≪井筒≫を取り戻せ

「我々イラン人は日本人より井筒俊彦のことを知ってる」
→根本を掘り下げるのに神概念が必要な人達に言われる筋合いはない

 

イランが作った井筒俊彦の伝記映画『シャルギー:東洋人』を見ました。「我々イラン人は日本人より井筒俊彦のことを知ってる」とまで言われて、あわてて次の年にNHKもドキュメンタリーを作った。それが『イスラムに愛された日本人 知の巨人井筒俊彦』 こちらをオンタイムで見て以来、このイラン映画も気になってた。右の写真のとおりGenzaから購入できると知って、昨日届き、やっと見れてれて凄く嬉しかったです。

 

どちらの作品の方が面白いか判断に迷う。イランの作品は重厚感あるし、NHKはフレンドリーな作り。個人的にはイランの映画にでてくる人物デッサンに感銘を受けた。主人公の井筒はもうちょっとかっこよく描いてほしいが、司馬遼太郎のデッサンはほんとすばらしい。言語阿頼耶識にも触れてるNHKの方が個人的には好きだが、、、両方とも見る価値はある。

 

これだけ哲学・宗教学について読んでいても、35にしてやっと井筒のことを知ったのだから、イランよりも日本で知られてないのは合意する。だけど、現時点でもイランのほうが井筒を捉えているというの見過ごせない。いくら今の日本がアメリカの属国だとしても、「あまり日本をなめるな」ぐらいはガツンと言っおいていい。そもそも井筒俊彦がイスラム教に入信しなかった時点で答えは明白。根本を掘り下げるのに神概念は必要ない。

 

以前にも『意識の形而上学』を取り上げたけど、あの続きは書いてなかった。フレンドリーさを出すためあの角度から紹介するのがうちのカルマ。このセリフを言ったイラン人の学者のパッションは本気度合いが心地よい。だからこちらもトコトン書きたくなる。


一昨日に『退屈と暇の倫理学』を読んだ。非常に面白い。議論の内容も納得できる。けど、最後の結論は違う。第三形式の退屈はハイデッガーのいう決断でもなく、国分氏のいうように第一形式の退屈に繋がるワケでもなく、意識の形而上学に繋げるべき。

 

ただ、認知の根元にあるのは言語アラヤシキでは無いと思う。

根本は《知る》でなく《操作》だと。

 

結局のところ、神秘主義とは個人の内面の底に答えがあるとする態度であって、それを神と呼ぼうが原型と呼ぼうが大した違いではない。井筒俊彦はイスラム教の神秘主義を掘り下げていったが、著書にもあるようにイスラム教信者であってもトコトンやると仮名(けみょう)であることに気づく。だから神秘主義という言葉もよくない。日常的なフレームワーク(理解の枠組み)を捨てているだけ、だから。

 

 




コメント
コメントする








   

categories

links

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM