零と矛盾の禁欲

 

先週末、ネットを色々と調べて、時枝文法→三浦つとむ の先にあるのは川島正平だと思った。ところが絶版&Amazonで中古2万円。増刷するか、角川ソフィア文庫にでも収録してくれ〜 と思って、悩んでいたら図書館の書庫にあるのが判明。この週末で読みたかったので、金曜日の昼休みにダッシュで借りてきた。

 

 

で、今読んでます。こちらに書いたように吉本隆明が絶賛する三浦つとむの理論だけど、やっぱり色々と納得できてない部分がある。

 

零記号の使いすぎ

弁証法の使いすぎ

 

一番の違和感はこの2点かな。もちろん時枝文法の時点で零辞があったけど、三浦つとむは使いすぎな気がする。数学における零記号は「0」という形があるけど、零辞は形もない。以前にあったものを省略したならいいんだよ。過去を調べれば証明できるから。けど、時枝文法における零辞は本当に影も形もなくて、省略ですらない。

これは認めた瞬間に何でもありだよ。すげー卑近な例でいれば、恋愛において「私のこと好きでしょ」「はぁ!?」「そんな態度も行動も全くないけど、分かってる。零辞だからね」って無茶苦茶な世界。

 

そして弁証法フリークもダメだね。全ての対立が止揚を求めているワケじゃない。子供の喧嘩や、男女の性差や、単なる誤解もあるワケで。そこら辺もすべても「矛盾」という言葉を使われると、「家に帰ってもそんなノリで会話してたら奥さん出て行くぞ」と思える状態に近いのかも。零記号も対立と止揚の弁証法も物凄く強力なフレームワークだからこそ、使用には禁欲的にならないと。

 

三浦理論のコアである認識の分裂は凄く興味深いけど、「この俺が引き受けた」という表現における「この」の意味を「認識の分裂」まで使って説明する必要性は謎。単なる強調でいい気もする。「過ぎたるは及ばざるが如し」というけど、及ばざるよりは絶対に良いけど、それでも使い過ぎると本質からズレるのを痛感。ここら辺を川島氏がどう料理してくれるか、楽しみにしながら、いま、読んでる。そんな週末。

 

--

[6/10]

川島正平氏本人のサイトがあって、メールアドレスが公開されていたからメールしてみた。幸運にも2,3度やり取りをさせてもらった。おかげで言語過程説に関する自分のスタンスが決まった。メールを書きながら、疑問点まとめたので、ここにおいておきます。

 

◆主体、客体と零辞の関係

『言語過程説の研究』P.152をみると、客体の認識とは「誰が表現しても同じ表現になる」と暗黙的に述べていると思える。
主体表現=個の意見表明、客体表現=客観的な事実描写として読み替えることで、時枝氏の理論も、三浦氏の理論も、川島様の理論も理解できるのか、三者の間に主体と客体の定義の違いは存在しないのか。
P.154を見ると時枝氏は主体表現は概念過程を含めない場合があるとしている。個人的にも「怒りの雄たけび」などは概念過程を含んでいないと感じる(雄たけびは言語では無いという区分なのかもしれないが)。

 

『言語過程説の探求 第一巻』には、「概念化されない認識はあるか」「表象をもたないと概念とは言えないか」「客体化されない概念はあるか」等の点では、人によって異なる解釈が行われている(P342) と書いてあるが、この差が実は一番大事で、零辞はその微妙な差をうやむやにする力があるように感じる。客体を突き詰めるのは難しく、「純粋な客観があるのか」、「客観=他人の主観」とするのか、の対立に近い。
これは片方が間違っているかどうかでなく、認識モデルの違い。世界観全体の中でのバランスの問題であり、認識モデルだけ取り出して議論してもしょうがない。

 

 

◆認識の二重化
頭の中で観念的な対象を設定して、それを見るとき、

 仝充太こΔ砲い覆ら、観念世界とその中の対象物を見ている
 ⊆ら二重化して、観念世界の中に自分の分身が存在し、それが像が見ている

この両者はモデリングの違いであり、どちらが正しいのか証明はできないと感じる。もちろん色々な言語の時制等を理解するときに、△里良い説明ができるのは非常によく分かる。だからといって、△鉢,鮴擇蠡悗┐道箸辰討い覯椎柔は零でない。特に「この」という単語は、殆どを,悩僂爐茲Δ粉恭个あり、「この俺」という表現まで△噺世錣譴襪函¬な違和感を感じる。

