新コーナ始めます(Regret&Baby)

「 P2S2R&BといえばRegret:後悔がメインだよね」と言われている?のは否定はしません(笑

HPを作った2001年の時点で「考えすぎる、しかも自分側で、、、繊細かつ高ビーな男だなぁ」と感想を言われた位だからなぁ。確かにこの言葉には今になってもビタ一文の反論も無いです。あれだけR&BのHPを作っていながらも、R&BがRhythm and Bluesの略で無く、Regret&Babyの略になってしまったのも、、ある意味当然なのかもね。(詳しくはBlog1を参照) 

一般的には後悔:Regretって、ネガティブイメージなんだよね。
数年前に「私は後悔しないように明るく生きてるよ」と言われた時は、流石に黙ってしまった。この言葉が一般的には良い印象を与える事ぐらいは分かってる。けど、「後悔しないように」というのは、答えとしては2番目以上にはならないと思う。「私はどんな事があっても、ちゃんと振り返って、その中から明日への希望を見つけているよ」とまで言える方が魅力的だと思うから。

以前にも書いた通り、後悔ってのは否定すべき話じゃないよ。男だろうが女だろうが後悔しない人に進歩はないと思う。もちろん、同じ失敗を二度しないと言えるのなら、過去を振り返る必要は無くなると思う。けど、突き詰めていくと、本人のクリティカルな失敗は全部似てる。人ってそういうものだと思うな。

このコーナは、この文章に親和性がある人のために作りました。Regret派の人が、少しでも生きやすい世の中になったらいいよね♪





正しいRegret

 
Regretの敵?は巷で流行っているポジティブ・シンキングです(笑
もちろん私もポジティブ・シンキングが嫌いなワケじゃないです。わざわざネガティブに考える必要なんて全く無いから。けど、「ポジティブ・シンキング=楽しい事だけ考える・楽しい面だけ見つめる」という風潮がある気がしてて、なんか肌に合わないものを感じてます。

そんな中でBookコーナで紹介した「ダメな自分を救う本」は興味深い。普通は単純なポジティブ・シンキングになりがちなのに、この本はもっと深いアドバイスがある。だから、改めて正しいRegretについて考えて見ようと思った。

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20歳前後を振り返って後悔している30歳の男性が一名いるとします(笑

 嶌からでもあの頃に戻って、人生をやり直したいなぁ/違う選択をしたいなぁ」
◆屬△虜△魯瀬瓮瀬瓩世辰燭覆 
「あの頃は、暗黒時代だからとっと忘れたい」
ぁ屬△虜◆⊆最圓靴討靴泙辰晋彊は何だろう?」
ァ屬△虜△凌佑蓮∈どうしているのだろう?」
Α屬△虜◆僅かにでもまともに出来てたのって何だろう?」
А屬△虜◆∨榲は、僕はどうあるべきだったのだろう?」

とりあえず、思いつく後悔の形を全てあげてみました(笑 他の形がある人はぜひコメントで教えてください。 

並べてみれば、どれが一番将来性がある後悔かは一目瞭然だよね。HPやBlog1を見てると,筬△世隼廚錣譴討い修Δ世韻鼻◆屬修鵑淵錺韻鰐気ぁ廖幣

一般的なポジティブはかな。今を平穏無事に送りたいならこれが一番簡単な態度なのは間違いない。けど、これっぽっちも勧めません(笑 そうやって自分の素直な心に蓋をするような真似を続けると、最後は能面みたいな表情になっちゃうよ。尊敬できない大人って、そうやって出来るんだと思ってます。

い詫招廚縫疋張椶縫魯泪詁察潜り抜ける意志と強さがあるならば、その道を歩いて欲しいと思ってます。中途半端にやると言い訳のネタばっかりが増えて、余計に酷くなるけどね。だから、他人には勧めない。

イ蓮△笋瓩箸院A蠎蠅老の事なんてこれっぽっちも思い出して無いから。それがシンプルなこの世の事実です。私自身にもそう言い聞かせてます(笑

Δ海修、大事なスタンスだと思ってます。どんなにダメダメな行動をしていても、ALL0って事は無い。たとえ、全てがダメであっても今、後悔している態度だけはダメではないから。それを足がかりにして、次のステップを見つけて欲しい。

本当に有るべき姿は、Г任靴腓Α
「あんなに失敗するんだったら、別の分野/娘にすべきだった」は問題外。もちろん振り返って、改めて視野が広がって、他の分野/女性の魅力に気づく事は当然だと思う。けど、「別の分野/娘」という時点で、失敗した理由から逃げている。

もちろん誰だって一通りの反省は出来る。「あの時のあの態度は間違っていた」のレベルなら。けど、それは対処療法の積み重ねでしかない。仮にもう一度チャンスがあった時、もちろん後悔している分だけ、同じ失敗はしないでしょう。けど、以前と違う形で出来事が起こったら、やっぱり失敗すると思うよ。いくら反省を重ねても、自分の中の根本を見つめないと、「大事な場面場面で、必ず最初に失敗する人生」を歩む羽目になる。振り返ると、僕もそんな人生だった気がする。そう気づいた時から、真面目に振り返るようになったんだと思う。

そんな意味において、「あの頃、本当は、僕はどうあるべきだったのだろう?」ほど難しい道は無い。それに加えて、自分の中で大きな意味を持つ体験ほど、冷静に見つめれる状態になるのに時間がかかる。場合によっては数年後のことも多い。そして、その頃にはどうしても細かいディーテールを忘れているから。

「"忘れる"からこそ、人は生きていける」と言ったのが誰かは忘れました。確かに名言だと思う。けど、時の忘却に身を任せるだけでは、本当の意味では直らないよ。だからこそ、本気でこの道を歩むならば、日記をつけるのは必須です。

日記というのは書くことに意味が有る訳じゃない。読み返す事に意味があるのだ。
あの頃は絶対に譲れないと思ってた事も、一年後に読み返すと、その書きなぐった言葉に違和感を感じ始める。二年後になったら、密かに自分が悪かったのかも、、、って思い始める。三年目になって、やっと自分の事実として言葉に出して言えるようになる。それは誰しもが辿る道。そうでない人は魅力が下がっていくのだから。けど、その時、その当時の気持ちを書きとめたモノが残っていれば、本気で自分の馬鹿さ加減に泣ける。淡くなった記憶を辿る事で受け入れやすくなる事は多い。けど、それだけで、いいのだろうか?って思うから。昔に書いた文章は原色の風景。それが蘇る事で反省する以上の何かが見つかるから。(以前に書いたのを再掲)

率直に言うと、蘇って欲しくない原色ってあります。見るたびに激落ち込むアホさ加減ってある。こんな事をやっていると、とことんネガティブな人間の気がしてくる。けど、淡くなった記憶を辿って、「昔はガキだった」で済ませる態度は嫌いだし、それで済まない事をしてきたから。

今から振り返れば、もちろん正しい道は見つかる。だから余計に後悔するんだけどね。人間は、基本的に感情を抑える事が出来れば、正しい道は見つかると思う。けど、あの時、抑えれなかったのは事実。もちろん抑えるべき感情は、「怒る」とか「投げやりになる」とかだけでなく、新しい方向へ進む事の不安とか色々ある。だから、「抑える」より「乗り越える」の方が正しい表現だね。

そんな風にГ鮨震面椶帽佑┐襪函↓い瞭擦茲蠍靴靴ぁ私自身もHPを書き始めた時の全ての問題をクリアしたと実感できた時は今年の秋だった。だから、これもやっぱり他人には勧めれません。

こう俯瞰すると、ΑА屬△虜◆僅かにでもまともに出来てたのって何だろう?」が一番妥当な線かもネ。それは良く分かってる。けど、Soulと呼ばれる曲を聴きながら振り返ると、Г泙任い韻襪茵それは保証できます。勧めはしないけど。





正しいRegret2

 久しぶりにこのBlogを読み返していたら、「正しいRegret」に補足内容が見つかった。

>  嶌からでもあの頃に戻って、人生をやり直したいなぁ/違う選択をしたいなぁ」
> ◆屬△虜△魯瀬瓮瀬瓩世辰燭覆 >
> 「あの頃は、暗黒時代だからとっと忘れたい」
> ぁ屬△虜◆⊆最圓靴討靴泙辰晋彊は何だろう?」
> ァ屬△虜△凌佑蓮∈どうしているのだろう?」
> Α屬△虜◆僅かにでもまともに出来てたのって何だろう?」
> А屬△虜◆∨榲は、僕はどうあるべきだったのだろう?」
>
> とりあえず、思いつく後悔の形を全てあげてみました(笑 他の形がある人はぜひコメントで教えてください。 
─屬△虜△蓮∩蠎蠅悪かったんだし、二度とああいう人とは関わらない様にしよう」

という考え方もある事に気づきました。滅多にこう思わないから全く浮かんでこなかったです。けど、一般的なポジティブシンキングの中にはだけじゃなくて┐發△襪世蹐Δ掘⊆分自身を振り返っても「1ミリも相手のせいにはしていない」とは口が裂けても言えない。

そして、あの頃の相手から┐隼廚錣譴討い觚充造眥亡兇靴討泙后A蠎蠅そう思う理由も、分かっているつもりです。昔も相手の立場を分かっているつもりだったけど、今から振り返ると全く分かっていなかった。だから今になっても分かってない部分が残っている事も、やっぱり痛感してます。

こんな風に考えていくと、結局、本当の結論はいつになってもたどりつかない。その現実も認めた上で、こういう自問自答の繰り返しだけなんだと思ってます。相手からトコトン嫌われていると認めるのは辛いけど、謝る資格すら無いと認めるのは辛いけど、それが正しい出発点で、そこから出発するしかない事がある。「あの頃は愚かだった」というのは、そういう意味で使ってます。

今まで全く┐鮖廚い弔なかったのに、震災ニュースの後に自然と浮かんできた。今回の震災のニュースを見て色々と感じることはあるけれど、上手く言えない一番の理由にはこれがある気がする。

ここ数日、なんか妙に村上春樹の短編集「神々の子どもたちはみな踊る」の内容が頭に浮かんでくる。あの本を読んだ時は阪神大震災と本人との感情の不合理な関連性が理解不能だったのに、同じ立場になると妙にそんな考え方をしている自分がいることに気づく。不思議なもんだ。あの本はもう一度読み直してみようと思ってます。






後悔とは「過去を振り返ること」と認識している限り解けない問題がある

久しぶりのRe&Baへの追加です。

 崕わった事は終わった事」
◆嵜佑隆蕎陲魴茲瓩襪里蓮◆垪》と《想定される未来像》であり、過去は関係ない」
「それでも後悔をするのは、無意識的に《未来も同じことを繰り返す》と知っているから」


今まで個人的にも感情理論的にも人工知能的にも散々考えてきて、これが結論。

だからあるべき内省の姿は、状況的入力と感情的出力の間の連鎖に楔を打ち込むこと。

それが出来ない限り、同じような状況で、同じような行動を選び、同じように失敗する。意志じゃないんだよね。意志を「我慢する」と捉える限り、絶対に後悔は止まらない。もし本当に意志で押さえれるほどの《意志力》が身に付けば、後悔自体を止めれるから(笑 後悔の感情が沸き上がってくる時点で出来ない事に気づかないと。

「後悔をしないようにする」態度は大切だけど、そのやり方を間違えて「見ないフリ」をすると、次も必ず失敗するし、次の失敗は必ず大きくなる。それが世の中の基本の仕組みだと思った方がいい。だから、以前の議論のい鉢Г覆鵑世茲



同級生の女の子が可愛くて、誕生日も同じだったら

「異性の幼馴染との恋愛」を題材にした作品はゴマンとあるのに、「同じ生年月日の異性」を題材とした作品ってあるっけ?

そんな作品を映画だろうと漫画だろうと歌だろうと探していたのに、結局、見つけれなかった。いつか、そういう作品を書いてくれる作家の卵はいないかな、と思いつつ、なんとなく36年目にして書く気になった(笑

普通に考えれば同じクラスの女子は15名ほど。それが小中高校で12年。単純計算180名。365日だから、50%の確率で「誕生日が同じ」人がいてもいいと思うのに、あまり周囲でも聞かない。僕もあの娘しか知らない。性格も似てなかったし、クラスでのノリも違ってた。あの娘と誕生日が同じと知ってから殆どの占いを信じなくなった。基本、占いって生年月日じゃん。同じ生年月日なのに全く違うんだから。

けど、30近くなってからかな。「実は似ていたのかもしれない」と思うようになった。生まれた境遇とかは正反対に近かったと思うけど、根本的には似ていたのかもしれない、と。同じクラスだった友達は「えーお前と○○さん、似てるわけねーだろ」と言うに決まっているけど、歳を重ねるごとに「似てたかもしれない」という気持ちが強くなる。

