「若者殺しの時代」 堀井憲一郎

この本は色々な場所で論評されているし、皆さんの意見にはかなり同意している。論評から育った年代がうかがえるの楽しい点。バブルというのはそれだけ日本においてエポックメイキングな事だったんだろう。

クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若 者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる 時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった(こちらから引用)

堀井憲一郎氏によると、「損得」で考えた場合、戦後から昭和の終わりころまでの日本社会では、「若者であることが得な時代」が続いていたのに、いつの間にか状況が変わり、現在では「若者であることは別に得ではない」時代になってしまったといいます。もちろん、厳密に考えていくと、何をもって「損得」の基準にするのかという話になってしまいますが、とりあえずそういう問題は抜きにして、何となく直感的に判断するなら、私もそんな気がしています。(こちらから引用)

“80年代に女の子が恋愛のレートをあげて、結果としてみんな不幸になった”
堀井氏は、「80年代に女の子はお姫様になった」と指摘。お姫様は王子様が現れて、自分のために完璧なクリスマスイブを用意してくれると期待する。高級フレンチにブランドワイン、食後は一流ホテルのバーに生バンド、当然お部屋が予約してあり翌朝はルームサービス。プレゼントはティファニーの・・。最初は(それでやらせてもらえるならと)この流れについていこうとした男性。でも数年ほど頑張った後、90年代半ばから男性はついてこられなくなる。当然です。給与もあがらないのに続かない。(こちらから引用)

個人的には「漫画への言及が多すぎる」に同意するけど、作者本人が漫画研究会出身ならば当然かもね。もうちょっと学生のアルバイト代とかのデータが欲しかったけど、それは細かい点です。根本的に良い本だから。その上で思うことは、「若者をターゲットにした」というより単純に日本が豊かになって、遊ぶお金のためにアルバイトする学生が増えた結果じゃないのかな。「大人たちの陰謀」というよりも、そういう消費層が出てきたからアプローチしたんだと思う。「若者が踊らされた」というより「若者の可処分所得が増えてきたから、売りつけるようになった」の順序。もちろんこの両者はお互いに影響しあってスパイラルになると思うけど。

逆に今は「就職活動の交通費(地方から東京に何度か通う)ために、まずバイトから始めなくちゃいけない」現実もあるとの事だから、それだけ日本が貧しくなったのだろう。昔の就職活動は全部企業もちだったと聞いたことがある。だから、最後に「若者を狙って絡めとる社会から逃げろ」と言っている著者のアドバイスは必要なくなってきている現実もあるのでは。絡めとるモノ自体が減っていると思う。

ここら辺までが一般的な論点。その上で個人的な感想です。
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語り口が村上春樹に似ている。喩えをひとつ見てもそう思う。村上春樹の元ファンとしては、ちょっと気になってしまった(笑 その上で、この作者:堀井憲一郎の視線は、今回の本のテーマを横においても読む価値があります。

あんなせこいペテン師は叩けばいくらだってほこりが出る。というか、ほこりを全部はたいたら、本人がなくなっちゃうよ、というタイプの人間だ。あちらこちらで小さく騙してきたせこいペテンが次々と明るみにでて、栗良平は、感動の童話作家から小ずるいペテン師へとなりさがってしまった。そんなの、どっちも本人が持ってる資質で、どっちに光を当てるかだけだろうとおもうんだが、世間はそうは見てくれないのだ。「せこいペテン師にだって、世間を感動させる物語が作れるなんて、それこそいい話じゃないか」と僕は思ったが、誰もそんな擁護はしなかった
一杯のかけそばは確かに覚えてる。小学生ぐらいだった。この後日談があったのすら知らない年頃に聞いたのは確か。このコメントは非常に本質を突いているし、優しいと思うな。
やはり爆発的に売れるのは、内容よりもタイトルなのだ
と言っているのも納得。もちろんタイトルだけじゃダメだけど、「タイトルの時点で読む気にさせないとリーチが短くなって、どれだけ中身が良くても社会現象までは行かない」というのは正しいのだろう。

ディテールには説得力があるが、前後のディテールが矛盾している。ペテンの基本だ。大きな枠組みを信じさせて、あとは説得力のある小さい話を継ぎ足していけば、人は信じるのだ。矛盾なんか、気にしなくていいのである。細かいことは気にするな。それが目の前の人を説得する基本である。文章にしたとたん、一挙にウソがばれてしまう。<中略>ヘタな落語家は理屈で解決しようとして余計な説明を加えるが、うまい噺家は押し出しと迫力とテンポによって、つまりはペテンの力によって、矛盾を矛盾のまま納得させてしまう。栗良平にも、そういううまい噺家と同じ資質があった
これも完全同意。最近は会社の中でもコミュニケーション力とか色々言われているけど、この文章を噛み締める所から始めた方がいい。宗教の経典だってそう。矛盾があるし、結局、人間自体が矛盾を抱えて生きているのだから、矛盾を矛盾のまま納得させるのが本当のプロの世界。

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クリスマスの変遷の話は非常に面白いのでぜひ本を買って読んでください。クリスマスにはこちらに書いたように色々と思うことは多いけど、そこら辺はパスで。クリスマスを話題にした中で一番気に入ったのは以下の文章。
昔の雑誌を介して怒られるのは理不尽なのだが、怒っている内容は正しい。女性に怒られるときは、いつだってそうだ。入口は間違っているんだけど、指し示しているポイントがおそろしいほど正確なのだ。何も言い返せない
作者はいい恋愛をしてきたんだね。こう痛感している男は幸せだと思うよ。

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ディズニーランド:女の子の希望を優先する世界
ここら辺からがぜん楽しくなってくる。そもそも男でディズニーを好きなのは30%いるのかな。女性でディズニーが合わないという人は、今まで周囲を見渡して3%未満だね。結果としてよく聞くのが「毎年ディズニーランドに行く彼女にしょうがなく付き合う彼」の構成だから。

そもそもディズニーランドはウォルトディズニーというおじさんの頭の中に存在していたものだ。自分の頭の中の世界が大好きだったウォルトは、その世界を具現化させるために細心の注意を払った。悪意と混沌と征服欲を分かりにくく底にしずめ、表面をきれいにコーティングした。<中略>ディズニーランドは「あるおじさんの妄想的世界の中にすんなり入れる人」しか楽しめないのだ。もちろん、すんなり入れる男の子もいるだろう。でも、ふつう、男は他の男の妄想世界が苦手なのだ。自分の妄想の方が正しいと思ってるため、人のフィクションを受け入れにくい。女性はそんなややこしい観念に興味が無い。楽しければいい。意味なんか求めない。男はすぐに自分が納得できる意味をさがす。でもディズニーには納得できる意味は用意されていない。
刺激的な言葉を使っているが、言っていることは非常に本質的。妄想→空想。悪意と混沌と征服欲→何度も人が来てくれる場所を作るためのマーケティングセンス、と読み替えればディズニー好きの女性も納得するでしょう。下線部は面白い視点だけど、ちょっと違うと思う。フィクションがイヤなら男性向けの小説だろうが何だろうが売れないのだから。フィクションがイヤなのでなく、女性と子供を狙った世界観がイヤなのだ。男が最初に拒否したのか、ウォルトが最初に拒否したのか謎だけど、少なくとも男性はディズニーランドに求められてないと、個人的に感じる。それはあの4頭身ぐらいのミッキー達のせい? 個人的にはラピュタの巨神兵があるジブリ美術館は好き。もしラピュタやナウシカの主人公達が4頭身ぐらいだったら、、、やっぱりパスだったかも。ジブリの中では比較的低い等身のトトロ(トトロ自体と妹ね)はやはり子供向けだと感じるしね。

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女の子の機嫌をうまくとらないと、相手にしてもらえなくなった。女の子は勝手にお姫様におさまってしまった。遊び場の賭け金を、女の子が上げたのだ。場が高くなると、結局、ギャンブラー本人の首をしめるのだが、女の子はそんなことは気にしなかった。女の子がつりあげた掛け金は、90年代になって、まわりまわって性商品をオープンにしてしまう。<中略>金がない若い男はわりを食う。90年代は女の性商品がオープンになり、若い男は性に対して二極化してゆく。二極化というのは、「ただでできる男」と「ただでできない男」の差がとても大きく広がっていくってことである<中略>何でもない男はただではやらせてもらえなくなり、何でもない女性は自分のどこを売ればいいのか分からなくなった。
この議論こそがこの本のコア部分であり、この内容を同意できる人は楽しめる本だし、同意できない人は無理して読まない方がいいと思う。その上で、根本的に考えたい。

「恋愛は男から動く必要がある」
昔は当然だった。今はこれに疑問をもつ若い男性も多いみたい。自分自身も昔は納得してなかった。「より好きな方が動けばいい」とシンプルに思っていたから。けど、30歳を越して分かるのはSEX→妊娠に関するリスクの差。やっぱり女性の方がリスクは大きいし、大きい方が及び腰になるのは当然だし、恋愛とSEXを完全に切り離すのは難しいし、結局、恋愛から男が動く必要がある。これが一般回答。

一般回答ってことは、応用編があるってこと。
以前にも書いたけど、「とことん好き。けどするんだったら、その後、家財道具もって押しかけるわ」これが一番です。ここまでストレートに言ったら失敗するけど、根本的にはこの態度で、あとはどれだけ状況に合わせてオブラートにするか?の違いしかない。「浮気したらあんたを殺して私も死ぬわ」と男性に思い込ませれば、それでOK。それでも浮気されたら宣言した通りにするか、素直に諦めるか、どちらか選べばいいんじゃないかな。ここまで言っても浮気されるならいつかはダメになってたし、早めに気づけてよかったと思うしね。そういう意味で物事の順序とラインさえ間違えなければ、惚れた方から動いた方が良いと思う。そこら辺はこの傑作本を読めば体得できると思うけど。

「ただでできる男」
若いうちにモテルのはかっこいいかスポーツができるぐらいだね。25歳を越すと将来性(卑近に言えば働いている会社)とかも考慮になる。男の中で差が広がったのは、シンプルに昔は婚前性交が少なかったから、モテル人でもSEXまではなかなか無理だっただけじゃないかな。単純に自由にすると勝ち負けがはっきりするのは経済現象と同じというべきか。
その上で、もうちょっと掘り下げたい。

本当に80年代の女性は高級ホテルならば良かったの?
女性は「私のためにこれだけ頑張ってくれた」という結果を見たいのであって、本当に高級ホテルならOKならば、金持ちのオヤジでも良いのだから。若者がバイト等で頑張れば10万円くらいを一月で稼げる時代になって、その頑張りに対して女性はOKを出したのだと思うのだけど、どうですか? 根本的には女性は今も昔も「お前だけをとことん好きだ」と言われたい(ストカーとか陰湿な方法じゃなくて)のであって、その表現方法が社会と共に変わっているだけの気がする。あの頃、男も女も老いも若きもバブルに踊ったのは事実だろうけど。

ただ、「美男・美女」に関しては確実にレートが上がったと思ってます。
それは、一家に一台のテレビから、一部屋に一台のテレビに変わったのが一番大きいと思う。人間は毎日見慣れたものが基準となるから、自分の部屋でいつもアイドルばっかり見てたら、どうしてもそれと比べ始める。けど、あれだけの美男・美女なんて街には1000人に1人もいないから、TVが無ければ一ヶ月に1人も見ないワケじゃん。映画があった時代であっても映画を毎日見る人はいないでしょう。トレンディードラマの流行よりも、それを部屋で1人で見れる状況の方が大きいと思う。一家に一台のテレビの頃は、いくら少年少女がアイドル見たくても、親がホームドラマや寅さんとかを見て、それで中和されていたと思う。ここら辺が個人的な推論結果。