 


◆関係意味論
個を主として関係を従とするのが西洋哲学とすれば、関係を主として、個を関係の束として捉えるのが東洋哲学の本質だと理解している。関係意味論は、関係を主としたい衝動をもちながらも、それを言語化(自己認識)できず、理論化が中途半端となっている。この部分は、主関係、従関係という分類を作り、もっと考察を進めるべきだと思っている。

 

----

[6/4]

この週末を費やしてだいたい読んだ。『言語過程説の研究』と『言語過程説の探求 第一巻』の二冊。二冊目の方が面白かったかな。特に最後の「自然言語処理と言語過程説」:池原悟 の部分は同じ自然言語処理分野として興味深かった。それ以外でもフランス語の半過去形の考察と、英語の現在時制の考察の部分は学ぶところが多かった。最後は、ここになるのか。

 

全体としては、本流というか幹の部分は大方考察が終わって、細かい日本語の用法を分析していると感じる。時枝文法から始まった大きな流れは、認識部分も言語学の範囲に含める事だから、これ以上本流を突き詰めるためには認識自体を突き詰める必要があるし、そこは別のアプローチが必要なんだと思う。

 

「概念化されない認識はあるか」「表象をもたないと概念とは言えないか」「客体化されない概念はあるか」等の点では、人によって異なる解釈が行われている(P342)とあるけど、これこそが哲学の罠だと感じる。客体も概念も認識も表象も単なる用語の問題で、ぶっちゃけ決めの問題。「魚の腰はどこからどこまでか」ぐらいの意味しかないのでは? ここら辺に人生をかけている人もいるとは思うけど、人によって定義が違って、かつ、お互いに譲れない(どこまでやってるかの実感がお互い違う)問題を議論することほど無意味な話はない。「とりあえず決めて、それで動けばいいんだよ」というぐらいの態度でとりあえず先に進まないと。

 

この池原氏の「中間言語方式」への態度はウチと真逆だけど、「チョムスキーの深層構造によって理論的に保証されている」とはもう誰も思ってないでしょう。状況意味論まで取り上げていて凄く懐かしい。しかし、状況意味論は、言語表現がどのような場面に置かれたかによって、その意味は異なるとして、その場面ですでに分かっていた情報に対して、ある表現が置かれたことによって場面に新たに持ち込まれた情報がその文の意味であるとしている。情報理論的な説明であり、話者の認識は考慮の対象外となっている。状況意味論では、どんな文でも、場面によって意味が変わるということになるため、相手によって意味が変わるとする解釈意味論と同様、意味解析のしようがない。(P350)

 

2000年、修士1年の時に状況意味論に取り組めと教授に言われ、内容を見て「アホらしい」と思ってほっておいたから僕は大学院に残れなかったけど、使えない理由がウチと真逆。状態と状況の区別をしてないのが、あの理論の全ての間違いだと思ってる。解釈意味論でいいんだよ。解析に個人の内面を含めるだけなんだから。様相論理なんて一番ダメ。様相論理に将来性を感じる人は、ポール・グレアムの表現を借りれば、Windowsのメールサーバーを選んで失敗した90年代のスタートアップと同じ運命。ただ、その理由も池原氏が書いてるような演算規則の開発がネックなのでなく、根本的なモデリングの問題だと思ってる。

 

結局、この3週間ぐらいかけて分かったことは、主体・客体表現と認識の分裂か。上手く整理できれば、それなりに活用できそう。

一番のショックは、結構、海外の論文も探したつもりなんだけど、少数総合的言語の「 35個の語根」のリストが見つからない。。

 

これ以上探すか、自分で考えるか、そのどちらかだね。そして最後は時間表現なんだね。半過去だけはもうちょっと調べるか。




コメント
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック

categories

links

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM