若冲の画集決定版 〜生誕300年記念図録〜

大混雑の会場では注文のみだった展覧会の図録が届いた。全部見て色々と思うところがあった。

 

今ならまだ買える。運営側も反省の意味を込めて、展覧会に行けなかった人でも購入できる状態にしているのかな。権利関係者も「少しの間ならしょうがないか」と思っていそう。7月には買えなくなる気もする。若冲に興味があっても大混雑の展覧会を遠慮した人はすぐに買ってもいい。これだけ多くの若冲の絵が、このサイズで揃っていて、この値段。表紙は鶴だが、絵のページの最初が鳳凰の瞳

 

この時点で感激モノ。昔の画集は白い羽を拡大しててかなりショックだった。どれだけ人を掻き分けて絵の前で数分間見詰めていても、あれだけ人が多かったら新たな気づきは少ない。この画集には動植綵絵だけでなく旭日鳳凰図(こちらも顔のアップがついてる!)、岡田美術館像の孔雀鳳凰図、相国寺の水墨画の鳳凰之図があるから、ゆっくり見比べれる。その点もオススメする理由。

 

 

 

 

画集を全部見た結論として、若冲の水墨画で一番良いのは鷲図だと思う。こちらで拡大画像を見てもらえば分かるかな。知名度で言えば前回話題にした石峰寺の虎図だろうけど、瞳で言えば間違いなくこの鷲。若冲ファンとしては普段の手帳も鳳凰と雪中錦鶏図をカラーコピーしてラミネートして穴あけて閉じて自作しているけど、次に作り直す時はこの鷲でもいいかも、と思うぐらいに好きになった。若冲のぶっとび具合を表現するなら間違いなく緑松の白雪なんだけどね。

 

 

 

「若冲は仏の世界を実現するために絵を描いた」 渋谷陽一

P210の寄稿が一番面白い。ロッキン・オンは兄貴が揃えていて僕は読んでなかったけど、さすがに渋谷陽一の名前ぐらいは知っている。音楽畑からの視点で書いたレビューは想像以上に興味深い。

 

展示室の正面に釈迦三尊像があり、左右に動植綵絵が並んでいる、その空間というのは、僕たち音楽に関わる者の言葉で言うならば、まるでコンサートホールのような、あるいは若冲の画家としての特性に基づいて言うならば、とても宗教的な空間になっていました。

《略》 ものすごく感動的なライブに行って、その音が鳴っている空間で我を忘れて興奮している、それと同じ状態を、この静かな、ただ単に何幅かの絵が並んでいる空間で体験できているというのは驚きでした。それは本当に生涯的な体験と言ってもいいものでした。僕はそこで一時間以上もの間、閉館時間になって追い出されるまで、ずっと立ちつくていました。

《略》 あくまでもひとつの空間を宗教的に密度の濃いものに築き上げるには何が必要なのか、そのための絵というのは何なのか、という発想で描かれたものに思えるのです。

《略》 そしてその空間によって感動が導かれ、お釈迦様が世界をしっかり司ってくれると我々は幸せになるんだ、ということをどんなお説教よりも一瞬のうちに人々が体験できる 釈迦三尊像と動植綵絵はそのための装置であり、ヨーロッパにおける大聖堂に掛かれた天井画と同じ宗教的な性格を持っているのだと思います。日本にもすぐれた仏教美術というのはたくさんありますが、こうした形で、何枚かの絵画によって、ひとつの異空間を創りあげるという試みと、それが三十三幅という数多くの絵によって実現されている完成度の高さにおいて、この若冲の釈迦三尊像と動植綵絵というのは、無二のものであると思います。

 

この解説は若冲を発掘した辻氏の文章よりも感動した。僕にとっての音楽評論家No1は鈴木哲章氏だけども、ロックにおいてNo1批評家だけのことはある。何よりもヨーロッパの大聖堂との比較が素晴らしい。

 

ただ、数点気になる部分が。

やっぱり宗教にも造詣が深くないと若冲のフルスケールは見切れないね。釈迦入滅の絵は多数の人が描いても、それを野菜でアナロジーした果蔬涅槃図の存在は、若冲が単純な「信仰厚い仏教信者」では無い事を示している。青果商&ユーモアの文脈で捉えがちなこの絵だけど、石峰寺の石仏群の中にも釈迦の入滅を表現した作品があって、その両方を見ると単なるユーモアでは無いと実感した。そもそも仏教について掘り下げるなら中村元と山折哲雄と最近なら魚川祐司がスタートラインだから。

 

ここからは僕の本当に極端な仮説で、真面目な若冲研究家の方々には怒られてしまうかもしれませんが、美術業界とは関係のない、一介の音楽評論家として乱暴なことを言わせていただければ、僕は若冲はゲイであったと思っています。 《略》 若冲にとって世界というのは、やはりどこかに不条理なものを潜ませていて、自分自身のまま生きることを抑圧する何かがあり、幸せに自己実現することがなかなかできない。それが世界なんだ、という思いをずっと持っていたように僕には思えます。 《略》 若冲が敬虔な仏教徒になり、宗教的なテーマのもとに絵を描こうとした理由であり、、、

 

外野だからこそ気づく事があるし、美術史的・技法的な理解なんて真の意味からすれば末節。渋谷陽一ぐらいのネームバリューになって初めてこれだけ書けるならば、「部外者は黙れ」みたいな風潮はクソだね。もっと皆が感じたことを好き勝手に書けばいいし、それこそが文化としての厚みを生む。

 

若冲がゲイだなんて、ある意味当然じゃん。江戸後期だから、一生妻を娶らないとしても女遊びをしていればそういう文章は絶対に残る。個人的には女性経験が零だった可能性も高いと思っていた。けど、単純に性愛の対象が異性→同性では無い。それだけならあの絵画群は生まれない。そもそも今の時代と違うから、普通の同性愛者ならばそれを示す文章が残っていると思う。酒も芸事にも興味を示さず、傍目からは淡々と生活しているように見えたということは、ポイントになるのは欲望の生まれる場所であり、欲望の対象なんて末節の話。だからゲイだろうとヘテロだろうと、どっちでもいいんだよ。

 

 

不条理が世界に潜んでいたのでなく、若冲の中に潜んでいたということ

それこそが「狂気」。 最初に「奇想」と表現したから本質が見えなくなった。鳳凰の瞳を見比べれば、それぞれの抱える感情が分かる。澄み切っているのはあの絵だけ。それ以外の鳳凰の瞳には迷いであったり、憤りであったり、もっと生の感情が詰まっている。若冲が描きたかったのは動植綵絵であり、それを釈迦三尊像とセットにすることで寺に収めれる絵画群になった。釈迦三尊像とセットでなければ、寺は大事に保管してくれないし、定期的にも公開してくれない。もちろん権力者や金持ちが動植綵絵を死蔵することにも耐え切れなかったのだろう。ウチの説のポイントは釈迦三尊像の元絵が存在すること。本当に釈迦三尊像がメインであれば、自己が思う釈迦を零から描く。幾ら元絵に感動したとしても、一番大事な自己表現を模写にはしない。そして若冲オリジナルの釈迦の表現は石峰寺の石仏だから。

 

若冲は奇想でもないし、敬虔な仏教徒でもない。

 

 

「世界が美しいからそれを絵にしました」というレベルではない、もっと深い絶望と、もっと深い理想主義がその背景にあるからこそ、若冲の絵は僕らの心を打つし、時代を超えた感動を与えるのではないでしょうか

文章の最後をこの言葉で締める渋谷氏は、薄々気づいているのかもね。ぜひ己の批評家人生をかけて、若冲に一番近いロックシンガーを教えて欲しい。宗教というジャンルは、突き詰めて絶対化する人と、突き詰めて相対化できる人がいる。99.9%は絶対化してしまう魔力こそが宗教だけど、若冲は相対化できた。これはある意味、独自の宗教を作れるレベル。もちろん宗教を作る気なんて全く無かったのだろう。大切なのは悩みに対する啓示。ある線以上突き詰めると、言葉で表現することが滑稽になる。だからこそ、宗教でなく芸術作品による救いこそが必要になるのであり、その特徴は同じ悩みを抱えていない人は存在を気づく事さえできない。 それが言葉が無くても立脚できる絵画というジャンル。

 

澄み切った狂気がもたらす調和のある世界観こそが動植綵絵

 

意味の意味を突き詰めたら、人は狂気の縁にいける。96年に若冲の絵を見ることが出来たならば、半分以上はその場で解決したと思える。それぐらいにあの瞳は素晴らしい。2006年に初めて見てからこの10年間で2回しか見られない。これこそが不条理。もし常設されていたなら、年間パスポートも買って月に一回は通う。それが可能だったなら、この10年間を3年に縮めれたと思う。今回の画集ならば月1ぐらいの頻度で眺める。最近、ZOZO Townの創業者の絵画購入が話題になっているけど、目標は此処だね。やっと自分が何をすべきか分かった。若冲の真の価値が分からない人が動植綵絵を持つ必要は無い。釈迦三尊像が真ん中に必要?そんなワケはない。皇室所蔵? 若冲の思いは国民が広く見れることじゃないのかな。せめて今回の展覧会は巡回展にすべきだったと思うよ。鷹図は惜しいけど、動植綵絵だけでもいいから全国を回って欲しい。美術界の人達は動植綵絵にそれだけの価値があると思って無いのだろうね。これだけメジャーになった今であっても、若冲の真意は伝わってないと思える。

 




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