ロダンが造る男女の愛憎 - フギット・アモール -


ロダンといえば「考える人」
小学生でも知ってる。けど、この考える人が「地獄の門」という壮大な作品の一部だったとは、恥ずかしながら 数年前に静岡美術館に行って初めて知りました。予算に制限のある地方美術館だからこそテーマを絞って掘り下げる。山梨のミ レーと同じぐらい有名なのが静岡のロダン。(というのも行って初めて知ったのだが) 世界に7つ、日本に2つしかない「地獄の門」があるのが一番のポイントとのこと。もう一つの上野の国立西洋美術館と違って、室内に置かれているから鑑賞に適しているのは確かに納得。

静岡美術館のロダン館では「カレー市民のモニュメント」から「考える人」をはじめ地獄の門を構成する様々な彫刻が個別展示されていた。そこで一際目立っていたのがこの「フギット・アモール」です。他の観客は一瞥ぐらいでしたが、私は5分以上も眺めてしまっていました。「人間の根源的な愚かさ・弱さがにじみ出てる恋愛」を表現した作品を探していたので、見た瞬間に「これだよ、これ。これがずっと欲しかったんだ」と呟いてしまった。

苦悩を抱える女にすがりつく男
このふたりの有りえないポーズの良さ。去っていく女性に対して背中から体をのけぞり乳房を抱きかかえるようにすがり付いている。

この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと 出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる。(Wikipediaより引用)

「功成り名遂げた芸術家が、若い美人な教え子と不倫に走り、糟糠の妻をないがしろにする」ってありがちな光景なんだけど、その教え子が精神病院に入院という部分が。。帰った後に調べて初めて知ったけど、この像の女性の苦悩は確かにそこまでの射程がある。

ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。
認知できなかったにせよ子まで作っていたのだから、妻という意識はあったのだろう。末期の言葉がこれならば、たしかにこのすがりつく男の姿はロダン自身に重なる。

Wikipediaで調べると、カミーユは美人かつちょっと幸が薄そうな。。
ローズは大きな心の安らぎの存在であり、カミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことはできな かった。その中でカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するも中絶し、多大なショックを受ける。やがて2人の関係は破綻を迎え、ロダンは妻ローズのもと へ帰っていく。徐々にカミーユは心を病み、40代後半に統合失調症を発症する。(Wikipediaより引用)

「考える」というのは人類に与えられた最高の能力であり、「人間は考える葦である」というパスカルの言葉と共に、ロダンの「考える人」は世界中で有名。だけど、小/中学生の頃に「考える人」をみても、「けっ」と反発する種類の人間がいるのも事実。勉強ができる/バカの区別でなく、理論先行型/経験先行型というフレームで捉えるべきだと思っているけど、それでも、やっぱり「考える」だけが人生ではない

そんな面では先日亡くなった渡辺淳一の小説も悪くは無いが、それより前に、このフギット・アモールは美術の本には載せるべきだと思っています。美術のデッサンの練習でも、考える人だけでなく、こちらも題材にすればいいと思う。ちなみに、上野でも個別展示しているみたい。個人的には静岡の白色の方がしっくりくるかな。


----
[2014/05/11]
カミーユの伝記映画を見ました。主演の2人が写真で見るロダン、カミーユに似ていて非常に楽しめた。映画自体も色々な賞を受賞しているだけのことはある完成度。フギット・アモールを見てからずっと気になっていたけど、映画を見るまでに数年かかってしまった。あまりに重い世界は長く沈殿させて、きっかけが無いと見る気になれない部分もある。映画の元になった本も気になるけど、それを読むのはいつになることやら。こちらのレビューは凄く惹かれる。タイトルが「恋のバッドトリップ」で、「カミーユは恋に溺死しましたね」って30歳の女性でここまで書けたら才能あると思う。

結局、美貌が不幸に結びついたのでなく、カミーユの才能なんじゃないかな。映画でも最初に出てきたモデルをしてた詩人の卵。映画の中の表現でも分かるように、お互い売れない芸術家であっても、あの人と一緒にいるべきだったと。

男と女として共鳴し、同じ芸術家として共鳴する。
渡辺淳一の最高傑作は与謝野鉄幹・晶子を書いた「君もコクリコわれもコクリコ」だと思うけど、こちらのカップルは明確に女性の方が才能が上だった。どれだけ最初は男の方が有名でも、最後は正しい評価に落ち着く。死後、これだけ時間が経っているしね。だからこそ、やっぱりロダンとカミーユはロダンの方が才能があったんだと。カミーユと付き合っている頃がロダンの最良の時期であり、ある種の部分ではカミーユがアイディアを提供したにせよ。個別に作った時の作品を比べて(両方を見た事が無いのであくまでも巷の評価ですが)さ。

男と女の間の共鳴ならば、どちらかが強いという事は無い。種類が違うし、お互いの場所は存在する。
けど、芸術家同士では明確に出る。特に同じ分野だと・・・

だからこそ、才能があったカミーユは不幸になった。「中途半端な才能なら無い方がマシ」とまでは言わないけど、その才能に自身をかけるのであれば、死んでも男と女の関係になっちゃいけない。この状況になったら男が立場を利用して強姦まがいの状況になるかもしれないし、その当時に強姦として訴えれる時代状況で無いとしても、一回以上は有りえない。

ピカソとフランソワーズ・ジローの関係は彼女を取り上げたTV番組(日曜絵画○○だったかな)で見ただけど、カミーユもフランソワーズの生き方ができればよかったのかもね。こういう同じ芸術分野の先生としての男と、弟子としての女の関係って、ちゃんと調べて、場合分けして、一般的な指針を導きだすべき。中学の道徳の時間で、芸術の時間と合わせて、一気に人間と作品の本質に迫る授業をすべきだと思った。

カミーユの映画をカップルで見て、二人で地獄の門とフギット・アモールを見に行く。そんな大学生同士ってありえるのかな。あまりに怖くて薦める事はしない。もし静岡大学に行ってたら、そんな人生になってただろうな、とふっと思った。ちなみに仙台の美術館は、確か女の子の彫刻が有名な日本の彫刻家をメインで取り上げてます。そうだ、佐藤忠良だ。個人的にはちょっと「男性が思う女性の理想像」の面が強くて、合わなかったんだけど。
 



コメント
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック

categories

links

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM