど湖だったのは以前から知っていたし、唐の歴史書には倭と日本が別の国だと書いてあるのも知っていたけど、ここまで九州王朝説が完成していたとは・・・。欠史八代も「奈良盆地を段々制圧していた」と言われるとすんなり納得。

 

◆持統天皇が何度も行った吉野は吉野ヶ里のこと

これが一番の衝撃。百人一首漫画「ちはやぶる」を映画化する前に、この事実をちゃんと国民全体に伝えろよ・・・。今回、奥吉野には桜が残ってた。「これが有名な吉野の桜か」と思っていたので、「持統天皇が吉野に行ったのはほとんど桜の季節じゃない」と言われると、妙にこの説も納得してしまう。こちらでは吉野について古田史観の点からまとめていて非常に分かりやすい。阿部仲麻呂の有名な和歌天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かもについてもかなり衝撃だけどね。。日本の国家「君が代」の故郷が九州の博多湾というのも衝撃。

 

色々と衝撃でネットで読める文章を散々読んでいたら、ほとんど2日経過した。。

天智天皇と天武天皇が兄弟じゃないとか、天智天皇が殺されたとか、井沢元彦の「逆説の日本史シリーズ」の読者として以前から知っていたけど・・・。ミステリー小説を読むくらいなら、歴史ミステリーを追いかける派だけど、たまに大当たりがある。今回の古田史観は本当に凄いファンサイトができるのも当然だね。

 

 

ここまでストイックに極めた学説を読むと、通説(=教科書記載)よりも信じるし、歴史の奥が見えてくるとパワースポット=伊勢神宮に行く人に、その程度の歴史認識で行くなら伊勢神宮もディズニーランドも変わらんよ、と思ってしまう。そんな意味では世界遺産になってブームになっている熊野古道だけど、たまたま神武が東侵する時に手伝ったから歴代の天皇が崇拝して大きな社をもらっただけで、それがなかったらそこら辺の田舎の山奥の独自の神のままだったのだろうね。熊野三山の神様も。

 

パワースポットがブームといっても、大事なことは世のブームに惑わされる事なく、自らに縁のある土地とそこに祭られている神を探すことなんだね。これを痛感したのが今回の一番の収穫なのだろう。神社の格は有名度や社のサイズでなく、どれだけ周囲の人が継続的に清め、盛り立てているか。あまりに商売に走ると堕落するのは全ての宗教の共通。明治神宮をみても一目瞭然のように、今の神社の格は天皇家にご利益があるかどうかが一番の軸。そんなのウチに関係ない(笑 

 

僕の故郷の神社は「恋の三社参り」で盛り上がっているから、これは素直にプロデュース力として賞賛したい。確かにあの連理木は見る価値ある。日本に5つしかないとは・・・。人は生まれる場所は選べないけど、住む場所は選べる。自ら選び取る縁もあるのだから、その点から言うと、登山に良く行く身として穂高に降りた穂高見のことが気になっている。古田氏のサイトに「乗鞍から穂高を遥拝していた」と書いてあって、山岳信仰に関する理解が深まった。日本1位の富士山と3位の穂高には独自の神がいるのに、なぜ2位の北岳にはいないのか、それはずっと謎なんだけどね。今のご時世で山岳に引きこもる生活は選べないけど、窓から富士山と北岳が両方見える場所に住んでいる。それが今できる最大限の選択。

 




人工知能における美意識と恐怖


昨年(2016)5月に放送されたNHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生義治 人工知能を探る」は確かに見ごたえのある番組だった。あの番組の取材を通じて思索を深めた羽生さんが本を書いたならば問答無用で買う。

 

羽生さんと取材にいくと、先々で驚くような出来事が起きた。《略》 その理由は、人工知能に携わる世界中の研究者が、羽生義治という現代最高の知性が人工知能をどう考えているのか、興味津々だったからだろう(P.62)

アルファ碁を作ったハサビス氏が羽生さんのファンだったからこそ単独取材が出来て、番組もあそこまでの完成度になったんだね。

 

 

第二章 人間にあって人工知能にないもの −美意識―

実のところ、私は、棋士が次に指す手を選ぶ行為はほとんど「美意識」を磨く行為とイコールであるとさえ考えています。筋の良い手に美しさを感じられるかどうかは、将棋の才能を見抜く重要なポイントです。(P.76)

 

直感をもうちょっとブレイクダウンしたのが美意識であり、将棋が碁盤の上で駒を移動させる作業であり、画像情報だから、美意識と結びつけやすい点もあるのだろう。

 

人工知能にはどうもこの「美意識」にあたるものが存在しないようです。それは一体、なぜでしょうか。私はその理由は、人工知能に「恐怖心がない」ことと関係していると考えています。《略》私は「人工知能が恐怖心を覚えるようになったときが、本当の恐怖かもしれません」と冗談めかして言うことがあるのですが、(P.83)


すべての恐怖のベースには「死」があって、生と死は両面であり、その真ん中に性がある。昨年末から色々と考えてきたけど、羽生さんも美意識から恐怖という道を辿っていて嬉しかった。羽生さんの良い意味で少年っぽい表情を見ていると、性の深みを突き詰めるタイプの真逆に見えるから、ここら辺はヨヨチューを暫定解としているんだけどね。

 

人工知能は「接待」できるのか

「接待する将棋ソフト」 それは人間を強い手で打ち負かす将棋ソフトとは、全く方向性を異にするものです。むしろ一生懸命人間の相手をし、気持ちを慮り、相手に気づかれないように棋力を調整し、接戦の末にちゃんと投了してくれる―そんな「接待ゴルフ」のような将棋をしてくれるソフトなのだそうです。飯田さんは、そんな研究を10年以上も続けているそうですが、その進捗状況を聞くと、なかなか難しそうでした。《略》「接待将棋」では、本当は勝てるのに、その力量差がばれないようにしつつ負けるという、人間にとっても大変な行為まで目指しています。《略》ただ負かすだけでなく、例えば攻める形の基本形など、何かしらその子が学べるように、局面を誘導していくのです。(P.112)

 

この本で一番面白かったのがこの記述。最近、森本学園問題で「忖度」が流行っているけど、忖度よりも接待の方がレベルが上だね。

 

ペッパーの感情地図についてはもうちょっと情報が欲しかったけど、いいや。ソフトバングもアルデバラン社のマネジメントに失敗しているみたいだし、感情分類については誰よりも考えてきた実感がある。6つでいいんだよ。30も40も持ってくるな。

 

それにしても人工知能の研究者以外が正面から「フレーム問題」を取り上げるとは。羽生さんもそこまで考えているんだね。本ではフレーム問題の紹介レベルであり、その解法の方向性は触れてない。そりゃ羽生さんは棋士であり人工知能の研究者ではないから。けど、この本は人工知能の研究者と見間違えるほどのレベルの文章。ついつい羽生さんが考える解決方法を聞きたいと思ってしまう。うちは逆知識階層で攻めようと思っているけど、羽生さんの直感は本当に知りたい。

 

本の最後の方は一般的な読者を安心させるために色々と書いているので、そんなに楽しめなかった。言語にディープラーニングが使えない理由を最先端の研究者はうすうすと気づき始めているけど、社会全体に対して分かりやすく説明できない。この本も「多言語翻訳と言語理解は全く違う。多言語翻訳だけでも十分に社会で有用」で記述が止まっている。もちろん言語にディープラーニングが使えないのを証明するのは不可能。そうであっても、「人工知能の核心」とまで題名をつけただけのことはある中身。非常に楽しめました。

 




最高傑作不動明王 〜未来編〜

「おまえ、この先のこと、真面目に考えてるか?」



これまで最高傑作の不動明王は浄楽寺だと思っていたけど、まさかもう一つ存在するとは。。。 あの不動明王本でも取り上げられているが、写真が粗過ぎて分からなかった。現物を目の前にして痛感。この真木大堂の不動明王は日本最高傑作です。

