「労働の疎外」と「私有財産」の関係 ⇒ポイントは「分業」「競争」「賞賛」

不味い料理を作ったら責任もって自分で食え論


この木田元氏の「反哲学史」の面白さと分かりやすさは有りえないレベル。哲学の流れを大きく捉えれる本としては佐藤優氏推薦の「世界十五大哲学」があったけど、この本:反哲学史の方が絶対に面白い。あちらの本は俯瞰はしていても、どの軸から見ているのか不明。完璧な俯瞰なんて有りえないから、己の立ち位置を明らかにした方が本当の分かりやすさに繋がる。その点でこの本はソクラテスから(実質的にはプラトンから)始まるギリシャ哲学より前の時代の思想を明確にした上で、

なる・うむ・つくる
前章で引用した丸山真男氏の「歴史意識の<古層>」という論文に、次のような興味深い見解が提示されています。つまり、どの民族にも必ず、万物の成り立ちを説明する創世神話があり、
《略》 「なる」という原理によって規定されるそれは、いわば植物的生成をモデルにしたもの
《略》 「うむ」という原理によって規定されるそれは、いわば動物的生殖をモデルにしたもの
《略》 「つくる」という原理によって規定されるそれは、いわば人間の製作行為をモデルにしたもの
(P.93)


この視点から説明を開始しているから非常に分かりやすい。哲学を特別扱いするのでなく、創世神話の延長線として捉えた点がこれだけのブレイクスルーに繋がったのだと思う。ギリシャ哲学より前の時代は「なる」がベースだったのに、プラトンのイデア論は「つくる」をベースとしており、これを自然物にまで類比的に適用しようとして、そのつじつまを合わせようとする衝動がギリシャ哲学から始まる西洋哲学の根本 と喝破している。ほんと目から鱗。「え、奥底にあるのはこんな単純な世界だったの??」 驚きというよりも、今まで俺は騙されてたことにやっと気づいたレベル。このレベルの説明なら中学生でも絶対に分かる。日本の教科書はこの本をベースに全部書き直すべき。

こうしてシェリングは、生きた自然を復権することによって近代の物資的自然観を克服し、つまりは形而上学を克服しようと企てていたことになります。《略》 ハイデガーは、本質存在と事実存在を区別することそれ自体が問題なのであり、この区別とともに形而上学的思考様式がはじまるのであるから、必要なのはその優劣関係を逆転することではなく、その区別以前の単純な存在に帰ることだと言っています。(P.196)

こうやって西洋哲学の思想展開を追いかけながらも、所々で最初の視点に立ち返る。これって当然のようで、哲学史でここまでしたのは初めてじゃないか? 哲学の本なら100冊は軽く読んでいるけど、これが一番分かりやすい。なんでウチの大学は著者の母校なのにこの本が置いて無かったんだ・・・コムヅカシクひねくり回した哲学書を読み始めて気づいたら30分寝ちまうような俺の青春を返してくれ!!
と、本気で叫びたい。人間、300時間以上無駄にしたと気づいたら、どうしても感情的になるね。この本を読んでサクッと根本から理解して、余った時間で正サイドの友達とコンパにでも行きたかった・・・と痛切に感じる。工学部が注目される大学だけど、木田元氏といい山折哲雄氏といい宮坂宥勝氏といい本当に感動する本の著者の経歴を見るとOBなんだよね。そのたびに「裏切られた感満載」なのはどうにかしてくれと最近思う。図書館の哲学コーナーを端から読破していっても見つからなかったのに、なんでやねん!そもそも文学部の人達からも聞いたこと無いぞ。この3名のOBについて。八木氏・本多氏・西澤氏とか工学部の伝統だけがメジャーになっているのはホント良くない。

とまあ、個人的な体験は置いておくけど、木田氏も「個人的な体験の上に哲学を置く事がソクラテスもプラントンにとっても大切だった」と言っているしね。ついつい書いちまった。。

