シンギュラリティ? そろそろ足元見つめようよ

 

2030年展望と改革タスクフォースの委員を務める新井紀子(国立情報学研究所社会共有知研究センター長で、受験ロボット「東ロボくん」の開発者)は、非現実的な展望だとして「シンギュラリティが来るかもしれない、というのは、現状では『土星に生命がいるかもしれない』とあまり変わらない」「土星に土星人がいるかもしれない、ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか」などと批判している。

 

こちらに載っていたけど(ついでに画像も借りたけど)、ほんとこの通り。

 

 

というよりも、新井先生もこういう発言をメディアでもちゃんとしてよ、、と痛感。せっかく科研費の追い風が来ているのだから、自ら逆風をおこしたくないのもわかるけど、、、人工知能はいつだって波が激しくて、社会から大きすぎる期待&批判を交互にうけてきたわけじゃん。そろそろ過去に学ぼうよ。

 

巷では未だにシンギュラリティの熱が冷めてないけど、そろそろ振り返って内省したほうがいいのでは。シンギュラリティ説の誇大妄想さについては脳科学の専門家の本を読んでいるときも書いてあった。どの本か正確には覚えてないから引用がアヤフヤだけど、いくら計算速度が指数関数的に伸びても、専門分野がブレイクスルーする(論文数が指数関数的に伸びる)のは新しい理論が呼び水になってから。今、そんな理論が出来たわけじゃない。計算機の速度向上によって解析スピードがあがって想定外の関連性が見つかる可能性はゼロではないけど、その可能性を最初から組み込んでおくのは夢物語と変わらない みたいな解説で当時(2年前かな)、すんなり腹落ちした。

 

 

結局、画像処理以外には本質的に何も進んでいないのは以前に書いた東大ロボットの断念の時点で明白じゃん。何度も言うように、Deep Learningといってもニューロコンピューティングの一種であり、70年代からどうやってニューロレイヤー上にロジカル層を創発させるかが問題だったじゃん。それが解決したならば、俺もシンギュラリティーを50%信じる。いまは冷静に見て10%。土星の生命と言い切った新井先生と同じスタンス。ちなみにこの宇宙に人類以外の知的生命体の可能性は90%信じるし、この地球は宇宙の端の銀河系の端だから人類よりも知的な生命体はいて、太陽系はインドネシアのオラウータン保護区のような扱いだと思っているけど、ここら辺は70%ぐらい。

 

今、大学で人工知能を学んでいる若者は、何を感じているのだろうね。

AI暗黒の90年代に過ごした僕よりも、もしかして不幸なのかも。

 

ムーアの法則は、根本的に計算方法が分かっているときに意味があるのであり、そもそもDeep Learningはニューロンのトレーニング方法であり、どんな対象をトレーニングさせるかの方が大切。もっと簡単に言えば、高性能な金槌やドリルみたいなもので、幾らそれが手に入ったからといって、住みやすい家が達成できるわけでもない。200階建てのマンションが作れるようになるわけでもない。

 

その上で、このPezyコンピューティングはポストムーア時代の興味深いハードだと思っていたけど、ここまで中身が無いならば、また一段とシンギュラリティーの確度は下がったね。まあ、そういうもんだよ。僕らはこの文章をかみ締めてから再出発なのだと。

 

ホピ語では、「いなずま、波、焔、流星、煙を出す事、鼓動」は動詞である。常に短い期間しか継続しないできごとは動詞としか扱われないのである。「雲」や「嵐」は名詞として必要な継続のもっとも短い限界である。

《略》

バンクーバー島のヌートカ族の言語では、すべての語が動詞のように思える。《略》家というできごとをあらわす語は語尾によって、長らく存在する家、一時的な家、未来の家、かつて家であったもの、家になりそうだったものなどのことを表すのである。(P.159)

 

これがAIの再出発点なんだよ。ここを無視したから思考言語・中間言語が失敗したのだと。高校3年の頃、京都に行って霊長類研究するか、仙台に行って工学部でAIをテーマにするか悩んだけど、もし同じ課題意識から霊長類研究に取り組んでいる人がいるならば、ぜひ「サルは自殺するか」を突き詰めてほしいと思ってる。

 




サイコパスの中間状態。弄るのが無性に好きな人達

 

■映画『凶悪』残虐性は「人間が持つ普遍的な暗部」と描く。だが最新科学は先天的障害であるとする

なんで日曜日にこんなダークなテーマの文章を4時間ぐらいかけて全部読んでいるのか謎だけど、この一連の記事は誰よりも本質に迫っていると思う。猟奇的事件を起す人間について反社会的とサイコパスに分類している点から素晴らしい。

 

以前に四倉さんの記事は読んでいたハズなのに、単なる一つの「へえ」ぐらいの知識になっていた。。今回は実際の殺人事件と絡めて、かつ「サイコパス」と「ソシオパス:反社会性人格障害」を明確に区別しているから全部読んでしまった。こちらの記事も区別しているけど、その区別が中途半端。まだ脳科学的に証明されているわけじゃないけど、科学であっても最初は個人の直感によって先に進むわけで、この人の直感は殆ど信じる。

 

特にサイコパスの快感を「逆転快」と命名しているところからセンスを感じる。

他者の表情から感情を読み取れないことは、サイコパスだけでなく、反社会性人格障害や自閉症の人にも見られる症状ですので注意してください。それらはサイコパスとは全く別の障害です。 

と追記しているのも納得。相手の苦痛の表情が快感になるのは自閉症ではありえない。反社会性人格障害の場合、社会を恨んでいる理由から一部の社会階層の人の苦痛を快感に感じる面はあるけれど、サイコパスはそこにタガがなく純粋に脳の疾患という点は正しいと思う

 

 

多くの自閉症児は、反撃することをしないので、いじめの格好の標的になってしまい、激しいいじめに会う。サイコパスは弱いものを見つけ、いじめを陰湿に、手加減をしないで行う側である。自閉症者はいじめをされる側である。サイコパスと自閉症者は真逆の位置になる。

こちらに端的にまとめている点も素晴らしい。これら3者を分かりやすく表でまとめているのも素晴らしい。

 

扁桃体の機能不全が原因であるが、機能不全であるとなぜ邪悪になり暴力的になるのか?K.A.キール、J.ブレア、M.ストーンはまだ回答に至っていないようなので、私が考えた。おそらく、極限の恐怖の表情や叫び声で機能不全の扁桃体がわずかに反応するのではないかと思われる。このわずかな扁桃体の反応が麻薬のように快感として作用するのではないかと私は考える。麻薬の快感が切れた時に再び快感を求めるように、サイコパスは邪悪な行為を繰り返す。麻薬患者が麻薬以外に関心がなくなるのと同じように、サイコパスは邪悪な行為が最大の関心事になる。機能不全の扁桃体のわずかな反応にすべてを注ぎ込む。扁桃体が反応するまで、より刺激的な拷問や暴力へとエスカレートする。相手が苦しみ悶えれば悶えるほど、恐怖で悲鳴を上げれば上げるほど、自分が暴力をふるって興奮すればするほど、扁桃体が反応し、サイコパスは生きている感覚を束の間だが少しだけ取り戻す。サイコパスの邪悪な行為は、病気の症状から、少しでも逃れようというあがきでもある。

