仏教のゼロポイント「大乗と小乗の正しい位置。悟った後の己の態度」


この本の出現によって大きく時代は変わった。新潮流というべき内容。今まで仏教学者で一般レベルでも名前が知れているのは中村元と中沢新一ぐらいだと思っていたけど、魚川祐司はその域に達するんじゃないかな。Amazonのカテゴリ:仏教入門でベストセラー1位になるだけのことはある。本自体は仏教入門というよりは、ある程度の仏教関係の本を読み込んでいる人を対象としているけれど、そういう人は全員が新世代の誕生を否応無しに痛感するレベルになっている。

魚川祐司 (仏教研究者)
1979年生まれ。東大卒の西洋哲学専攻→インド哲学・仏教学専攻の博士課程満期退学にして、ミャンマーでテーラワーダ仏教の教理と実践を学びつつ、本書が初の著作。


別に学歴信仰も無いけど、本当に頭のいい人は受験勉強ぐらいで視野が狭くならない。ミャンマーでの実践は、チベット仏教で実践した中沢氏と違う態度を身につける結果となったのだろうか。「自分自身が悟った」と明示的に書いてないのに、文章の端々からその達観が滲み出ている。その不思議な爽やかさこそが、新時代の到来を思わせるような感覚。釈迦が実際に述べた初期仏教の発掘こそが中村元が真に取り組みたかったテーマであり、大乗仏教全盛の時代から逆転して、何が正しいか迷いが生じる中で、ここまで喝破したことを素直に賞賛したい。

覚者が慈悲の利他行へと踏み出して、「物語の世界」へと再度の関与を行うかどうか、それをいかに・どの程度のレベルで行うかということは、基本的に「自由な選択」の問題である(P179)

「世界宗教」として現存する仏教は、そのようなゴータマ・ブッタの教えにしたがって彼岸(「物語の世界」の外部)に渡り、そこからゴータマ・ブッダの作った筏(教説)とは別の筏を作って人々に提供しようとした覚者たちによって、多様に豊穣に形成されてきたのである。言い換えれば、仏滅後の覚者たちの中には、ゴータマ・ブッタの選択の結果ではなく、選択を行う覚者のあり方のほうを引き継いで、そこから新しい教えを説いた者達がおり、彼らの活動と参与によって、私たちの知る現在の「仏教」という宗教運動の全体が形作られたということだ(P203)


この二箇所こそが一番正しい初期・小乗・大乗仏教の位置づけの理解なんだと。サブタイトルは「悟り」とは何かだが、悟りは言葉では表現できない状態なので、やっぱりそこは言語的に論理的な説明は無い。禅宗でも当然だが、実践あるのみでしかない。ただ、明らかに魚川氏自身は悟った後の視点から書いているのに、自分自身が悟った時の状況等を全く書いてない。そこが不思議と爽やかで。

自分の状況は書いて無いのに、悟りにいたるプロセスを懇切丁寧に書いているのが面白くて。
ゴータマ・ブッタは三明が生じる前に、まず初弾から第四弾までの、いわゆる色界禅定に入っている。要するに、禅定は「悟り」の内容そのものではないかもしれないが、その強烈な集中力がもたらすある種の変性意識は、確実に「悟り」の前提になっているということである。(P137)

また実際面から考えても、定の集中力がもたらす認知の変容なくして、現象の無常・苦・無我を如実如見するということは想定しにくい(P138)


こういう態度が新世代なのだと思う。結局、誰もが述べているように、
基本的には「主観」の枠内で起こる出来事である「悟り」の経験を、他者に明晰判明な形で公開する手段はいまのところないし、それがゴータマ・ブッタの経験と「同じ」であったという「客観的な証明」はなお不可能である(P156)

個人的にはウ・ジョーティカを引用している輪廻の部分が一番勉強になった。
涅槃を理解するためには、あなたは輪廻を理解しなければなりません。輪廻とは、精神的と物質的のプロセスのことです。それが輪廻と呼ばれるのです。ある人が一つの生から別の生へと移るという、物語のことではありません。本当の輪廻とは、本当の廻り続けることというのは、この精神的と物質的のプロセスが、ずっと続いていくことを言うのです。それが輪廻と呼ばれるのです。その終わりが涅槃。