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さて、気を取り直して本題に行きましょう。「疎外」ですよ。もっと簡単に言えば「はばちょ」ですね。なんでも「はばちょ」は方言らしいが。マルクスの主張の核は「労働の疎外」だけど、この本でやっとマルクスの不十分さを理解した。共産主義の不十分さはシンプルに言えば「人間を性善説で捉えすぎ」になるけど、労働の疎外の不十分さは今まで自分の中でも整理できてなかったから。

労働とはその人間が外なる自然へ働きかけ、そこに自己の内的本質を注ぎ込み、その自然をおのれの望む姿に変えてゆく過程です。しかし、この場合も、労働過程というのはけっして一方的な働きかけではなく、それを通じて人間もまた自然に働きかけられ、変えられてゆきます。前人未踏のジャングルを実り豊かな麦畑に変えるためには、人間は自然法則に通暁し、自己の直接的欲望を抑え、忍耐強く働かなければなりません。その過程を通じて、人間は豊かな知識と強靭な意志と頑健な肉体をそなえたより人間らしい人間に成長してゆくことでしょう(P.205)
《略》
しかし、現実の資本主義社会においてはどうでしょうか。人間は労働によってその本質を完成されるどころか、労働すればするほど、貧しくなり非人間化されてゆきます。労働者はその労働を自分のものとして自発的におこなうことができず、労働成果を自分のものとすることなどできません。彼は他人のために、また自分の生産した商品の論理に縛られ、いやおうなしに働かされるのです。彼はむしろ労働から解放されたときにはじめて人心地がつき、おのれの人間性を幾分回復します。つまり、労働者は自己の労働から疎外され、自分の労働の生産物である商品から疎外され(P.207)


ここまで引用すれば「労働の疎外」については分かると思う。本当に大事なのは「なぜ労働の疎外が発生したか」 私有財産が先なのか、労働の疎外が先なのか、マルクスも明確に言えてないような記述があるけど、これは「スパイラル」でいいじゃん。「相互連鎖して酷くなる」で。けど、本当のきっかけはこの中には無い。これだけ哲学の歴史をシンプルかつ本質だけ抜き出した本を読んでやっと分かった。

マルクスが言う労働って「労働すれば良い物ができる」という隠れた前提がないか?

誰も欲しがらないものしか作れない人っているんだよ。全ての作品が周囲から賞賛されるワケないんだよ。幼稚園の粘土細工にしたって当然じゃん。経験によってマシにはなるけど、人間には微妙な初期値の差があって、生まれつき?育った環境?で、最初からアウトプットに差がでる。

労働っていっても最初のうちは、不味い料理しか作れなくて、誰も食べてくれなくて、責任もってお腹が膨れても自分で食べるしかないんだよ。そうやって少しずつ腕が上がる。両親が共働きで中学の頃から週に2回夕食を作らされていても俺が素直に?育ったのは、どんな不味い料理を作っても仕事で忙しい母親は文句を言わずに「ありがとう」と言いながら食べたんだよ。それだけなんだって。その器がない女性は仕事と家庭の両立なんて考えるな。逆にこれが出来れば絶対にどれだけ子供に家事を手伝わさせても、家庭は安泰だから。とまで言えば暴論だけど、大事なのはこれだけなんだって。

世界は本当は凄くシンプルに出来ていて、そのシンプルを魅せてくれるのが哲学であるべき。

原始共産制であっても、料理当番が複数いて、皆に空腹を満たす以上の食事があれば、不味い料理しか作れなくて疎外されるコックも出てくる。
全体的な食事の量が少なくても、不味い料理しか作れないコックは皆から不満を言われる。これって疎外に限りなく近くないか?

「不味い料理は責任とって自分で食え」がシンプルな世の中のルールだし、それでいいんだよ。
けど、食事を含む生活必需品を分業したら、「不味い料理」と物々交換で「服」をくれる人なんて出てくるのかな。
振り返っても、自分自身が心の底から旨いと思える料理を作れるようになったのは、少なくとも半年後だった記憶がある。


そんだけじゃん。「労働の疎外」って、私有財産とか貨幣とか、そういう世界よりも前の話じゃないの?
私の最近の「労働」の中では、これはやりがいもあって頑張った方だけど、欲しいなんてメールもらったことないからね。
これもある意味、「疎外」と言いたいかも(笑
 



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