そして今はネット等で昔よりも美男美女へのリーチも広がった。それと同時に整形も流行しすぎて、最近はアイドルみるたびに整形率を考えるぐらいの雰囲気になっている。結果、ちょっと顔のパーツが崩れてる方がなんか安心してしまう時代(それがAKB48?)になりつつある気がしてる。ネットに溢れる情報の中にはアイドルの裏情報もあるし、人々がアイドルに幻想を抱く期間も短くなっているしね。「こんだけ可愛いんだからウンコしてないはず」とか思ってる人って流石にもういないでしょ。

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宮沢りえのヌードは僕らの世代も衝撃的だったからよく覚えている。この本でも
ある種の破壊行為でもあっった。時代の何かがおかしかったのだろう。宮沢りえも、まともな状態じゃなかったんだと思う。いくつもの手順や、序列を無視したヌードである。トップアイドルが人気絶頂期に脱ぐ、という意味が分からなかった。いまでもわからない。何かを壊したということしか、分からない。これ以降、地震でコンビニエンスストアの棚の商品が落ちるときのように、無秩序にヘアヌード写真集が出続けた。

斜体にした部分が村上春樹の喩えに似てると感じる部分。こんな部分が合計10個ぐらいあって、今まで読んできた本の中で、村上春樹自身以外では一番多いんだよね。下線部分の問題意識はあの頃もそして今でも分かる。中学の頃、鈴木保奈美の写真集でブラから乳首がちょっと見え隠れすることを同級生が熱く語ってた。これが一般的な風景だった。それを完全に破壊したのは確か。

作者はコンビニ地震と言っているが、その後のヘアヌードでも印象に残っているのは菅野美穂ぐらいじゃないかな。今で喩えて言えば松下奈緒か綾瀬はるかぐらいのレベルだと思う。エリカ様やのりピーじゃ衝撃にはならないでしょう。けど、あれだけニュースになったけど、実際に写真集を買った人は自分も含めて周囲にいないし、だから中身を見たこともない。BookOffで安く売っていたらついつい買うかもしれないけど、実際に行っても探したこともない。なんでだろうね?そこら辺の微妙な感覚こそが《性》であり、隠しすぎても見えすぎてもダメなんだろうね。

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ルーズソックスについては思うことがある。
僕らの一年下の学年から急に流行りだした。94年か95年だ。同級生の女の子が、「私はよく意味が分からない」とルーズソックスに戸惑っていたのが、今でも記憶の片隅にある。
携帯(というよりピッチの時代からかな)もそうだね。
携帯電話以前では、もっと留保できるエリアが広かった。たまたまその日に逢えなかったからだろう、と勝手に自分を納得させられた。ゆるやかだった。<中略>いつもどこでも、すべてのところに繋がる可能性があるというのは、身も蓋もなさすぎる。あまりに直接的すぎて、携帯電話はじつは人と人とのコミュニケーションにはさほど適してないのだ。そのため、今や携帯電話は電話でなく、メールのやりとりが主体になってしまっている
飲み会でケータイの番号を交換して、1,2通メールのやりとりをして、ちょっと勇気をだして直接電話して。昔はこんなに楽じゃなかった。連絡をとる=相手の親と話すだったから。それが無くなったのは画期的だったよね。逆に「相手からの返事を待つうちにイヤになって携帯の電源をOFFした」のが身も蓋も無い距離感の苦しさ。昔は「電波が届かない所にいて」と後から言い訳できたけど、今は無理だろうね。ここでもひとつ猶予が無くなってる。