同じ誕生日で、異性で、可愛かったら、誕生日になるたびにちょっと思い出す部分はある。昔の彼女の誕生日とかは人並みに忘れるのだが、自分自身の誕生日は忘れないし、誕生日が同じ、という情報も忘れない部類なる。1977年に生まれた女性をネットで調べると851720人。365で割ると12/12に生まれた女性は単純計算2341人。なんで、あの娘以外に会ったことないのだろう。

「幼馴染がいつの間にか美人になってた」で始まる作品も多いけど、安直感はぬぐえない。
「同じクラスのカワイイ娘と、誕生日が同じだった」から始まる作品はもっと安直な気もする。

けど、妙に名前も似てたんだよね。母音だけ抜き出すと苗字も名前も同じ。だから音の響きが似てる。実際の文字も苗字は3文字中2文字同じ。名前も3文字中1文字。「それがどうした」と突っ込み入りそうなんだけど、そんなことも社会人になってから気づいた。なんかこういう事を考えると、自分の誕生日が自分の日じゃない気もしてくる。まあ、向こうの日でもあるワケだけど。36歳となった今日は、流石に向こうも結婚しているだろうし、子供も3人ぐらいいるかもね。同窓会にはいつもタイミングが合わなくて。どうやら2000年の時の同窓会には向こうは来てたみたいだけど、こちらは院で忙しかった。そのためだけに同窓会を企画するつもりもないし、他に企画しそうな人もいない。

じゃあ何で、誕生日がくるたびに考えちゃうかって・・・
・あの時、唯一ラブレターを書いたこと
・誕生日が一緒じゃなかったら、告白するまでの気持ちにはならなかったこと
・振られたのに、義理チョコはもらったこと
・その後、同じクラスの女性/男性とお互い付き合ったこと
・大学になって最初の同窓会で会ったこと
・そのあと手紙をもらったこと
・その手紙に文通が続くような返事を書けなかったこと

だからなんだよね。ネットを調べたら同じような問題意識を持っている人は多いのだね。「イヤな奴と誕生日が同じだった」は確かにうーん。そいえば、友達のおばあちゃんと誕生日同じだったんだ。それを聞いても「そうなんだ」ぐらいだったけど(笑 だからあの娘のことも「そうなんだ」ぐらいで済ませるべきなのにね。

おっと。次の日になってしまった。続きは来年で


 



「意識の形而上学」と成長実感。そして「やれたかも委員会」

五年ぶりにこの本を読んでやっと全部理解できたと思う。逆に五年前は惹かれていても、ほとんど理解はできてなかったのだろう。だから凄く久しぶりに成長感がある。

 

子供の成長は物理的だからわかりやすい。身長が伸びる、歩けるようになる。誰でも分かるし、客観的に計測できる。けど、この指標は中学生ぐらいまで?もちろんその後も身長伸びる人もいるが、本人以外にはそんなに大きな話題でもない。

内面の成長も子供の頃は分かりやすい。まずは言葉をしゃべれるようになること。言葉でコミュニケーションできるようになるのはやはり革命的。こちらの意図を理解するたけでなく、自身の意図を伝えれるようになる。それは魔の三歳児みたいに面倒なこともあるけど、本人にとっては大きいだろう。それとトイレコントロール。これは意志と生理的欲求の兼ね合いとして大きな内面的進歩であるし、周囲にとっても下の世話から解放される大きなチャンス。この前、兄貴の子供達3人がちょうどここら辺の前後だったので非常に見ていて考える部分が大きかった。

 

 

 問題はこの先の成長。単にスポーツや勉強の成績を指針にするとおかしくなる。けどそれ以外の汎用性・有用性をもつ指針も難しい。本人の中での指針もある。本当は「本気で打ち込めることを見つける」だけど、見つけても勉強に費やす時間が減って親から文句言われる。子供が自発的に勉強に打ち込むなんてのはレアだよね。

 

社会人になったあとの成長もそう。年収の増加や出世で測る?それも寂しい。けど、若い頃に学業で測るぐらいの有用性があるのも確か。内面的には、うーん、結局は自分の子供の成長にリンクさせる面が大きいのかもね。親としての態度、子供に真に伝わった事からも、子供の成長に投影するのはそんなには間違ってないともおもう。

 

 