今までも「涅槃とは一つの経験です。その瞬間には、対象と観察が停止する」といった言説は沢山見てきたけど、輪廻をこのように捉える視点は初めて知りました。

魚川氏の大乗仏教への距離感は非常に興味深いのだが、
あるいは龍樹がそうしたように、「涅槃」と「世間」の区別を無効化してしまうことで、後者から前者への移行というゴータマ・ブッダの仏教の基本線自体を、いわば「宙吊り」にしてしまうことである(P192)
という説明は何度か読み返すと、その味わいが良く分かる。

「悟り」の客観的な証明が出来ないという事については、悟り自体が魚川氏が言うように「煩悩の流れが塞がれる」のであれば、その結果として第六感というか、ある種の超能力的な部分は出てくると思っているけど、これこそがこの本でいう「物語の世界」なのかもね。。一番俗な話で言えば、大前提として生殖と労働を放棄し、悟った後の魚川氏はどうするの?と聞きたい部分もある。やっぱり戒律は守るのか、そもそも一般的な教団に属しているワケでもないのだろうから、そこも今は自由なのか。悟った人だけは自由とかのルールを作るとオーム真理教と変わらない気もしていて。


世の中には、色々な知的興奮がある。アイドル同士の結婚や離婚の理由をワイドショーで知るのも一つの知的興奮。
そして、この本は久々というよりも、初めてのレベルだと感じた。ワイドショーと比べて上とか下とかそういう比較でなく、別種の、そして爽やかな知的興奮。

 



東洋思想を掘り下げて 「関係の束としての個」

18歳の頃から意識的に東洋思想に取り組んできて、ここ1,2年は集中的に仏教系の本を読んでいた。西洋哲学系も個人的にはそこそこ読んだと思っているけど、最終的には東洋思想の方に親和性があった。もちろんこれらを大上段から語るなんていうのは、もっと著名な人に任せるとして、ここは個人的に素直な感想を書きながら、自分の思考を整理したく。ちょっとでも東洋思想に興味がある人の参考になればと思い、新コーナーの「Oriental」を作ります。
この単語は西洋から見た東洋であり、オリエンタル急行というか、サマルカンドな感覚を受けるから個人的には好きじゃないのだが、まあしょうがない。


「我思うゆえに我有り」といったのはデカルト。西洋思想は基本的に我=自己がベース。
もちろんその我は一神教における神との対比なんだろうけど。


個人的には一神教は合わない。そして、我という概念を再検討していく方向性を持った思想を選んでいたら、東洋思想に辿りついたのが二十歳の頃の華厳経。このお経の志向性を一言で述べれば、「自己とは関係性の束である」 それ以外のことは情景描写と専門的分類における解説であって、そこまで美味しくない。

個が主体となって他者と関係を結ぶのが西洋的なモデルだとすれば、関係が基本であって、その束としての個があるというのが、東洋的な理解モデルなんだと。超シンプルに言えば。

自己についてある線以上まで悩んだら、さっさと、「これまでと、そして今の関係性の束が自分なんだ」と見つめなおした方がいい。頭では分かる話だけど、実際やるのは結構ハードだし、自分自身も数えきれないぐらいに部屋で1人で座禅をしたけどさ。


そうだ、写経をしよう
と思ったのは、いつだっけ?25歳ぐらいかな。ちょうどブームになってて、100円ショップで般若心教の写経用の冊子があったのでやってた。

そうだ、有名なお寺が何を写経の題材に選んでいるか調べよう
これ、思いつきだったけど、やってみると結構楽しい。殆どが般若心教。たまに観音経ベースの感謝の言葉。その中で法相宗だったかな、唯識三十頌があったんだよね。だから早速調べて、本も買った。三島由紀夫の豊穣の海もそうだけど、唯識は精神分析としてもかなり面白いんだよね。

けど、最高に面白いのは龍樹の伝記。やっぱりさ、最初から完成している人は嫌いなんだよね。若いうちは「女の子と楽しくやりたい」でいいじゃん。仏教を学ぶ前の龍樹はその部分が一番ファンキーでナイス。面白みの無い世親とかと違う。高校の歴史の資料集レベルなら、これぐらいちゃんと書かないと。そしたら男子高校生の半分以上が龍樹のファンになるぞ。