「怒りの深さ」は、受けとめる側に「愚かの深さ」がないと、分からない
殆どの不動明王は単に怒っているだけ。怒るのが仕事だから文句言う話じゃないけど、「怒りの深さ」は歴然とある。この二つの仏像はそれぞれ旧国宝の重文。だから国宝を選びなおした時、選定者は「愚かの深さ」がなかったのだろう。そして、仏像=画像情報を言語にすることも出来なかったんだね。

浄楽寺の不動明王の表情を一言で言えば、
お前がお前なりに苦労してきた事は分かっている。
けど、お前はやっぱり愚かだったのだ。


この時点で最高傑作に決まっている。浄楽寺の不動明王の写真は顔のアップが出回っているから、センスがある人、行き場のない愚かさを抱える人が見ればこの言葉が伝わる。そして、この真木大堂の不動明王のメッセージが冒頭に掲げた、

おまえ、この先のこと、真面目に考えてるか?

感動というよりも放心。床に座り込んで10分以上、眺めてた。そして色々と分かってきた。はっきりいって、この仏像の火炎(迦楼羅焔(かるらえん))は邪魔。後から作った(江戸時代?)らしいが、火の鳥の顔になっているデザインはファンキーでレベル高い。個人的にはガッチャマンの被り物を連想させて親近感もおぼえる。

けど、せっかく未来を見つめている不動明王の視線を塞いでる。
殆どの不動明王は視線を観覧者に合わせてくる。もちろん相手の目を見て怒るのは基本中の基本。浄楽寺であっても見据えてくる。けど、この不動明王だけは視線を斜め上に外すんだよね。それがオンリーワンでありナンバーワン。帰ってきてネットを探すと顔を抜き出した解説を見つけた。写真サイズから想定するに公式版を切り取ったのだろう。せっかく顔を抜き出してもコメントは火炎だけ。内容を読むとかなり仏像に詳しいのにね。あの不動明王特集本でも触れてないし、ネットにもいない。だから、未だかつて誰も気にして無い。それは逆に僕だけ愚かな証明かもしれないが、、、

仏像にハマるなら、同時に己のカルマも見つめないと
 




初めてこそ最高の登山体験を


「高尾山は麓から登りました。次はどの山がオススメですか?」 会社で趣味は登山・珈琲と言っているから、たまに聞かれることがある。「うーん、東京近郊ならばケーブルカーからの標高差600mの大山かなぁ。けど、個人的にはもっと高い山に行って、ちゃんと富士山を眺めた方が感動すると思う。そんな意味でイチオシは金峰山かな。5人以上そろったら連れてってあげるよ」

昨年の4月、瑞牆(みずがき)山荘までの登山バス運行開始と共に登ってきたけど、あの時は頂上から富士山が見えなかった。富士山が見えるまでは何度も登るの主義なので、秋に再び行こうと思っていた。大弛峠(おおたるみとうげ)は富士山の5合目よりも高い。車でいける地点としては日本で最も高いから、登山の初心者でも誘おうと思っていて。

それだけでなく、夏頃に兄貴に言われたんだよね。「うちの子を高尾山に連れてってくれないかな」「あんな簡単な山なら君らの家族で行きな。同じ300mの標高差だったら日本で一番高い峠から横移動で頂上にいける金峰山の方が絶対にオススメ。俺は幼い頃に仁藤さんに富士山とか色んな山に連れて行ってもらったのは感謝してる。ああいう登山体験こそ子供に与えるべきなんじゃないか」「君の持論はとてもよく分ります。仁藤さんに富士山へ連れて行って貰ったことは、僕も財産だと思っています。 ただ、うちの子は保育園児(年中)で、まだ昼寝も必要な年頃のため、往復5時間のハイキングは、残念ながら、現時点では現実的な選択肢ではなさそうです。《略》 小学校に入った後なら、なんとかなるでしょう。またその頃に、ぜひご相談させてください。 」

会社の新人達は合計4人だったけど、元から縦走予定だったので、連れてくことにした。11/3に行ったけど、その前日に雪が降ったため、木々に薄っすらと雪が積もっている状態。「お兄ちゃんたち、今日は本当に良い登山日和だよ。一年間でも一番良い日じゃないか」と登山バスの運転手さんに言われるぐらい。当然、富士山も見える。4人とも2000m級の山は初めてだったけど、(1人は高尾山すら登った事なかったけど)、それでも特に問題もなく頂上まで往復しました。