ここまで考えた上で本題にもどる。

五年経っても読み返しくなる本。そこから明確な理解の差を感じれるのは、一つの幸せなんだと。単なるハウツー本にはここまでの深さはない。内容が薄い本なんてもっとない。何よりも最初の時点で「分からないけど魅力を感じる」ことの難しさ。

 

今までここに該当するのは、ベルクソンのあの本ぐらいだった。もちろん他の哲学書も分からない本は多いけど、五年経っても読み返したくなる魅力は感じなかった。その魅力を井筒俊彦には感じてるんだね。当たり前か。そして、やっと胸を張って言えるようになった。この本を心底理解したと。

 

心底の理解とは行動ではない。行動を促す本ではないから。もちろん行動を促すハウツー本もあるし、それはそれで役に立つ。読み返すと出来てない部分にショックを受けることもある。けど、こういう思考系の本は、完全理解=どれだけでも分かりやすく説明できること、だと思ってる。だから今度書きますね。

 

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なぜだか謎だけど、井筒俊彦はいつだって正反対の場所に繋がる。5年前もそう

平安朝における「眺め」とは、折口信夫によれば、春の長雨期の男女間のもの忌につながる淡い性欲気分でのもの思いだという。たしかに例の伊勢物語の「起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ」や、古今集の小野小町の「花の色はううつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」などの「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺洩していることはいなめない。「意識と本質 精神的東洋を索めて」 井筒俊彦著 P54

 

こんなこと書いちゃダメなんだよ。ちょと小頭が良い真面目だけがとりえの内気な男の子のパンツを引きずり下ろすぐらいの乱暴さ。

 

そして今日は「やれたかも委員会」かよ。。。話題になっているのは知ってたけど、今読みました。なんなんだ、この親近感

 

若い頃を振り返って後悔をしてる。そこに漂う濃厚な90年代感

それが重低音のようにうちらの心に訴えかける。無性に自身の記憶が呼び起こされて、爆笑の先にある何かを連れてくる。寝起きに色々と考えてたら朝9時。自家製珈琲のんで研究開始。チューリングとチャーチの間に攻めて行ってそのままんま敗退。。しょうがなくBlogUP。昼にラーメン食ってもMP回復しないからAmazonアンリミティッドでこの本を見つける。

 

全然、井筒と関係ない?、、いやいや違うんだよ。この漫画の良さは表紙の月満子氏の冷静な突っ込みと塾長の能島明の最後のコメント。味がある。だからこそ、「この世に完全な片想いがあるか」にスタンスをはっきりとした本サイトとしても明言したい。

 

30歳を過ぎて、ふっと気づいた「やれたかも」は成長の証

これこそが本当の真実では。当時の次の朝に思った「昨日はやれたかも」は違う。そこでもっとアクティブに攻めても敗北が酷くなるだけ。もし、攻めて上手くいくならその時に君の本能が感じるし、本能が感じれば自然と攻めているから。あの場で引いたのは本能がそう感じたからであり、それは間違いない。

 

けど、30過ぎて気づいた「やれたかも」は別の攻め方(アプローチ)に気づいた証拠。

もちろんそれはもっと数日前の布石だったかもしれないし、あの時の意外性に満ちた攻撃(行動や言葉)かもしれないけど、難攻不落な城がありえないように、どれたけ我欲を抜いても「あの時やれたかも」と思うのはそれだけお互いに心の震えがあったというシンプルな事実。心の交流と体の交流は常にテンポが同じなワケではない。こんな部分まで30歳を過ぎると気づくようになるし、そこまで気づいた上での「やれたかも」は人間成長の証なんだと。

 

30代のときは20代のやれたかもを凄く考えていた。けど、20代のときに10代のやれたかもを凄く考えることは無い。そもそも10代にそんなやれたかも、なんてない。そして、30代のやれたかも40になって考えるかと言われたら、、、それすらも薄くなるのかもね。最近、そんな気がしてる。

 

井筒俊彦はさすがにオススメしないけど、こちらの漫画は誰でもOK。できれば30歳以上。興味出た人はこちらで途中まで読めるし、4月からTVドラマにもなるみたいだしね。それにしても、委員会のメンバーって男2名はいつも「やれた」だし、女性陣の月満子氏は「やれたとは言えない」だし、いつも多数決で勝たせてあげてるけど、女史のコメントはグサっとくるね。逆に女性が登壇者のときは「やれた」って、ちょっと同性に甘くないか(笑 まあそこも含めて世の中の真実なんだろうけど。

 

 




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