『失楽園』

なんなんだ、この面白さは。

 

英文学の最高峰とも称されるミルトン作の『失楽園』だが、文章がオペラの台本みたいで3P読んで挫折してた。このお盆に白山に登ってやっと耐性がついた。西洋の最深部には聖書があるけど、聖書以上に大事な本と言われるのもダテじゃない。そもそも非西洋文明の人間からみると旧約聖書には困惑が多すぎる。「ヘビにそそのかされ、食べてはいけない知恵の実を食べてしまい、楽園から追放された」のは一般常識だが、そもそも「なんでそんな食べゃいけない実が楽園になってるの?」という疑問。やっぱりここから掘り下げないと、妄信の誹りをまぬがれない。

 

以前に三浦綾子の「旧約聖書入門」にはその解説が載っていて感激した。それだけでなく、アダムはイブにそそのかされたと言い訳し、イブはヘビにそそのかされたと言い訳した。神が激怒したのは、食べるなといった知恵の実を食べたこともさることながら、その言い訳なんだよね。ここら辺を若い頃に読めたのは感謝している。


この『失楽園』はルシファー(サタンの旧名)の反逆から人間創造までが一つのストーリーになっている。これこそが大事なんだとやっと分かった。なんで神様が人間を創造したのか? それは天使の1/3がルシファーにしたがって反逆して地獄に落とされて、だからこそ人数調整なんだと。これって一般常識なの? まじ? ほんと? この歳で初めて知ってショックなんだけど。。。

 

彼は復讐を企てて、残り少なになった天使の数を補おうとした。しかし、かつての創造力を消耗してしまい、新たに天使を造る事ができなくなったのか、《略》 それとも、われわれに対する面当てのためかはともかく、われわれのあとを土から造られた人間で補おうとし、かかる身分の卑しい人間を栄光のある地位につけ、これに天来の賜物を、本来われわれのものである賜物を与えようと決心するにいたった。(下巻93P)

この本は上記のようにルシファーの視点から書いている箇所もあって、その部分がすごく良い。心の弱い部分と、だからこそ隠すための尊大な態度の描写。

 

根本的には「なぜルシファーが反逆したか」だけど、こういうまっとうな疑問を持てる人はぜひこの本を読んでください。以前にR. Kellyで書いたように、知恵の実を食べて初めてしたことは、お互いの性器を葉っぱで隠す事 これは人類の共通知識とも言えるが、

 

神の御手によって導かれてきた彼女でしたが、無邪気さや、乙女らしい羞恥(はにかみ)や、美徳や、自分の価値の自覚が、つまり、口説かれたい、求められずに靡(なび)きたくない、それでいて大胆でも出しゃばりでもなく、いや、むしろ控え目で、だからこそいっそう望ましく見える―要するに、まだ少しも罪の思いに穢(けが)されていない自然の情そのものが、その心のうちに動いたらしく、彼女は私の姿を見るや否や、急に背を向けて逃げようとしました。私はあとを追いました。彼女は婚姻の尊さを知っておりました。そして、私の切なる願いを厳粛にしかも素直に聞き入れてくれました。夫婦の契りを結ぶにふさわしい四阿(あずまや)へと、曙のように顔を紅(あか)らめた彼女を私は連れていきました。(下巻73P)

 

「求められずに靡きたくない」というのは女性心理の一般的な面だが、「アダムに初めて会ったイブは逃げようとした」のは、それを端的に表しているというか、ちょっとびっくりというか、性器を隠すこと以上に大事な情報だと思える。そもそも性器を葉っぱで隠す前に淫らな欲望がわきあがって、木陰でSEXしていたのね。そりゃ子供用の聖書にはこういうことは書いてないか。ここら辺は中学の国語の時間にでも紹介したほうがいいんじゃないかな。

 