 

この文章のすごさ。書いてる人は精神病系の専門家ではなく一般的なビジネスマンのようだけど、この分析は素晴らしい。真実を捕まえたオーラがある。映画『凶悪』が原作から改悪になった点を指摘し、代わりに「サイコパス」と「反社会性人格障害」の対決とする案も素晴らしい。サイコパスが周囲を巻き込み、周囲を擬似サイコパスにしていく分析も全て正しいと思う。全部読んで、かなり落ち込んでしまったけど・・・、これが人間の事実なんだと。

 

唯一気になったのが、「サイコパスは完全な先天性であり、半分程度サイコパスの人はいない。擬似サイコパスに陥っている人も邪悪なリーダーの影響を抜けたら戻る」という部分。扁桃体の機能不全ならば途中状態もあると思う。相手の血を見るのは嫌でもちょっと困った顔が快感になる人って身近にそこそこいるよ。本人はツッコミ役と自認してても単なる嫌がらせのレベルまで行く人。そもそもお笑いコンビにおけるツッコミは、ボケの面白さをより引っ張り出す役柄なのに、単に弄るだけ。そういう人達も生まれつき快感神経がオカシイという解説が一番腹落ちできる。

 

 

それにしても酒鬼薔薇聖斗の絵はエグかった。。見てるだけで正常な人の精神をヤバくする力がある。全く薦めたくないけど一応リンクは張っておく。。

 

■なぜ、「邪悪な性格」の持ち主は成功しやすいのか

の記事を最後に紹介。あんまり同意してないけどね。サイコパスが戦争に狂喜するように、企業もビジネスにおいて競争をしているから、どうしてもサイコパスがもぐりこむ余地がある。組織の存在理由からみて不可避であり、町内会とかの非競争的組織と違う。 という単純な事実を書いたほうがいいのでは?

「横浜映画サークル」の理論をベースにすれば、「サイコパスは相手の怯えを先天的に見抜く力があるから、出世する」でもいいような。 そういう意味ではHBRでもこのレベル?と思ってしまう面もあるけど。横浜映画サークルの作成中の記事は凄く楽しみ!

 

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そういえば名古屋大学女子学生殺人事件も犯人はサイコパスだけど、事件現場は僕の地元なんだよね。帰省したときに事件が起こったマンションまで聞いてゲンナリした。こういうのを見ると、発生学的に一定の割合でこういう脳の障害をもった人は生まれてくるワケで、犯人の家族もずっと前から「うちの子はヤバイんじゃないか」と思っていたという記事を当時見た記憶がある。家族のその後については知らないけど、流石に色々と影響を受けるだろう。サイコパスという病名と原因がもっと広まって、確実に判定・治療できる世の中になってほしい。無期懲役にする前に、もっと科学的検査をやるべき。そんな面でも「横浜映画サークル」に完全同意です。

 

 

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なぜ「横浜映画サークル」のサイトに辿りついたのか今日の午前なのに記憶の彼方(これも重い記事からくる一時的記憶亡失?)だけど、その30分ぐらい前にワイン投資を読んでいたんだ。その中でもこちらの記事が凄く良かった。

 

そもそも投資や資産運用に限らず、人間の日常生活というのは本来は地味なものなのです。あるいは地味な中に、本質的な価値がある。そのことを認めないかぎりは、真面目な人ほど”意識高い系”の病にかかる危険性がある。それを詐欺師は巧みに利用するのです。

現代社会は、“普通”であることの価値を非常に低く見がちです。でも、普通であることは、とても価値あることです。投資や資産運用も同じではないでしょうか。普通の投資でいいんですよ。リターンだって普通でいい。個性は人生の中で発揮するものであって、投資なんかで奇をてらっても意味がありません。人と違う投資手法に魅力を感じたり、そういったことに関心を持つ自分を特別だと思うのは、しょせんは“意識高い系”の病です。そもそも投資などは、しなくて済むならそれに越したことはないものなのですから。

 

サイコパスとワイン投資を一つの文章の中に書いていいのか謎だけど、ついつい太字にしてしまったところは、妙にリンクすると思う。快感というか、「幸せ」を感じれるかどうか。それは本当に先天的に完全に決まるのだろうか? サイコパスは本当に苦痛の表情にしか幸せを感じられないのだろうか。僕らが脳内快感物質の奴隷であり、そこから逃げれないのだとすれば、人生が終わって残るのは空しさだけになるのだけど。

 




若冲の守破"離" − 石峯寺/石峰寺の石仏群

[2016.6.4]
関西地方に一度も住んだことがなくても、京都観光は8回目。これだけ通った観光地は京都だけ。金閣寺・清水寺、嵐山といった有名所、枯山水のための龍安寺・南禅寺、半跏思惟像のための広隆寺、お茶と日本精神のための高山寺。今回は有名すぎて後回しにしていた東寺、伏見稲荷に寄りつつも、一番のメインは若冲の最期の寺として有名な石峯寺/石峰寺。正式名称が常用漢字じゃないと、Web検索時代には辛いね。Wikiは正式漢字で、お寺の正式サイトは峰だから。

TV番組で若冲特集を見て以来、いつか石峯寺に行こうと思っていた。さすが黄檗宗。細部にいたるまで中国的な建築デザイン。若冲自体が伝統的な日本画からはみ出ているから、個人的にはマッチしていると感じる。この門も手すりの卍も良い。

石峰寺には晩年の有名な絵があるけど、一番の見所は間違いなく石仏群。現在は写真禁止なので、正式サイトか禁止前に撮影された写真を見てもらうしかない。裏山としては想像以上に広いし、五百羅漢というには狭い。仏像のデザインとも交じり合って凄く不思議な空間になっている。

ある線を超せる人は、普通の人には無い業を抱えている。
 画家もそう。次に生まれ変わっても同じく画家になるぐらいの業。
 殆どの著名な画家の絵を見ていると、来世も画家になると思わせる業を感じる。
 けど、この石仏群を見ていると、「若冲は生まれ変わったら次は画家を選ばないだろう」と感じた。
 それが、若冲の守破


この事実を体感できたのが一番の収穫でした。

結局、これだけ若冲を追っかけても、彼の心の奥にある狂気の源は分からなかった。あそこまでの禁欲生活をしないとコントロールできないものなのに。その狂気の片鱗はこの先でも見つからないかもしれない。 けど、この石仏の笑顔は、そいういう拘り方を溶かす力がある。この表情こそが若冲の到達地点ならば、来世は画家になる必要がない。この体感は、若冲を突き詰めた人が行けば自然に感じると思うよ。


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 守破離という言葉は有名になっているけど、この言葉が生まれた由来についてネットに情報が無い。だから
こんな解説になる。大量に読んできた本の記憶だから原典を明示できないけど、もともとは古代中国の弓の名人の話。独自の流派を立てるのは"破"であって、"離"ではない。本当の離は、その存在からもFly Awayすること。