大弛峠に夕方戻って彼ら4人は下山。途中で「花かげの湯」で温泉に入って、東京に着いたのは21時前。僕はそのままテント泊で奥秩父縦走してきたけど、次の日はもう雪が全部解けてた。そんな意味でも粉雪をさっと振りかけたような淡い雪景色の登山。登山道は普通にスニーカーでも歩けるのに、この風景。奇跡のような一日だった。




石と意志 〜原宿にある硬派な鉱石店「コスモスペース」〜


このコーナーでは巨石を紹介するのがメインだけど、この店だけはどうしても紹介したくなった。巷ではパワーストーンが流行ってる。手作りアクセサリーの材料を売ってる店にもそういう一角はあるし、占いとセットになった店も多い。けど、個人的にはパワーストーンは曖昧な部分が多すぎる。

 〕浪鮨緇修量簑
◆|綽А染色の問題
 地獄界と巨石とパワーストーンの関係

,砲弔い討録佑砲茲辰涜崚戮違う。ここら辺が模範解答なのかな。個人的には天然派。その上で、日本で唯一の水晶がご神体の金峰山の頂上に持っていってパワーを注入することが大切だと思っている。△問題。人間では区別できないレベルまでいってるんだって? いまLinkを引っ張って来れないけど、wikipediaでなんかの石の説明に書いてあった。ここら辺は突き詰めると「すっぴんと化粧の関係」と同じなのかも。こういう意見も納得する。ヒーリング効果とか精神的なパワーとか、科学的に単純に証明できる世界じゃないからこそ、よりラディカルになるのかもしれない。については純粋に自分の中の整合性の問題。岩が地獄界とマッピングしているなら、宝石はどんな魂? 「石の世界にも地獄と天国がある」という説明も可能なのかもしれない。そんな意味では、巨石を見て、水晶ブレスレットをして、チグハグかもね。


石のもつパワーに依存しない。あくまで整流作用・清流作用だと考える。
結局、一番大事だと思っているのはこの態度。零から有を生むワケじゃない。石界(Stone Layer)でそれが可能ならば、生命界が存在する必要は無いのだから。顔色が心身状態のバロメーターだとすれば、身につける宝石の輝きも心身状態のバロメータ。もちろん、顔色は物質レイヤー・感情レイヤーだし、宝石の輝きは体を包む○○や△△レイヤー(何か用語があったはずだが忘れてしまった)。

 

石は意志をクリアにする。

 

そんな意味では、そもそも石を扱っている店のオーナーの意志こそが大事だと思っている。石と人との正しい距離感。近すぎることもなく、遠すぎる事もなく。

 




金太郎岩



金時山の下山中、大きな石が目に入った。コケや草や低木も生えていたから形が分かりにくいけど、巨石に見えた。石を囲むように進む登山道を下って正面に降りた時、「金太郎宿り石」と書いてあった。想像以上にでかい。そして、とっさに桃太郎岩を思い出した。あちらの方が岩になにも付着していないし、一回り大きいと思うけど、この金太郎岩もなかなかのもの。ネットで調べるとかなり写真がある。関連画像に桃太郎岩が出てくるのだから、よっぽど皆、この両者の関連が気になるのだろう。

こちらの金太郎岩は注連縄があるから岩の間に入れない。というよりも、桃太郎岩に注連縄が無い事が異常の気もするけどね。しょうがないから岩の前で祝詞。岩のサイズはこちらの写真の方が分かりやすいんじゃないかな。

沼津に住んでたころからずっと金時山は行きたかったけど、愛鷹山とか登っているうちに月日が経ってしまった。今回は12/30に新宿から高速バスで一気に乙女口の登山口。登山というよりハイキングレベルだけど、 頂上からも綺麗な富士山が見えて良かったです。確かに高尾山の次のステップアップには丁度いいんじゃないかな。12/30なのに思った以上に頂上に人がいてびっくりしたけどね。