理系分野ならブルーバックス、文系ならフォービギナーズだから、まずはこのシリーズから興味あるもの読んで、その次のステップが龍樹の伝記かな。それに楽しめたら、角川ソフィア文庫の仏教の思想シリーズでしょう。私はほぼ全巻をこの2年で読みました。分かりやすいし、内容のレベルも高いし、非常にオススメ。

大学時代は大学図書館の東洋哲学コーナーを全部読破しようとして、眠たい目をこすりながら、気づいたら20分ぐらい時間がたってるような生活だった。。誰かにちゃんとこうやって最短コースを教えて欲しかったなぁ、と今更ながら痛感しているので、ここに書いておきます。

そして、ここまで行けば、空海が書いた般若心教秘鍵が楽しめる。般若心教の解説はそこらじゅうにあるけど、密教的観点から空海が解説した内容は一番Good。


その先にあるのが、華厳経と法華経の比較の世界。
理論的な部分が一つも無いような法華経だけど、日本の殆どの宗派の基本経典なんだよねぇ。これを読んでも「新たな角度からの物事の捉え方」って殆ど無いような気もしているので、自分の中では未だに法華経の価値が分からない部分もある。


そして、ついに山折哲雄のディープゾーンに入っていく。
先日の「仏教のゼロポイント」以降、改めて読んでます。ぶっ飛んでるなぁ、この愛欲の精神史◆嵬教的エロス」は。大日経と金剛頂教の根本的矛盾点とか非常に面白いのだが、ベースとなる部分がね。そこら辺のガキでも四十八手をネットで調べる現代ならば、この本が紡ぎ出す仏教および日本文学の最高峰の視点からの性の解題こそが現代に一番必要とされているとは思うのだが、流石に正面から紹介するのは気が引ける種類の本ではある。

特に「とはずがたり」を取り上げた3冊目。清少納言とか紫式部とか高校で取り上げるヒマあったら、こちらを題材にすべきじゃないか。自分が生んだ子供の父親が分からないぐらいの乱れた関係の奥底で息づく何か。この何かこそが、人が生と性について抱える根源的な業。1冊目のガンジーを取り囲む女性達についての考察は、非常に思うことがあった。ガンジーの非暴力は誰でも知っている。そして、非暴力と禁欲はセットで、その禁欲に巻き込まれた女性達。その切なさ。

通しのタイトルの「愛欲の精神史」はキツイから「愛の精神史」ぐらいに変えるべきだと思うけれど、この3冊はどれも確かに名著です。これを名著と思わない人の方が多いと思うけど・・・。この3冊を楽しめるような精神性と業の深さを併せもつ人と、とことん語り合いたい気分大。

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それにしても解説を増やすことで、どんどん分かりにくくなるのは何でなんだろうね。仏教の理論一つとってもそう。
新しい差を見つけて、新しい名前を与え、複雑化していく。

その分野の中にいる人ならいいけど、外から見ると改悪じゃんこんなの。
もっとシンプルでいいんだよ。もっとシンプルで。変なもんふやすな。

その点で、山折哲雄の本は信頼できると思う。

ただ、根源的な理解フレームは変更するのに非常に大変だから、それを実践する手引きというか、手法論は欲しい。

現代だったら、もうちょっとCGとかバーチャルな映像とか音とか、浮遊感のあるゲーセンの大型筐体とか使って、体感できる手法は無いのかな、と思うこともある。3000年前からずっと座禅一本やりというのも芸無いなぁ、と思いつつ、休日の空いた時間は座禅している今日この頃。

関係の束として個を捉えなおす事は23の時に出来るようになったし、それ以来、根本的な部分で悩む事が減った。けど、仏教が示す悟りについては、物体と認識の根源的変更を求めるから、ずっとできていない。せっかく昨年、京都で仏門に入ったのにね。サラリーマンとしての日常生活を重ねていると越えれない線を明確に感じる。休日に法華経あげても心を整えるぐらいの効果しかないような。。それなら3000m登山の方がいいんだけどね。会社をサバティカルで休んで、1ヵ月ぐらい参禅したい。それが一番素直な気持ちかも。