 細部まで覚えているわけではないが、その名人は弓を極めて、一本の矢で複数の鳥を打ち落とすようになっただけでなく、最後は矢がなくても念だけで射落とせるようになった。そして、最期は弓という存在も射落とすという行為も忘れて死んで行った。これこそが真の離。この由来を「超能力なんて有りえない。最期はボケただけだろ」という人とは同じ空気を吸えないね(笑。 少なくとも、離が自己流派という浅い解釈だけは辞めたほうがいい。この石峰寺にくれば真の離が体感できる。京都に行ってよかった。


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[2018.4.21]

守破離の原典をやっと見つけた。僕は他の人が紹介していた原文を見たけど、中島敦が小説化しているとはね。記憶にある内容よりもビビットで読んでいて純粋に面白い。

 

紀昌の家にび入ろうとしたところ、に足をけた途端に一道の殺気が森閑とした家の中からり出てまともにを打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来(じらい)、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方はけてり道をし、い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。 

原典にこの部分があったら絶対に記憶の片隅にある。だからこそ、これが中島敦独自の肉付けなんだね。いいじゃん! これまで『山月記』しか知らなかったけど、才能ある作家だとしみじみ思う。最後のくだりも感動した。この文章が皆に読まれれば、巷に広まった守破離の間違った解釈も無くなるだろう。国語の教科書は『山月記』でなくこの『名人伝』を収録すべきでは?と思うほど。




「意識の形而上学」と成長実感。そして「やれたかも委員会」

五年ぶりにこの本を読んでやっと全部理解できたと思う。逆に五年前は惹かれていても、ほとんど理解はできてなかったのだろう。だから凄く久しぶりに成長感がある。

 

子供の成長は物理的だからわかりやすい。身長が伸びる、歩けるようになる。誰でも分かるし、客観的に計測できる。けど、この指標は中学生ぐらいまで?もちろんその後も身長伸びる人もいるが、本人以外にはそんなに大きな話題でもない。

内面の成長も子供の頃は分かりやすい。まずは言葉をしゃべれるようになること。言葉でコミュニケーションできるようになるのはやはり革命的。こちらの意図を理解するたけでなく、自身の意図を伝えれるようになる。それは魔の三歳児みたいに面倒なこともあるけど、本人にとっては大きいだろう。それとトイレコントロール。これは意志と生理的欲求の兼ね合いとして大きな内面的進歩であるし、周囲にとっても下の世話から解放される大きなチャンス。この前、兄貴の子供達3人がちょうどここら辺の前後だったので非常に見ていて考える部分が大きかった。

 

 

 問題はこの先の成長。単にスポーツや勉強の成績を指針にするとおかしくなる。けどそれ以外の汎用性・有用性をもつ指針も難しい。本人の中での指針もある。本当は「本気で打ち込めることを見つける」だけど、見つけても勉強に費やす時間が減って親から文句言われる。子供が自発的に勉強に打ち込むなんてのはレアだよね。

 

社会人になったあとの成長もそう。年収の増加や出世で測る?それも寂しい。けど、若い頃に学業で測るぐらいの有用性があるのも確か。内面的には、うーん、結局は自分の子供の成長にリンクさせる面が大きいのかもね。親としての態度、子供に真に伝わった事からも、子供の成長に投影するのはそんなには間違ってないともおもう。

 

 

ここまで考えた上で本題にもどる。

五年経っても読み返しくなる本。そこから明確な理解の差を感じれるのは、一つの幸せなんだと。単なるハウツー本にはここまでの深さはない。内容が薄い本なんてもっとない。何よりも最初の時点で「分からないけど魅力を感じる」ことの難しさ。

 

今までここに該当するのは、ベルクソンのあの本ぐらいだった。もちろん他の哲学書も分からない本は多いけど、五年経っても読み返したくなる魅力は感じなかった。その魅力を井筒俊彦には感じてるんだね。当たり前か。そして、やっと胸を張って言えるようになった。この本を心底理解したと。

 

心底の理解とは行動ではない。行動を促す本ではないから。もちろん行動を促すハウツー本もあるし、それはそれで役に立つ。読み返すと出来てない部分にショックを受けることもある。けど、こういう思考系の本は、完全理解=どれだけでも分かりやすく説明できること、だと思ってる。だから今度書きますね。

 

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なぜだか謎だけど、井筒俊彦はいつだって正反対の場所に繋がる。5年前もそう

平安朝における「眺め」とは、折口信夫によれば、春の長雨期の男女間のもの忌につながる淡い性欲気分でのもの思いだという。たしかに例の伊勢物語の「起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ」や、古今集の小野小町の「花の色はううつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」などの「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺洩していることはいなめない。「意識と本質 精神的東洋を索めて」 井筒俊彦著 P54

 

こんなこと書いちゃダメなんだよ。ちょと小頭が良い真面目だけがとりえの内気な男の子のパンツを引きずり下ろすぐらいの乱暴さ。

 

そして今日は「やれたかも委員会」かよ。。。話題になっているのは知ってたけど、今読みました。なんなんだ、この親近感

 

若い頃を振り返って後悔をしてる。そこに漂う濃厚な90年代感

それが重低音のようにうちらの心に訴えかける。無性に自身の記憶が呼び起こされて、爆笑の先にある何かを連れてくる。寝起きに色々と考えてたら朝9時。自家製珈琲のんで研究開始。チューリングとチャーチの間に攻めて行ってそのままんま敗退。。しょうがなくBlogUP。昼にラーメン食ってもMP回復しないからAmazonアンリミティッドでこの本を見つける。

 

全然、井筒と関係ない?、、いやいや違うんだよ。この漫画の良さは表紙の月満子氏の冷静な突っ込みと塾長の能島明の最後のコメント。味がある。だからこそ、「この世に完全な片想いがあるか」にスタンスをはっきりとした本サイトとしても明言したい。

 

30歳を過ぎて、ふっと気づいた「やれたかも」は成長の証

これこそが本当の真実では。当時の次の朝に思った「昨日はやれたかも」は違う。そこでもっとアクティブに攻めても敗北が酷くなるだけ。もし、攻めて上手くいくならその時に君の本能が感じるし、本能が感じれば自然と攻めているから。あの場で引いたのは本能がそう感じたからであり、それは間違いない。

 

けど、30過ぎて気づいた「やれたかも」は別の攻め方(アプローチ)に気づいた証拠。

もちろんそれはもっと数日前の布石だったかもしれないし、あの時の意外性に満ちた攻撃(行動や言葉)かもしれないけど、難攻不落な城がありえないように、どれたけ我欲を抜いても「あの時やれたかも」と思うのはそれだけお互いに心の震えがあったというシンプルな事実。心の交流と体の交流は常にテンポが同じなワケではない。こんな部分まで30歳を過ぎると気づくようになるし、そこまで気づいた上での「やれたかも」は人間成長の証なんだと。

 

30代のときは20代のやれたかもを凄く考えていた。けど、20代のときに10代のやれたかもを凄く考えることは無い。そもそも10代にそんなやれたかも、なんてない。そして、30代のやれたかも40になって考えるかと言われたら、、、それすらも薄くなるのかもね。最近、そんな気がしてる。

 

