道理と感性の糖衣構文


以前にこう書いたけど、

そもそも感覚と感情を明確に分離できるかどうかも謎。どこかで線を引かないと区別はできないと感じてる。「感性」は一般用語だけど、感覚と感情と感性の三つの違いを明確化することすら大変。感覚は感覚器で感じるけど、感情と感性はそもそも何で感じるのか、まずこの問いから答えないと。 《略》「感覚」と「感情」は採用するけど「感性」はいらない。感性を捨てるのは勇気がいるけど、やっぱりいらないな。 

 

感性を捨てるといってもコア単語に採用しないだけ。もちろん派生語としては認める。巷の文章に「感性」って言葉は良く使われるしね。派生語自体もコンピューター言語分野では糖衣構文:syntactic sugarと言われる。大学3年で研究室に入った頃、初めてこの単語を知って意味不明だった。いくら分野特有の専門用語といっても、もうちょと想像しやすい言葉にしてくれよ、、、今でこそこの画像のように、コア単語がピーナッツで、派生語を砂糖コーティングに喩えていることは分かるけどさ。。

 

最近やっと道理と感性についてHHAIなりの定義づけが終わったのでメモ程度に書いておきます。

 

感性=感覚+決断

道理=心情(主観)+論理(客観)

 

一般的には「鋭い感覚」を感性の定義とするみたいだが、個人的には納得して無い。たとえば、匂いに敏感なだけで感性が優れているって言う? 感覚がどれだけ鋭くても、それが決断に結びつかないかぎり感性とは言わない。決断=「リスクを覚悟した判断」 レストランでメニュー選ぶのだって一つの判断だけど、そんなのは誰も決断とは言わない。いくら感覚が鋭くても、その感覚に自分の人生を預けることまで出来て初めて感性。複雑な場面において決断しないで様子見をしていると、確かにどちらかに状況は流れていく。それはそれでリスクを減らす生き方だけど、突き詰めれば「周りに流された人生」でしかない。決断といえる判断をどれだけ下してきたか、それは結構大事なポイント。決断ポイントでとことん情報集めに走る人もいるけど、それじゃあ感性は磨かれない。リスク重視派の人って、感性を磨いてないことすら気づいてないんだよね。周囲でも2,3名いる。そういう人ほど俺の事をテキトーとかアホだと思っている(笑 けど、前回に書いた甲斐駒はホント良かった。リスク重視してたら一生、見れない風景がある。

 

道理を認めるとは、主観的にも客観的にも納得した状態。「心情的に納得する=腹落ちする」ってのは誰しもが認めるでしょう。客観的というのは論理だし、この世の論理は全て共起確率に落とし込めばいい。

 

 

主観的に納得できないのは 銑イな。

〃い=自己の価値観に合わない

意味が無い=効果がない

スキルが無い=失敗への不安

せ間/ヒマが無い

ヌ滅鬚澆無い

 

この中でイ世韻HHIのコア言語じゃない。楽しいって、シンプルな感情なんだけど、突き詰めると結構難しいと思ってます。そんな今日この頃。

 

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感覚→感性→芸術/美

ある本を読んでいたら、こっちの定義もあることに気づいた。こちらの方が皆の同意かもね。この形式化の難しいところは、芸術/美の明確化。以前も散々に考えた

藝術によって、人は満たされない過剰欲望の苦悩を、ふしぎな享楽にかえる事ができる。

それで藝術の作品は必ずそれに相当する現実の行動を消している。その消却のうえに、その抹殺の上に作品が立っている。そこにまさしくその迫力がある。すなわち消されて無くなったものの抵抗、いわば抹殺されたものの執念が作品の中にこもっている。うごめいている。それがその迫力になる。

ここら辺が最高峰である小林市太郎の核心部分。改めて考えると、この理論は欲望を消すことがメインだけど、逆に魂の鼓舞とでもいうべき行動を促す芸術もある。そこの掘り下げが甘いんだね。

 

芸術と感動はセットで定義すべきで、芸術により感動し、感動させるものが芸術なのだ。以前から動詞と名詞の関連をとことん考えているけど、それは山は名詞でも川は動詞では?というレベルの問題だけではない。芸術と感動のようなセットもある。そして、感動は二十歳の頃からとことん考えてきた。結論は「作品に手を引っ張ってもらって一瞬だけ階段を登れている」

 

そんな意味では、結局は似ているのだと思ってきた。行動を消すでも行動を促すでも結局は同じこと。その手前だから、決断でいいのだと。




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