 



「労働の疎外」と「私有財産」の関係 ⇒ポイントは「分業」「競争」「賞賛」

不味い料理を作ったら責任もって自分で食え論


この木田元氏の「反哲学史」の面白さと分かりやすさは有りえないレベル。哲学の流れを大きく捉えれる本としては佐藤優氏推薦の「世界十五大哲学」があったけど、この本:反哲学史の方が絶対に面白い。あちらの本は俯瞰はしていても、どの軸から見ているのか不明。完璧な俯瞰なんて有りえないから、己の立ち位置を明らかにした方が本当の分かりやすさに繋がる。その点でこの本はソクラテスから(実質的にはプラトンから)始まるギリシャ哲学より前の時代の思想を明確にした上で、

なる・うむ・つくる
前章で引用した丸山真男氏の「歴史意識の<古層>」という論文に、次のような興味深い見解が提示されています。つまり、どの民族にも必ず、万物の成り立ちを説明する創世神話があり、
《略》 「なる」という原理によって規定されるそれは、いわば植物的生成をモデルにしたもの
《略》 「うむ」という原理によって規定されるそれは、いわば動物的生殖をモデルにしたもの
《略》 「つくる」という原理によって規定されるそれは、いわば人間の製作行為をモデルにしたもの
(P.93)


この視点から説明を開始しているから非常に分かりやすい。哲学を特別扱いするのでなく、創世神話の延長線として捉えた点がこれだけのブレイクスルーに繋がったのだと思う。ギリシャ哲学より前の時代は「なる」がベースだったのに、プラトンのイデア論は「つくる」をベースとしており、これを自然物にまで類比的に適用しようとして、そのつじつまを合わせようとする衝動がギリシャ哲学から始まる西洋哲学の根本 と喝破している。ほんと目から鱗。「え、奥底にあるのはこんな単純な世界だったの??」 驚きというよりも、今まで俺は騙されてたことにやっと気づいたレベル。このレベルの説明なら中学生でも絶対に分かる。日本の教科書はこの本をベースに全部書き直すべき。

こうしてシェリングは、生きた自然を復権することによって近代の物資的自然観を克服し、つまりは形而上学を克服しようと企てていたことになります。《略》 ハイデガーは、本質存在と事実存在を区別することそれ自体が問題なのであり、この区別とともに形而上学的思考様式がはじまるのであるから、必要なのはその優劣関係を逆転することではなく、その区別以前の単純な存在に帰ることだと言っています。(P.196)

こうやって西洋哲学の思想展開を追いかけながらも、所々で最初の視点に立ち返る。これって当然のようで、哲学史でここまでしたのは初めてじゃないか? 哲学の本なら100冊は軽く読んでいるけど、これが一番分かりやすい。なんでウチの大学は著者の母校なのにこの本が置いて無かったんだ・・・コムヅカシクひねくり回した哲学書を読み始めて気づいたら30分寝ちまうような俺の青春を返してくれ!!
と、本気で叫びたい。人間、300時間以上無駄にしたと気づいたら、どうしても感情的になるね。この本を読んでサクッと根本から理解して、余った時間で正サイドの友達とコンパにでも行きたかった・・・と痛切に感じる。工学部が注目される大学だけど、木田元氏といい山折哲雄氏といい宮坂宥勝氏といい本当に感動する本の著者の経歴を見るとOBなんだよね。そのたびに「裏切られた感満載」なのはどうにかしてくれと最近思う。図書館の哲学コーナーを端から読破していっても見つからなかったのに、なんでやねん!そもそも文学部の人達からも聞いたこと無いぞ。この3名のOBについて。八木氏・本多氏・西澤氏とか工学部の伝統だけがメジャーになっているのはホント良くない。

とまあ、個人的な体験は置いておくけど、木田氏も「個人的な体験の上に哲学を置く事がソクラテスもプラントンにとっても大切だった」と言っているしね。ついつい書いちまった。。