井筒俊彦はさすがにオススメしないけど、こちらの漫画は誰でもOK。できれば30歳以上。興味出た人はこちらで途中まで読めるし、4月からTVドラマにもなるみたいだしね。それにしても、委員会のメンバーって男2名はいつも「やれた」だし、女性陣の月満子氏は「やれたとは言えない」だし、いつも多数決で勝たせてあげてるけど、女史のコメントはグサっとくるね。逆に女性が登壇者のときは「やれた」って、ちょっと同性に甘くないか(笑 まあそこも含めて世の中の真実なんだろうけど。

 

 




流浪の敵王子:シャアと、精神の底にいるカミュウ


ガンダムORIGINをvol4まで観ました。やっとガンダムについて自分の中に整理できた。突き詰めるとシャアの魅力に尽きる。「流転の王子」を骨格としたストーリーはギリシャ神話を筆頭に数多い。けど、敵の王子が流転するという構成は珍しい。ジオン公国なのに支配しているのはザビ家。なぜザビ公国じゃないのか、初心者が素直に思う疑問こそが、ガンダムの真の骨格。ロボットアニメとしてのガンダムの良さは今回は省く。あくまでもストーリーとしての良さを突き詰めたい。それぐらいにORIGINは感動したから。

 

 

同時代で見たガンダムが、その人の人生に影響を与える

とまで言ったら言い過ぎ?いや、僕らの世代は最後に発狂したカミュウが衝撃的すぎて・・・・世代が抱えるトラウマだよ。ナイーブな男の子が多いのも、カミュウがナイーブだったから。Zガンダムの放映時(1985)は小学3年生。全部観たけど、殆ど記憶が無い。百式のプラモデルを買ったこと、オープニングソングの「水の星へ」が物凄く良かったこと、そして最終話の最後に主人公のカミュウが発狂=精神の底に沈んだこと。

 

まさかカミュウがロダンの2番目の妻:カミュウ・クローデルから命名されているとは・・・

殆ど話題になってないけど、wikipediaで知ったときは衝撃だった。発狂というエンドも同じだから。日本でこれだけカミュウ・クローデルに拘っている人も少ないけど、ロダンを突き詰めればカミュウなんだよ。最近、横浜ではロダンの接吻のポスターが沢山飾ってあるけど、「おまえ、男女の恋愛について本気で考えた事あるか?」と思う。あれはポーズも含めて誰でも思いつくレベル。フギット・アモールこそロダンしか造れないレベルの作品だし、彼のSoulが込められている。

 

誰がZガンダムの主人公:カミュウ・ビダンの名前をカミュウ・クローデルから名づけたのかは分からない。

けど、その人は僕と同じくらいの認識にいるんだね。全く別の分野で本気で気に入ったモノが実は繋がっていると知ったときの喜びは言葉に代え難い。あの当時、カミュウのラストが己のコアに刻印された同世代の中で、何人がカミュウ・クローデルまでたどり着いているか。今からでもいいからぜひとも突き詰めて欲しい。

 

ZZガンダムはクソ

カミュウの衝撃的なラストの次の年に始まったZZガンダム。そのオープニングソングが「アニメじゃない、アニメじゃない、ほんとのことさ〜」で始まった瞬間、「つくったやつはクソ」だと思った。本当はあのときTVを叩き割りたかったんだね。それだけのレベル。アホとかバカとか頭悪いとかそんなレベルじゃない。魂がクソのレベル。確かにこの歳になると、「Zガンダムはやりすぎた。ZZではバランスとらないと」という思考も分かる。けど、さすがに「アニメじゃない」はダメだろ。。歌もジャニーズアイドルのような軽さ。五反田君なら「クソが干からびてる」と言うレベル。

 

|かがリスクをとって勝負をかける

△修療時は明確な成功にならない

その後、バランスをとって逆に振る

 

どんな世界でもありえる話だけど、10年20年経過すると真の答えは出る。歴史に残るのは,世院どんな分野の仕事でも,鯡椹悗紘要がある。もちろんを担当する場面もあるけど、,汎韻献譽戰襪料曚いないとはクソに成り果てる。それだけは確かなんだね。

 

いくらZZに失望しても、F91は映画館に行きました。悪くは無いけど、凄い感動もなかった記憶がある。以降、ずっとガンダムシリーズから離れていた。そして2010年に静岡でファースト・ガンダムの再放送。全部観ました。凄く良かったです。だから、Zガンダムを全部借りてきて見直して、「逆襲のシャア」を見て、やっとORIGINをVol4まで観た。それが一昨日。

 

ちょっとカミュウについて熱く書きすぎたけど、同年代なら皆同じ想いだと思うな。

 

「逆襲のシャア」は絵がありえない。もうちょっとZの時のシャア:クワトロ大佐とタッチを同じにしろよ。髪形が変わった以上に、変になってないか?アニメだとそういう基本的なところで躓くこともあるからなぁ。ORIGINの良いところは絵。幼い頃や学生の頃のシャアの絵が良い。それ以上に歌の良さ。やっぱり「水の星へ」世代としては、ここは要チェックポイント。どれも良いけど、一番気に入ったのは「星屑の砂時計」です。メロディーも歌手も良い。引退したのにわざわざお願いしただけの透明感がある声。なにより歌詞の深さ

 

千億の星屑が 私に降りかかる
   自分の小ささに すくむの心が
   運命の箱船が 旅立つ時間(とき)の海
   音のない序曲が ひびき始める

 

この歌詞を作った人は才能ある。「千億の星屑が私に降りかかる」「音のない序曲がひびき始める」の部分は才能が必要。ありえないレベル。歴史に残る。だからこそサビの部分について文句を言いたい。

 

 

ねえ私 この世に
   生まれてよかったの?

 

これは態度の問題だけど、これは発してはいけない種類の問い。もちろん誰だって思うときはある。けど、「何故生まれたかを問うのでなく、どう生きるべきかを問え」というのが至言だから。

 

答えのないまま 月は
   欠けて 満ちて
   私のなかの 少女が
   大人になってゆく 

 

という部分は良いと思う。アルテイシアの気持ちが良く表現されてる。そんな点では、2番目の歌詞は良い。

 

なぜ人間(ひと)は愛し合い 傷つけ憎み合う 

孤独な星たちが 引き合うみたいに 

でも今は信じたい 夢という遺伝子が 

苦しみも涙も 越えて行くって 

 

ねえどんな あしたが 私を待ってるの?