 

■浦島太郎岩
さてさて、この2人の太郎の岩があるなら、やっぱり気になるのは浦島太郎。けど、浦島太郎岩と検索しても出てこない。唯一は寝覚ノ床か。木曾御岳は幼い頃に登山・スキーで何度も行っているけど、ダムが出来て景勝地としての良さが減ったときいたことがある。本当ならば、水しぶきをあげながら川が流れていたのだと。

どちらにせよ、この文脈でいう浦島太郎岩ではないから、本当の浦島太郎岩は海中にでもあるのかもね、とふっと思った。

全体的には桃太郎岩の方が感銘度数は高いのだけど、この金太郎岩をもっと下ると公時神社奥の院の岩がある。こちらの岩は凄く物悲しくて、二つに綺麗に割れた岩を見慣れた立場から言うと、まるで流産した魂のよう。金太郎には弟が生まれるハズだったのかもね。ここら辺の感想は、両方見た人ならば感じると思う。想像以上に公時神社はよかった。金太郎は幼名。本名は坂田公時。神社の名前も公時神社。ならば、金時という名前は改ざんだね。それが分かっただけでも行った価値はあった。
 




名古屋に過ぎたる二つの美術館

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐のかしらに本多平八」
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」


なぜだか分からないけど、過ぎたるものは二つ。それが日本の伝統だと勝手に思っている。ならば、

「名古屋に過ぎたる美術館が二つあり ティファニー美術館とマコンデ美術館」
93年当時かな、何かの記事で知った。知った時には両者とも名古屋から移転をしていた。そんな面でも「過ぎたる美術館」だったのだろう。高校時代はよく今池にあったペルー民芸品店や本山にあったアフリカ民芸品店に通ってた。だからこそ、19の夏に友達誘って伊勢に移ったマコンデ美術館まで行ってきた。車の免許とって1年も経過してなかったから、当時の伊勢志摩高速道路の片道一車線の運転に疲れたという記憶が頭の片隅に今でもある。

あれからちょうど20年。昨年秋の不動明王の時に「黒檀の不動明王」と言われて、「マコンデ行かなくちゃ」と思った。彫刻の素材としては石が一番なのかもしれないけど、個人的には稠密な漆黒をもつ黒檀をNo1としたい。ここまで素晴らしい材料を家具に使うなんて勿体なすぎる。マコンデ美術館についてはこちらに書いたので、ここではその他の話題として、名古屋の美術館・博物館を考えてみたい。

現在、名古屋にある美術館・博物館で一番の全国区は、長久手にあるクラシックカーを集めたトヨタ博物館だと思う。美大生がスケッチにくるというのはダテじゃない。名古屋駅からちょっと離れた陶磁器のノリタケが運営しているノリタケの森もイチオシ。ここでは皿に絵付けができるのもポイント。僕は白峰三山を描いた。富士山が描かれた皿はゴマンとあっても、日本2位と4位が並ぶ白峰三山を描いた皿はもっと増えていいんじゃないかな。

もちろん名古屋の美術のSoulは徳川美術館。尾張徳川家の美術品を保管している本美術館がなくなれば、名古屋は名古屋じゃなくなる。それぐらいの位置づけ。その上で、日経サイエンスで連載していた博物館レビューで絶賛されていたトヨタ産業記念館。 入口にある円形の織物機は豊田佐吉の見果てぬ夢。それにしてもあの博物館レビューは凄かった。もう5年前なのかな、10年前かな。外国人の方が書いていたけど、本気の愛と情熱があった。あのレビュー文章は自分自身の目標の一つ。レビュー文章だけを単行本にする価値がある。


最初の話題にもどる。20年ぶりのマコンデ美術館は昔と同じたたずまい。おかしいよね、本当ならば東博で企画展をやるべきなのに。そして島根に移転したティファニー美術館。今回、改めて調べたら閉館してるんだね。この先、どこに移転するのだろう? どれだけ誘致されようとも、流石に島根だと大丈夫かと当時思っていたけど。。。今では箱根のラリック美術館もあるけど、やっぱりティファニーも見てみたい。

 




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