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最後に、著者の最後のテーマを考える。
「今の世界はあまりにマーケティングに絡めとられている。そんな外野の声は無視する方が良い。けど、最初の人たちはニートと言われて捕まってしまった。逃げるならば、伝統文化も一つの手だ」(要約)
ここら辺の議論は
この書評が面白かった。

その上で、個人的な意見を書いてみる。
なぜか大学時代は古武術にハマってやりこんでいたから。一般的なスノボ&サーフィンの真逆をしてたなぁ。けど、別に深い意味も無いよ。単に
個人的に面白そうに見えただけだし、実際に始めてみたら非常に楽しかったから。そんな意味では、別に深く考える必要も無いと思うな。

「どれだけ周囲から外れても、自分自身が楽しいと思えるものをトコトンやってみれば?」

これだけです。これだけ情報社会が発達すると、逆にどんな事を選んでも同好の士が見つかると思うしね。人にあれこれ言われて決める人は、どの時代でもやっぱり流されると思うし、それはそれでひとつの選択だし、誰かがああだこうだ言う必要も無いと思うんだけど。ただ、ボーダレス社会はどんどん進展していくし、「人類全員を平均したらフィリピンぐらいの生活レベルになる」って昔から言われていたし、世界はそちらに向かって動いている。バブル以降、今後ともずっと日本は貧しくなっていくのはしょうがないし、チャンスがある時にやりたい事にチャンレンジすればいいんじゃないでしょうか?

社会を破壊するとか、社会から逃げ出すとかそういう発想を、もう今の若い人はしてないと思う。だから著者のようにそれを薦めるのは効果が無い気がするな。イギリスでも中東でもデモ→暴動が起きているけど、日本では起こらないと思うし、表面的な平等主義は根が深い。社会階層化がもっとはっきりしていれば(イギリスはそうだし)、まだ若者も動きやすいと思うんだけどね。


こちらからの孫引用になってしまうけど、「不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)」佐藤俊樹氏は本質をついていると思う。この本も読まねば。その上で、ちきりん氏は「ゆるく生きよう」というテーマで「天井感を受け入れる」ことを薦めているように思える。けど、個人的な結論は以前にBlogにも書いたように

そもそも大前提として「自立する」のと、「自分をダメだと思う」のはかなりイコールだと思うのだけど、それは同意されるのかな。エヴァンゲリオンもそう。95年のテレビの最後の「シンジを皆が囲んで拍手してる」構図を見ながら、「それって月に一回はとことん自分自身に落ち込む人生だよ。それを勧めるのか・・・」と思ってたから。

こんだけですね。「ダメな自分でも好きと思えること」を探すだけなんだと思う。西洋だって長い時間をかけて自立した個人という社会モデルを作り上げてきた。非西洋では一番最初に資本主義で結果を出した日本(戦争でこてんぱにされ、核と在留米軍で去勢され、それ自体は受け入れている今の日本)が追いついていないのはしょうがないじゃん。自分が何処までも伸びていくと信じきるのも辛いけど、自分で自分に天井を作るのも辛いよね。

好きなことをやる。別にそれを職業にする必要もないと思う。振り返って満足できて、今でも手ごたえが持続していれば十分だと思う。その後、どんな職業についたのであれ、何かをやりこんだ経験は、絶対に生きるから。


10年ぶりに古武術の同期と新宿で会った。
彼が卒業後もずっと流派を続けていてくれたことが、うれしかった。
僕自身は卒業と同時に止めてしまったけど、あの時、古武術をやってたことは、その後の自分に凄くためになっている。

あの当時は「なんでお前そんなことやってるの?」と言ってた知り合いほど、
「今でも続けている?」とちょっと憧れ交じりに聞かれて、苦笑してしまった。
あの頃、彼らのスノボ&サーフィン&ナンパには、こちらが憧れていたんだけどね。
そんな彼らを正サイド、自分自身を逆サイドと規定していたけど
今の18-22才にこの区別は存在しているのだろうか?
会社で若い新人の飲み会に行くたびに、よく思う。
 



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