たずねてみるけど 月は ほほえむだけ 

 

誰も知らない 未来へ 

砂時計 落ちてゆく

 

サビも良くなっている。「孤独な星」はガンダムの歌詞では必須のフレーズ。「夢という遺伝子」も一瞬亜然とするけど、考えてみると納得。「誰も知らない未来へ砂時計落ちていく」という情景描写は本気で凄い。このセンスはぜひ学びたい。


 

けど、大サビはまたがっかりなフレーズなんだよね。。結局、この作詞家は非常に才能があるけど、「やっちゃいけない問い」という指針が無い。「アルテイシアはそう思っているハズ」という言葉は無意味。真の芸術といえるアニメソングは子供に正しい道を教えるべきだから。「ねえ私、この世に生まれて良かったの?」は破滅の道。

 

「千億の星屑よ 私もきらめこう」も違和感。星達ならわかる。けど星屑は、きらめこうには合わない。逆に降りかかるならば星屑。星が降りかかるのはオカシイ。そういう意味では、曲の最初のフレーズが良くて、それをタイトルにしたから、ここでも使っちゃったんだろうね。全く。。

 

もっと厳密に書く。「私はこの世に生まれてよかったの?」は、「私はなぜ生まれたの?」よりも斜め下の問い。「なぜ生まれたか」は哲学の範囲だけど、「生まれて良かったのか」は良い・悪いという価値判断を含むから宗教レベルの問いだぞ、オイ。この問いを発していいのは、生まれた時から周囲に害悪を与える宿命(さだめ)をもつひとだけ。アルテイシアじゃない。シャアだろ。ORIGINでも復讐のために本当のシャアを身代わりにしてる。そんな意味では、シャアをメインした「風よ」歌詞としては違和感ない。言葉の組み合わせに感動は無いけど、違和感は零。

ただ、そもそも音楽がなぁ。ただ、そこは好みの問題だからいいです。

 

このアニメ、音楽への拘りがハンパないけど、それを痛感したのがJazzバークラブエデンの歌手ハモンの声。声優が歌ってみましたレベルじゃない。深みがしっかりある女性ボーカル。「紅の豚」での加藤登紀子レベルと言ったら褒めすぎ? 慌てて調べたら澤田かおりなんだね。ジオン・ダイクンの二人目の妻:アストライアはこのJazzバーの出身だからこそ、ここを拘ることがハモンだけでなくアストライアの魅力描写になり、それが母親と引き裂かれたシャアとアルテイシアの悲しみまで繋がる。細部まで手を抜かない。素晴らしい。

ついつい澤田かおりの父親もネットで調べてしまった。彼女自身も色々背負ってるね。じゃないと、あの声は出ないか。世の中には背負わないと出ないレベルの声がある。それを求めてBlack Musicを聴きこんでいる身としては、澤田かおりは全曲集める気になったぐらい気に入りました。星屑の砂時計を歌ったyu-yuもいいけど、良家のお嬢様すぎて、、、深部には届かない気もする。

 

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いまやっとVol5を観た。戦争が激しくなりクラブエデンも閉鎖間際。そこでのハモンの歌の良さ。あまりに良いから、「え、これも澤田かおり?」と思いながら聴いてた。やっぱり名作映画に名曲と名歌手は必須なんだよ。前回のBy Your Sideよりもこちらの曲の方が哀愁があって澤田かおりの深さが良く出てる。素晴らしい。久々にファンになりそうな。

 

 




テントの冬改造(スノースカート)と、ワカン作成&失敗



冬期登山に挑むには体力だけでなく冬の装備も必要。特にテント泊の場合、テントを冬用にしなくちゃいけない。「いつかは冬期」と思って、冬オプションがあるテントにしたけど、やっぱり冬のテントカバー:スノーフライは高価。極論、風が隙間から入ってこなければいいのだから、スカートを履かせればいい。最初はブルーシートを思いついたけど、さすがにダサいから灰色のブルーシート。けど、商品を見ながらもっとシンプルに分厚いビニールで良いと判断。それがこのTRUSCO業務用ポリ袋です。通常の3倍の分厚さはダテじゃない。それを脱着式にするため、業務用のマジックテープも購入。ちゃんと接着するためにホチキスも使う。

 

完成したのがこの右の写真です。よくよく見ると透明なスカートがついてる事が分かるでしょ。こちらのアップの写真の方がいいかな。色々調べると通常期のフライシートは空気の交換が出来ないので、入口側だけはスカートをつけない。これで12月の甲斐駒・黒戸尾根に行ったけど、非常に活躍してくれました。隣でテントしてた人たちに「おっいいね」言われた。帰ってきて調べてみたら、こういう風にスカートをつけるのは色々と情報あるね。ブルーシートが多いけど、見た目的にはこの分厚い透明ビニールの方がオススメっすよ!

 

で、もう一つ自作にチャレンジ。もちろんアイゼンやピッケルの自作にチャレンジする人はいないと思う。個人的にもアイゼンに1万円以上払うのは分かる。あれだけの金属加工をしてるんだしね。けど、ワカンはどうよ。あんな単純な加工品なんて、大量生産したら3000円ぐらいじゃない? あれに1万円は無いわ・・・。けど、自作の情報も殆ど無い。こういうときほどDIYとしての腕の見せ所。もちろん家の家具だって色々と改造・作っているけど、そういうネタは自作スピーカー以外は当分投稿しない。けど、このワカンはすれ違う人全員から「え、なにそのギア」と言われたので、載せておきます(笑

■必要なもの

・ダイソーで売ってるネクタイハンガー4つ(100円x4)

・ホームセンターでうってるステンレスパイプ(直径0.6mm)

・ダイソーで売ってる荷物梱包バンド(青いやつね)

・針金

 

■特殊な工具

・金属のこぎり(ダイソーで売ってます)

 

 

 

■作業ステップ

.優タイハンガーのかける部分をグニグニ曲げると取れる

▲好謄鵐譽好僖ぅ廚魘眤阿里海りで切る。これも全部切るのは大変だから半分ぐらいであとはグニグニ曲げる。長さはパイプをつける場所によりますが、私の場合は、16cm、26cm、24cmが2セットです。不安ならホームセンターで切ってもらったら?

あとはそれらを繋げるだけ。ポイントはステンレスパイプの中に針金を通す形で止めること。私は3回は通してます。強度的にこれぐらいは必要なのでは?

 

 

実際の使用結果ですが、面積的に足裏の倍。だから、雪に埋もれる深さが半分になる。このネクタイハンガーの小円の多さが浮力を生むと思ったけど、その想定はそこそこの結果。一回つかってちょっと湾曲したけど、普通に問題ない状況。もっとハードに使ったらどうなるかは謎。ぜひこの投稿を見て、ワカンの自作にチャレンジする人が増えることを望んでいます〜

[2018.1.23]

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3月17,18日に常念岳行ってきました。テントスカートは活躍してくれたけど、このワカンは壊れた。。道に少しでも岩が見えていたりして、力が斜めにかかると、このステンレスパイプの太さと、このネクタイハンガーの金属の太さでは、支えきれない。最終的には針金を3本通したパイプ自体が外れてしまったから。何かのタイミングで全体重が中央のステンレスパイプ一本に掛かると、曲がるし、針金も切れる。やっぱりワカンも買うしかないか。。もっとステンレスパイプを太くしてもいいけど、このネクタイハンガーも一つじゃだめだね。最低でも二つを重ねないと。。




道理と感性の糖衣構文


以前にこう書いたけど、

そもそも感覚と感情を明確に分離できるかどうかも謎。どこかで線を引かないと区別はできないと感じてる。「感性」は一般用語だけど、感覚と感情と感性の三つの違いを明確化することすら大変。感覚は感覚器で感じるけど、感情と感性はそもそも何で感じるのか、まずこの問いから答えないと。 《略》「感覚」と「感情」は採用するけど「感性」はいらない。感性を捨てるのは勇気がいるけど、やっぱりいらないな。 

 

感性を捨てるといってもコア単語に採用しないだけ。もちろん派生語としては認める。巷の文章に「感性」って言葉は良く使われるしね。派生語自体もコンピューター言語分野では糖衣構文:syntactic sugarと言われる。大学3年で研究室に入った頃、初めてこの単語を知って意味不明だった。いくら分野特有の専門用語といっても、もうちょと想像しやすい言葉にしてくれよ、、、今でこそこの画像のように、コア単語がピーナッツで、派生語を砂糖コーティングに喩えていることは分かるけどさ。。

 

最近やっと道理と感性についてHHAIなりの定義づけが終わったのでメモ程度に書いておきます。

 

感性=感覚+決断

道理=心情(主観)+論理(客観)

 

一般的には「鋭い感覚」を感性の定義とするみたいだが、個人的には納得して無い。たとえば、匂いに敏感なだけで感性が優れているって言う? 感覚がどれだけ鋭くても、それが決断に結びつかないかぎり感性とは言わない。決断=「リスクを覚悟した判断」 レストランでメニュー選ぶのだって一つの判断だけど、そんなのは誰も決断とは言わない。いくら感覚が鋭くても、その感覚に自分の人生を預けることまで出来て初めて感性。複雑な場面において決断しないで様子見をしていると、確かにどちらかに状況は流れていく。それはそれでリスクを減らす生き方だけど、突き詰めれば「周りに流された人生」でしかない。決断といえる判断をどれだけ下してきたか、それは結構大事なポイント。決断ポイントでとことん情報集めに走る人もいるけど、それじゃあ感性は磨かれない。リスク重視派の人って、感性を磨いてないことすら気づいてないんだよね。周囲でも2,3名いる。そういう人ほど俺の事をテキトーとかアホだと思っている(笑 けど、前回に書いた甲斐駒はホント良かった。リスク重視してたら一生、見れない風景がある。

 

道理を認めるとは、主観的にも客観的にも納得した状態。「心情的に納得する=腹落ちする」ってのは誰しもが認めるでしょう。客観的というのは論理だし、この世の論理は全て共起確率に落とし込めばいい。

 

 

主観的に納得できないのは 銑イな。

〃い=自己の価値観に合わない

意味が無い=効果がない

スキルが無い=失敗への不安

せ間/ヒマが無い

ヌ滅鬚澆無い

 

この中でイ世韻HHIのコア言語じゃない。楽しいって、シンプルな感情なんだけど、突き詰めると結構難しいと思ってます。そんな今日この頃。

 

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感覚→感性→芸術/美

ある本を読んでいたら、こっちの定義もあることに気づいた。こちらの方が皆の同意かもね。この形式化の難しいところは、芸術/美の明確化。以前も散々に考えた

藝術によって、人は満たされない過剰欲望の苦悩を、ふしぎな享楽にかえる事ができる。

それで藝術の作品は必ずそれに相当する現実の行動を消している。その消却のうえに、その抹殺の上に作品が立っている。そこにまさしくその迫力がある。すなわち消されて無くなったものの抵抗、いわば抹殺されたものの執念が作品の中にこもっている。うごめいている。それがその迫力になる。

ここら辺が最高峰である小林市太郎の核心部分。改めて考えると、この理論は欲望を消すことがメインだけど、逆に魂の鼓舞とでもいうべき行動を促す芸術もある。そこの掘り下げが甘いんだね。

 

芸術と感動はセットで定義すべきで、芸術により感動し、感動させるものが芸術なのだ。以前から動詞と名詞の関連をとことん考えているけど、それは山は名詞でも川は動詞では?というレベルの問題だけではない。芸術と感動のようなセットもある。そして、感動は二十歳の頃からとことん考えてきた。結論は「作品に手を引っ張ってもらって一瞬だけ階段を登れている」

 

そんな意味では、結局は似ているのだと思ってきた。行動を消すでも行動を促すでも結局は同じこと。その手前だから、決断でいいのだと。




浄楽寺不動明王 2018年3月

角度によっては「泣き顔」に見えてくる。それが最高傑作の証


仏像の顔が変わった。

足掛け4年、4回目のご対面にして一瞬、固まってしまった。数秒経過して台座が新しくなって仏像の位置が少し高くなったことに気づいた。この仏像は角度によってこんなにも表情が変わるのか・・・。だから、今まで以上に色んな角度から眺めた。今回はお土産コーナーが外に移った関係で建物の中が広々としている。閉館間際の時間だったので人が少ない状態。

 

仏像に向かって左側に立ち、

右手に持つ剣で右半分の顔が隠れる場所から、

左側の表情だけを眺める。

「憂い」というよりも「奥悩」、いや「泣き顔」にさえ見えてくることに気づいた。慌てて仏像の正面に立ち、自分の顔の前に指を立てて、片方ずつの表情を見る。こんなにも左右の顔が違うのか・・・この仏像が持つ深みをこれで客観的に証明できたのかもしれない。剣の奥で泣いている左顔の写真が広まれば、運慶の最高傑作かつ不動明王の最高傑作という事実が、やっと皆に伝わるかもしれない。

 

 

昨晩気づいて慌てて今日、御開帳に行ってきました。

ご開帳は3/3と10/19の年2回のみだけど、今年は3/1〜3/5までの特別開帳なんだね。というよりも、昨年秋の東博の運慶特別展に出展していたとは。。ポスターに浄楽寺の運慶仏が載ってなかったら行く気にすらなからなかったけど、流石に浄楽寺も揃えるのか。それは安心。けど、未だに運慶の最高傑作を晩年の無著・世親菩薩像にしている点はどうにかして欲しい。「迫真の写実は個性描写を超越し、普遍的な精神性を感じさせるまでに昇華されている。この無著、世親の両像は、運慶がどのうような信仰心を抱いていたかを代弁してくれるものとも言われる。それほど祈りをこめたリアリズムが際立っている」

 

この文章を否定するつもりはない。ただ、あの仏像を最高傑作と思う人は、同じ道を歩んでいる人だけでは? それって日本人の何%になるのだろう。確かに運慶自身の歩みの終着点とも言えるかもしれない。けど、悟った表情って、実はあまり伝わらないんだよ。それは大日如来や阿弥陀如来の仏像を見れば一目瞭然。あまりに感情を超越しすぎて、僕らの今とかけ離れすぎるから。その点、不動明王の良さ。普通は怒っているだけだから、反省心の薄い人には伝わらない。けど、この仏像だけは別。以前にも書いた通り、

 

憤怒の表情の奥に慈悲があるのが真の不動明王だし、それに唯一該当するのが浄楽寺の像。
お前がお前なりに苦労してきた事は分かっている。
 けど、お前はやっぱり愚かだったのだ。

という言葉が聞こえてくるほどの表情になっているから。

 

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今回は土産物が増えた。東博の運慶特集で新たに作ったのだろう。この不動明王をピックアップしていて良かった。けど、アップの画像は右目が半分で切れている。せっかく若冲は鳳凰が一番良いというコンセンサスになりつつあるのにね。檀家の人?がお土産コーナーでレジをしていて、購入する時に雑談した。

「お土産ふえたんですねー。それも不動明王が。凄く嬉しいです」

「そうなんですよ。(略) 住職も不動明王が一番っていってます」

「不動明王以外は伊豆の願成就院が上ですが、不動明王は間違いなくこちらが上。これは国宝に戻すべきですよ」

「不動明王以外はあちらが上ですか・・・・」

「もっとこの不動明王のポスターカードの種類を増やして欲しいなぁ。このアップはいいけど、目が半分切れてるからもったいない」

 

ということで、ちょっとお姉さんを悲しませてしまいましが、ウソは言えない。。ほんと、あの泣き顔にみえる角度は、ちゃんと写真を撮って広めないと。そういう意味ではクラウドファンディングをやっていたのを全く知らなかった。そりゃ当然1万円ぐらい出しますよ。フラッシュ禁止でいいから自由に写真を撮らしてくれるなら2万だって痛くない。4年前に比べてお寺のサイトできて嬉しい限りだけど、もっといける。写経もいいけど、あの収蔵庫で座禅も企画してほしい。絶対行くよ!!

 

あ、あともう一つ。

前島密がこの運慶仏像群についてどう言っていたのか。せっかく運慶仏像群と前島密でアピールするならば、もっと両者の関係を掘り下げて良いと思う。

 

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前回のときにみた「頼朝の守り本尊」という説明板が無くなったことについて。どっかから「いい加減なこと言うな」と突っ込み入ったのかもしれないし、そもそも守り本尊ならば銘札の内容と矛盾するから。この点については、勝長寿院跡に行くしか無いね。鎌倉五山と合わせて、そのうち行きます。




「光凛」 〜冬の甲斐駒・9合目〜

4年前、白馬五竜でスキーしてたとき、ザックを担いでゴンドラに乗っている人がいた。頂上駅で降りた後、そのまま1人でドンドン上に登っていく。当時はそれを見ながら、意味不明というかアホだと思ってた。雪山を堪能したければスキー・スノボでいいじゃんと。

 

両方経験して初めて分かる。同じフィールドでも全く違ってる。

スキーはレジャー。冬期登山は"行"。

 

その証明こそがこの写真。「光輪」の写真はたまに撮れる。けどこの太陽の輝きは初めて。これを表現する一般的な用語はないから「光凛」と名づけたい。「凛」は単なる輝きではなく「厳しくひきしまった」という意味をもつ。冬空に青白く輝くこの太陽には「凛」こそが相応しい。

 

心の奥底が光になる

とでも言いたくなるほどの輝き。スキー場では絶対に撮れない。僕にとっての冬山の価値はこの写真に尽きる。グリーンシーズンの登山をあまた重ねて、3月の日帰り、4月最初の一泊二日の残雪登山もした。だから今回は12月の登山。なかなか有休がとれず、土日の二日で行ける最高地点は甲斐駒の黒戸尾根。グリーンシーズンでも一泊二日で登るのは辛いけど、これまでの経験と体力を信じて、行けるところまではいこうと思ってた。

 

登山中は何度か心が折れそうになったけど、本当に天気が良くて、風もそこまでは強くない。雪山のコンディションとしては最高。今日の条件で頂上まで登れなかったら、この先、一生このクラスの頂上までいけない、と心に言い聞かせて。

 

「最初に小金を盗んだ奴は一生大泥棒になれない」

といったのは石川五右衛門だっけ。これは確かに至言。もちろん経験値が溜まることでスキルもUPする。最初から高すぎる目標にチャレンジするのが完全に正しいワケじゃない。けど、一番最初に己に甘えた奴はそこで天井ができる。それが”行”というものだから。

 

この黒戸尾根は山岳宗教の行場としての深い歴史を持ってる。日本最高地点で発見された縄文土器は甲斐駒の頂上だから。以前に10月に北沢峠から甲斐駒に登ったけど、全然違う。同じ山とは思えないほど。そりゃ高低差も道の難易度も全然違うけど、もっと根本的な点が違う。一番ハードなのはこの写真のように最後の難関地点。一番上の大きな岩に剣が二本刺さっている。そこまでの登り。最後の気合でそこまで登って写真をとったら、太陽がざわついていた。

 

最初はあまりの寒さでカメラのレンズが結露したのかと思った。この数百メートル下には一本の剣が刺さる行場がある。こちらの時も不思議な写真だった。けど、ピントが合ってもやっぱり太陽がざわついている。太陽のエネルギーが溢れすぎた感覚で、、こんな太陽は初めて。用語も無いと思う。とりあえず暫定的に「ざわついた太陽」と名づけたい。

 

だから太陽に直接レンズを向ける。それが冒頭の写真です。二本の剣のうちの一本が画面の端にあるよね。同じ場所で撮ってます。不思議なのが、本当の頂上では光凛もざわついた太陽も撮れなかったこと。その理由は分からないけど、感じるのはある種の因縁。この写真を撮れる人が他にもいるならぜひ会いたい。ソウルメイト:類魂の判定としては一番分かりやすいと思う。今年の12月は仙丈に行こうと思う。そこでも光凛が撮れるのか結構楽しみ。

 

以前から感じているのは、山におわす神々は1000mごとに違う。1000m級の山と、2000m級、3000m級では撮れる写真の神々しさが全く違う。そして冬になると1000mはランクアップする。だから冬の3000m級の山はグリーンシーズンならば4000m、そう冬でしか撮れないレベルの神々しさになるのだと。というより3193m以上の山は富士山しかないし、あれだけ頂上が混んでいるから富士山の頂上ではこの神々しさをもつ写真は撮れない。

もしかしたら厳冬期の2月ならばプラス2000mになるのかもね。それは凄く興味深い。けど、厳冬期に3000mに行く実力は、遥か先。。

 

 




前前前世?!と3年差の謎

[2016.12.31]

紅白見てます。隣の部屋にいてたまにチラ見なんだけど。「君の名は。」のテーマソングって「前前前世」なのね。

2007年にマヤ・アステカ遺跡を訪問して以来、ムーを4年間読んで関連本(大田龍、飛鳥昭雄etc)も押さえた身としては、こんな思想を広めていいの?という思いもある。昔の「千の風になって」は全然アリだと思ったけど、前世のメジャー化はやばくないか。以前にマイケルジャクソンの前世についてとりあげたけど、あれはあくまでもネタ。

前世ネタでは深田恭子の「前世はマリーアントワネットだけど皆の恨みを買ったので次の転生でイルカになり、今はアイドル。アイドルは人と沢山会う仕事なので、来世は猫で気ままに生きる」が一番オモロイ。どこで読んだのか記憶の彼方だけど、動物を間に挟む発想はある意味Cool。深田自身はこの前世に絶対の自信があるからこそ占い師等には前世を見てもらってないとも読んだけど、その態度もぶっ飛んでるね。結局、個人が勝手に作ったストーリーなのだから、社会的に悪〜他人に迷惑をかけない限り、ご自由にどうぞ、という世界かもね。神道の四魂でいえば、4人までは同じ前世でもアリなので、他人と被るのも気にしないぐらいのメンタリティーの方がいいのかもしれん(笑

