「意識の形而上学」と成長実感。そして「やれたかも委員会」

五年ぶりにこの本を読んでやっと全部理解できたと思う。逆に五年前は惹かれていても、ほとんど理解はできてなかったのだろう。だから凄く久しぶりに成長感がある。

 

子供の成長は物理的だからわかりやすい。身長が伸びる、歩けるようになる。誰でも分かるし、客観的に計測できる。けど、この指標は中学生ぐらいまで?もちろんその後も身長伸びる人もいるが、本人以外にはそんなに大きな話題でもない。

内面の成長も子供の頃は分かりやすい。まずは言葉をしゃべれるようになること。言葉でコミュニケーションできるようになるのはやはり革命的。こちらの意図を理解するたけでなく、自身の意図を伝えれるようになる。それは魔の三歳児みたいに面倒なこともあるけど、本人にとっては大きいだろう。それとトイレコントロール。これは意志と生理的欲求の兼ね合いとして大きな内面的進歩であるし、周囲にとっても下の世話から解放される大きなチャンス。この前、兄貴の子供達3人がちょうどここら辺の前後だったので非常に見ていて考える部分が大きかった。

 

 

 問題はこの先の成長。単にスポーツや勉強の成績を指針にするとおかしくなる。けどそれ以外の汎用性・有用性をもつ指針も難しい。本人の中での指針もある。本当は「本気で打ち込めることを見つける」だけど、見つけても勉強に費やす時間が減って親から文句言われる。子供が自発的に勉強に打ち込むなんてのはレアだよね。

 

社会人になったあとの成長もそう。年収の増加や出世で測る?それも寂しい。けど、若い頃に学業で測るぐらいの有用性があるのも確か。内面的には、うーん、結局は自分の子供の成長にリンクさせる面が大きいのかもね。親としての態度、子供に真に伝わった事からも、子供の成長に投影するのはそんなには間違ってないともおもう。

 

 

ここまで考えた上で本題にもどる。

五年経っても読み返しくなる本。そこから明確な理解の差を感じれるのは、一つの幸せなんだと。単なるハウツー本にはここまでの深さはない。内容が薄い本なんてもっとない。何よりも最初の時点で「分からないけど魅力を感じる」ことの難しさ。

 

今までここに該当するのは、ベルクソンのあの本ぐらいだった。もちろん他の哲学書も分からない本は多いけど、五年経っても読み返したくなる魅力は感じなかった。その魅力を井筒俊彦には感じてるんだね。当たり前か。そして、やっと胸を張って言えるようになった。この本を心底理解したと。

 

心底の理解とは行動ではない。行動を促す本ではないから。もちろん行動を促すハウツー本もあるし、それはそれで役に立つ。読み返すと出来てない部分にショックを受けることもある。けど、こういう思考系の本は、完全理解=どれだけでも分かりやすく説明できること、だと思ってる。だから今度書きますね。

 

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なぜだか謎だけど、井筒俊彦はいつだって正反対の場所に繋がる。5年前もそう

平安朝における「眺め」とは、折口信夫によれば、春の長雨期の男女間のもの忌につながる淡い性欲気分でのもの思いだという。たしかに例の伊勢物語の「起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ」や、古今集の小野小町の「花の色はううつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」などの「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺洩していることはいなめない。「意識と本質 精神的東洋を索めて」 井筒俊彦著 P54

 

こんなこと書いちゃダメなんだよ。ちょと小頭が良い真面目だけがとりえの内気な男の子のパンツを引きずり下ろすぐらいの乱暴さ。

 

そして今日は「やれたかも委員会」かよ。。。話題になっているのは知ってたけど、今読みました。なんなんだ、この親近感

 

若い頃を振り返って後悔をしてる。そこに漂う濃厚な90年代感

それが重低音のようにうちらの心に訴えかける。無性に自身の記憶が呼び起こされて、爆笑の先にある何かを連れてくる。寝起きに色々と考えてたら朝9時。自家製珈琲のんで研究開始。チューリングとチャーチの間に攻めて行ってそのままんま敗退。。しょうがなくBlogUP。昼にラーメン食ってもMP回復しないからAmazonアンリミティッドでこの本を見つける。

 

全然、井筒と関係ない?、、いやいや違うんだよ。この漫画の良さは表紙の月満子氏の冷静な突っ込みと塾長の能島明の最後のコメント。味がある。だからこそ、「この世に完全な片想いがあるか」にスタンスをはっきりとした本サイトとしても明言したい。

 

30歳を過ぎて、ふっと気づいた「やれたかも」は成長の証

これこそが本当の真実では。当時の次の朝に思った「昨日はやれたかも」は違う。そこでもっとアクティブに攻めても敗北が酷くなるだけ。もし、攻めて上手くいくならその時に君の本能が感じるし、本能が感じれば自然と攻めているから。あの場で引いたのは本能がそう感じたからであり、それは間違いない。

 

けど、30過ぎて気づいた「やれたかも」は別の攻め方(アプローチ)に気づいた証拠。

もちろんそれはもっと数日前の布石だったかもしれないし、あの時の意外性に満ちた攻撃(行動や言葉)かもしれないけど、難攻不落な城がありえないように、どれたけ我欲を抜いても「あの時やれたかも」と思うのはそれだけお互いに心の震えがあったというシンプルな事実。心の交流と体の交流は常にテンポが同じなワケではない。こんな部分まで30歳を過ぎると気づくようになるし、そこまで気づいた上での「やれたかも」は人間成長の証なんだと。

 

30代のときは20代のやれたかもを凄く考えていた。けど、20代のときに10代のやれたかもを凄く考えることは無い。そもそも10代にそんなやれたかも、なんてない。そして、30代のやれたかも40になって考えるかと言われたら、、、それすらも薄くなるのかもね。最近、そんな気がしてる。

 

井筒俊彦はさすがにオススメしないけど、こちらの漫画は誰でもOK。できれば30歳以上。興味出た人はこちらで途中まで読めるし、4月からTVドラマにもなるみたいだしね。それにしても、委員会のメンバーって男2名はいつも「やれた」だし、女性陣の月満子氏は「やれたとは言えない」だし、いつも多数決で勝たせてあげてるけど、女史のコメントはグサっとくるね。逆に女性が登壇者のときは「やれた」って、ちょっと同性に甘くないか(笑 まあそこも含めて世の中の真実なんだろうけど。

 

 




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