コミュニケーションにおけるメッセージの洗練が芸術

AIにおける美と聖と性について昨年末からドツボにハマってる。

以前にクリアしたと思っても、より前に進んで問題意識も深くなると、以前の解答の荒さに耐えれなくなる。こうやってゴールが遠ざかる・・・

 

 

「哲学の道」じゃなくて「登山道」ならばヒントが思いつくかもと思って金時山に行ってきたけど、そんなに世の中甘くないか。だからもうちょっとインプットも必要だと思い、元旦と二日目を費やして小林太市郎氏の著作を読んだ。これだけ有名な人だけど、今まで全く知らなかったです。昨年、月刊誌『選択』の新連載で知った。

 

まさか著名な尾形光琳の『紅白梅図屛風』を下記のように述べるとは・・・。

中央の水流は、光琳が手をつけた奉公人「さん」の女体で、仰むけにのけぞった顎から胸の線が左で、右は巨大な尻だという。左の白梅は光琳で、その枝は手のように肘をまげて乳の先をまさぐっている。そして樹根は恥骨をたたきながら「どうだ。俺のは太くて固いだろう」と得意がっている。右の紅梅は、光琳のパトロンであり愛人でもある銀座役人の中村内蔵助で、後ろから襲いかかろうとするところを大きな尻でドンとはねとばされたため、驚いて両手を上げ、一物勃起したまま突っ立っているところだというのだ。 この説を述べたのは、決してポルノ作家ではない。神戸大学教授も務めた美術史研究者小林太市郎である。

 

この絵は伊豆のMOA美術館で見ているけど、確かにこういわれると、そう見えてしまう・・・。

選択の連載でも「この説は一度知ってしまうと、どのように記憶をリセットしても、そう見えてしまうので注意が必要だ」と書いてあるのも納得。もちろん連載にはこの解釈にいたった背景も書いてあるので、そこもふまえて同意できるのだけど・・・。この解釈が面白かったので、小林氏の経歴を調べ、著作を買う事にした。まさか西田門下に芸術論に行った人がいたとはね。これは絶対に抑えなくては、と。

 

長い前置きはこれぐらいにして、小林市太郎の芸術論はこちらに要点を纏めたので、これをベースにAIにおける美と聖と性について掘り下げていきたい。

 

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まず小林氏の「人間とはなにか」については、肯定も否定もない。人間の抱える悩みの根底に「欲」があるのは釈迦が言った話で、すべての人間理解の基本だと思っている。それを生まれる前からの原罪とみなすキリスト教との差も、実はそんなに大きくないと感じてる。だから、ベースが「欲」だとしても、そう捉えなくても、結局はそれが原因で動くのだから、あとは欲の中身とバランスでしかない。例えば承認欲・貢献欲がダークサイドになると名誉欲・権勢欲=命令欲になるのであって。

 

根本的には「欲」を無くす方法であって、初期仏教にも四諦八正道とかあるけど、これだけじゃ凡人は無理っていうのが一番の事実だと思ってる。こういう事を言うと天罰モノかもしれないが、そもそも釈迦だって、若い頃は皇子として綺麗な奥さんや第X夫人がいて、旨い物食べて、そういう生活をしてたわけじゃん。そりゃ過剰すぎる豪華さを体験した人は空しさを痛感するよ。問題は体験してない→憧れている人に、「どうせ欲を満たしても空しいだけだぞ」を痛感させる方法なのでは?? 

 

ネット世代以降の若い人に草食系が増えているのも、単純に「女性の裸画像の入手のし易さ」だと思ってる。僕らが中学生のころは、コンビニ自体の数が少ない・置いてなかったし、エロ本を手に入れるには、誰かのお兄ちゃんが集めたものをこっそり見るか、中学の学区に唯一あったそういうお店の店頭のエロ本自動販売機で購入するか、すげーハードル高かったわけだから。今なんて、ちょっと検索すればゲロしたくなるぐらい見つかる。欲望初期に大量に与えられると、逆にその欲望が育たないんだよね。車もそう。学生時代に親から買ってもらった人ほど、車に拘ってない。彼女はいても車が無くて悔しい思いをした人ほど、就職したら百万以上のローンで有名な車を買う。けど、大体、30過ぎるとどっちでも良くなる。そんな感じ。

 

ここら辺を踏まえると、もっとバーチャルリアリティーが発達し、金持ちになっても子供達が遺産相続で骨肉の争いするとか、イケメンモテモテでもX又バレて修羅場とか、羨望だけじゃないリアルな苦労も初期の頃にバーチャルに体験させれば、それだけで欲は減ると思ってる。

 

 

その上で、 しかも私が去年読んだ『サランボー』は、いま読んできる『サランボー』では決してない。 の部分。

 

これって、去年と今の私が違うと言っているじゃん。すなわち芸術とか作品とかの前に個人の同一性の問題だよね。ここまで手を広げる?という気分。もちろん1年間で経験も知識も増えているだろうけど、一般的には同一とみなすから。根本から考えるのは大事だけど、手を広げすぎると破綻する。

 

加えて、ここを横に置いても、それが作品となるのはそれを見る人によってであるゆえ、ここにもやはり見る人が見る度数だけの、無数のモナリザのみがじっさいにあることとなる。 というのは、限りなく正しいのだけど、掘り下げると途端にドツボなのはここなんだよね。

 

もっと分かりやすく言うと、小さい子が書いたへたくそな親の似顔絵。関係ない人には「作品」よりも「落書き」に近い。けど、親にとっては何よりの作品。もっと面白いのが、鼻なんだよね。最初のうちは鼻を書かなかったり、鼻の穴が一つしかないから。年齢があがってやっと穴が二つになる。ここら辺を掘り下げた認知心理学の分析を読んだことはないけど、個人的には発達心理学というか、発達認知学としても非常に興味深い。一番謎は、なぜ鼻の穴が一つでも違和感を覚えないかなんだよなぁ。こういうことは書いた本人=ちびっ子に聞きたいのだけど、聞いても答えてくれないだろうね。

 

結局、「作品の価値は受け手が決める」のは正しいけど、すべて主観だけで作られた世界といのもイマイチというか。。以前に

,匹海砲睫正されてないけど、皆が守っている暗黙ルール
誰も読めない太古の文字で書かれた本

こう書いたけど、この△汎韻源なんだと思う。メッセージの伝達は相手依存。たとえば巷で売っている年賀状に何も追記せずに送ったとしても、年賀状を出したという行為自体が一つのメッセージになっているから。ここら辺は芸術だけ特別扱いしない方が良いと思っている。

 

今の所、これがいっぱいいっぱい。。




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