今年読んだショーペンハウアーの自殺論に凄い面白い説があって、要約すると

  • 魂が無から生まれて無に帰ると思う人は、そうなる
  • 魂に前世があると思う人は、生まれ変わる
  • 魂がそのままだと思う人は、そのまま漂う

結局、その人が決めれるという説。これって結構面白い視点。「死んだらどうなるかは、死んだら分かるのだから、死ぬまで考える必要も無い」という意見も好きなんだけど、「予め知って準備をしておいた方が良い」という意見もあるのは分かる。けど、どうせ死んだら何も持っていけないのだから、何を準備できるのかも謎。 そこまで踏まえても、以前に書いたように「前世=輪廻転生はあって、記憶はリセットされて、火が燃え移る程度の伝達はある」という距離感が一番しっくりくるのは確か。この立場で言うと、前前前世はおろか前世を知ることさえ基本不可能なんだけど、深田恭子自身も前前世までだから、3つ前まで考えるのは結構難しいのでは?とも。それだけ前になると、文献的に残っている名前が少ないからかな。単なる歌のリズムの良さで、前世でも前前世でもなく前前前世になっただけだと思っているから、そんなに掘り下げて考えようともしてないが。

前世の思い出し方には色々と方法があるけど、「退行催眠なんてやめとけ」は正しいと思う。だから「夢日記」「涙が出る」「なんか心理的に好き・嫌い」と書くこの記事が一番納得かな。けど、ウマが合わない人を「前世から嫌い」と決め付けると余計に修復不可能になるからねぇ。それぐらいなら、「前世で仲良くなるのに失敗したから、今世でも関係が深くなるハメになった。しょうがない、ちょっとは前世よりも頑張るか」ぐらいの態度の方が良いと思う。器のサイズが大きくなるために転生するのが四魂の基本だからねぇ。 この10年ぐらい散々やってきた立場で言うと、いわゆるスピリチャル系にはまり過ぎるととんでもない所に行くから。かといって手を出さないのも根性無しとも思っていて。やるなら中途半端=「誰か単体の説に完全に染まる」のでなく、とことんやれっていう気分だけど。

個人的には上記の記事以外の方法としては漆黒に浮かぶお香を薦めます。あの記事は大統領選も終わった事だし、記事名と一言要約を入れ替えておこうと思っているので。
 


[2018.01.03]

ちょうど今日、初の地上波放映中みたいだね。

先日、家で見ました。療養中は寝床から出れなく、年末年始用の本も風邪を想定してないので量が足らない。どうせならと。見た後、色々と考えてしまった。まさか映画最後のエンドロールに 「監修 月刊ムー」と入っているとは。たしかに最初の夢での入れ替わりの後に、オカルト好きのてっしーが言ったコメントはムーを読み込んだ人が見ても納得行く部分。早口だし、全部で3秒ぐらいの内容だけどね。根本的には「過去に戻って違う選択をする」=「別の未来が出来る」のか「未来が書き変わる」のかだけど、この映画はどちらの世界観に成り立っているんだっけ? まあそれは別に個人的にはどっちでもいいのだけど。。

 

唯一気になったのは、やっぱり3年の時間差。これってなんで必要?

巷でも話題になっているし、だからこそ「休日に学生服を着ている」描写が映画の中でもある、みたいな擁護論もある。入れ替わりがあるなら3年差もあってもいいし、そもそも「未来や過去も隣の部屋みたいなもの」というのが本当の4次元思考らしいしね。3年差の不自然さではなく、必要性のほう。入れ替わりの方は誰が見ても必要性は十分ある。けど、3年差の方は無くしても問題ないんじゃないの?同い年にしたって伝えたいメッセージは全部伝えれるのでは?

 

「3年前の過去であっても、悲劇的な結末に立ちむかうことができる」というのを訴えたいなら必要性分かるけどねぇ。企画段階で「新海さん、3年の時間差って必要ですか?」って聞く周囲の人はいなかったのだろうか? そして新海誠の答えが発表されているなら凄く知りたい。そりゃもちろん「同学年にしたら以前の転校生と同じになるから」っていう意見は分かるけど、今回は隕石墜落もあるのだから、3年差までプラスする必要ある? そもそも描写は誤解させるぐらいに同級生としているし、登場人物の本人達もそう誤解している。

 

ここら辺は、明日、うちの会社の新海誠オタクに聞いてみるけど、あれこれ考えて、こういうときは逆なんだと思えてきた。意外と芸術作品って僕らが思うほど自由度無いのかも。何故って、製作者本人がSoulをこめれる状況って、自己の体験からくる僅かなパターンのみだから。

 

そういう点から見ると、奥寺先輩のことも妙に示唆的。奥寺先輩とヒロインの二つに仮託したんだよ。

こう考えたら、一番、個人的に腹落ちした。すると確かに、

 

「奥寺先輩って、なぜ先輩って設定にしたんですかねぇ、同級生や下級生じゃダメなんですか?」

という設問にも価値が出てくる。映画見終わった後にこんな質問されたら純粋なアホだと思ってしまうけど、「あほ、うなもんどっちでもいいんだよ。先輩にした理由?そんなもん大した意味ねーよ。というか新海誠の初恋が先輩だったんじゃないの? 同級生や下級生じゃなく」ぐらいが一番ありそうな答え。そして、これと3年の時間差の必要性も答えは一緒。必要性なんてない。単なる監督の拘り。譲れないほどの強い拘り。

 

そして、最後の2人のシーンでも明確に年齢差を意識できるようにしていた。社会人直後の主人公と、何年間か社会人経験を積んだ雰囲気のヒロイン。お互い大学生時代なら、1年と4年でもあそこまで差は出ない。再開をあのタイミングにしたこと。これが拘りを更に感じる部分。

 

そして、この作品にフルコミットするには、こういう部分なんだよね。

 

僕は先輩派ではないから、なんかフルコミットできなかったなぁ。そんな事言い出したら、世の中の作品の1/3にはフルコミットできなくなるかもしれないけど、普通はここら辺はどっちでもいい。けど、この「君の名は」だけは、3歳差がちょっと無理やり入っているから、最後に響いてくる感覚。

 

wikipediaに海外の批評家が「数年後には宮崎駿と同等の評価を得るだろう」とまで絶賛したと書いてあった。その感覚は良く分かる。そこまで偉大な監督だからこそ、それが宮崎駿のような完全異世界でなく、あくまでも現実社会を舞台に高校生・大学生が主人公の作品だからこそ、フルコミットするときに妙に最後まで引っかかってしまった。

 

こんなこと書くと、かなりネットで叩かれそうな気がするけど、まあいいや(笑

君の名は。以前に新海誠の作品を全部観ていた人、が真のファンの前提条件だから、身近にいるのは嬉しい。明日の会話は楽しみ〜

 

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「東北大震災の3年後に作られた作品だから、3年後なのでは?」が最初の答え。先輩派の説を喋ったら、「新海誠の他の作品はヒロインが同級生派が多い」とは言っていた。新海誠自身が3年差のことについて説明したり書いてたりは無いと思う とのこと。なるほどね。




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