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さて、気を取り直して本題に行きましょう。「疎外」ですよ。もっと簡単に言えば「はばちょ」ですね。なんでも「はばちょ」は方言らしいが。マルクスの主張の核は「労働の疎外」だけど、この本でやっとマルクスの不十分さを理解した。共産主義の不十分さはシンプルに言えば「人間を性善説で捉えすぎ」になるけど、労働の疎外の不十分さは今まで自分の中でも整理できてなかったから。

労働とはその人間が外なる自然へ働きかけ、そこに自己の内的本質を注ぎ込み、その自然をおのれの望む姿に変えてゆく過程です。しかし、この場合も、労働過程というのはけっして一方的な働きかけではなく、それを通じて人間もまた自然に働きかけられ、変えられてゆきます。前人未踏のジャングルを実り豊かな麦畑に変えるためには、人間は自然法則に通暁し、自己の直接的欲望を抑え、忍耐強く働かなければなりません。その過程を通じて、人間は豊かな知識と強靭な意志と頑健な肉体をそなえたより人間らしい人間に成長してゆくことでしょう(P.205)
《略》
しかし、現実の資本主義社会においてはどうでしょうか。人間は労働によってその本質を完成されるどころか、労働すればするほど、貧しくなり非人間化されてゆきます。労働者はその労働を自分のものとして自発的におこなうことができず、労働成果を自分のものとすることなどできません。彼は他人のために、また自分の生産した商品の論理に縛られ、いやおうなしに働かされるのです。彼はむしろ労働から解放されたときにはじめて人心地がつき、おのれの人間性を幾分回復します。つまり、労働者は自己の労働から疎外され、自分の労働の生産物である商品から疎外され(P.207)


ここまで引用すれば「労働の疎外」については分かると思う。本当に大事なのは「なぜ労働の疎外が発生したか」 私有財産が先なのか、労働の疎外が先なのか、マルクスも明確に言えてないような記述があるけど、これは「スパイラル」でいいじゃん。「相互連鎖して酷くなる」で。けど、本当のきっかけはこの中には無い。これだけ哲学の歴史をシンプルかつ本質だけ抜き出した本を読んでやっと分かった。

マルクスが言う労働って「労働すれば良い物ができる」という隠れた前提がないか?

誰も欲しがらないものしか作れない人っているんだよ。全ての作品が周囲から賞賛されるワケないんだよ。幼稚園の粘土細工にしたって当然じゃん。経験によってマシにはなるけど、人間には微妙な初期値の差があって、生まれつき?育った環境?で、最初からアウトプットに差がでる。

労働っていっても最初のうちは、不味い料理しか作れなくて、誰も食べてくれなくて、責任もってお腹が膨れても自分で食べるしかないんだよ。そうやって少しずつ腕が上がる。両親が共働きで中学の頃から週に2回夕食を作らされていても俺が素直に?育ったのは、どんな不味い料理を作っても仕事で忙しい母親は文句を言わずに「ありがとう」と言いながら食べたんだよ。それだけなんだって。その器がない女性は仕事と家庭の両立なんて考えるな。逆にこれが出来れば絶対にどれだけ子供に家事を手伝わさせても、家庭は安泰だから。とまで言えば暴論だけど、大事なのはこれだけなんだって。

世界は本当は凄くシンプルに出来ていて、そのシンプルを魅せてくれるのが哲学であるべき。

原始共産制であっても、料理当番が複数いて、皆に空腹を満たす以上の食事があれば、不味い料理しか作れなくて疎外されるコックも出てくる。
全体的な食事の量が少なくても、不味い料理しか作れないコックは皆から不満を言われる。これって疎外に限りなく近くないか?

「不味い料理は責任とって自分で食え」がシンプルな世の中のルールだし、それでいいんだよ。
けど、食事を含む生活必需品を分業したら、「不味い料理」と物々交換で「服」をくれる人なんて出てくるのかな。
振り返っても、自分自身が心の底から旨いと思える料理を作れるようになったのは、少なくとも半年後だった記憶がある。


そんだけじゃん。「労働の疎外」って、私有財産とか貨幣とか、そういう世界よりも前の話じゃないの?
私の最近の「労働」の中では、これはやりがいもあって頑張った方だけど、欲しいなんてメールもらったことないからね。
これもある意味、「疎外」と言いたいかも(笑
 



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