これで日本、インド、イスラム、西洋と、メインの神話・聖典は読んだことになるのかな。ヴァルキリーに代表される北欧神話やククルカンのマヤ神話とか全制覇の道は長いけど、この失楽園を読んだから比較宗教学のポイントは抑えたと思える。

 




美と快感

『快感回路』リンデン著は名著の誉れ高いから、3ヶ月ぐらい前に買って一通り読んだ。この数週間は芸術理論を分析しているので、改めて読み始めたら、169ページ「ギャンブル依存症」

 

そうだ、今日は日本にとって大事な日じゃないですか。「横浜市長選挙」 

残念ながら神奈川在住でも横浜市の隣の市に住んでいるので選挙権が無い。けど、この選挙はそこらの国政選挙よりも日本の将来に大きな影響を与えると思っている。それが「カジノ解禁」。お台場の案もあったけど、菅幹事長のお膝元が横浜なのでこちらがメイン候補地となっている。カジノ利権については菅幹事長と横浜港湾の藤木会長の蜜月が有名だし、今の日本を実質的に仕切ってるのは菅幹事長だから。

 

先日、金曜日のクソ暑い午後、桜木町駅前で長島候補が演説してた。隣にいたのがパンチコ依存症の本の著者の人。かなり興味深かったけど、出張帰りで演説聞く時間なくて残念。今回はカジノ推進派の林市長と反対派の長島候補、伊藤候補。この時点でダメだろ。反対派が2名って共倒れじゃん。反対派の票が分散する。陰謀論的に言えば、どちらかの候補はカジノ推進のための刺客だよ。本気でカジノSTOPしたいなら一本化の話し合いぐらいしてくれ。それぐらいに日本の未来に大きな影響を及ぼす選挙。

 

2012年にアメリカ旅行で、ラスベガスに行った(メインはグランドキャニオンとヨセミテ)。確かにギャンブルは大きな観光資源になる。そもそも中国が2000年以降に国力が伸びたとき、マカオの果たした役割が大きかったと。以前に「マカオがラスベガスを抜いた」という記事も見た記憶がある。今後の日本が観光立国を戦略とするのは同意だし、そこにカジノがあった方が良いと言う意見も分からないことはない。

 

昨日、久々にラウンド1にボーリング&ダーツに行った。メダルコーナーではそこそこの人が遊んでいた。こういう人たちもカジノ解禁になったら、カジノに行くんだろうなぁ。そしたら、やっぱりギャンブル依存症から眼をそむけるわけにはいかない。カジノ解禁するなら、東南アジアの某国(うろ覚えだから国名忘れた)のように、自国民には高い入場料(10万円とか)をとって、外国からの観光客は入場無料にするようなルールにするしかない、と思っています。


 

ギャンブル欲=一発逆転夢想+勝利欲(承認欲求レベル)+金銭欲

ギャンブル欲については、以前にこう分析した。これはこれで達成感もあるけれど、実際の最新理論は興味がある。

 

しかし、行動上の依存症は、物質(薬物、アルコール、食べ物)依存症と必ずしも同じ経緯をたどるわけではない。実際、最近の社会ベースの研究(治療中の患者をベースとしない研究。患者は社会の代表例ではない)からは、ギャンブル依存症やゲーム依存症者の三分の一ほどは、他人の助けを借りずに独力で一年以内に依存から脱却できることがわかっている。薬物依存症では、まずありえないことだ。

 現在では、薬物もセックスも食べ物もギャンブルもゲームその他の強迫的行動も、すべてを含む幅広い依存症の定義に妥当性があると考えるに足る生物学的根拠が存在する。ここで考えられているのは、内側前脳快感回路の活性化と変化がすべての依存症の核心にあるということである。(P171)

 

中学校の同級生はパチプロになっていた。パチンコ発祥の名古屋だと当たり前の風景なのか、それは謎だけど。3年ぐらいで足を洗ったらしい。ずっと椅子に座ってるから痔になりやすいとか。プロの間は月20万は稼いでいたみたい。もちろん僕はギャンブル依存症になったことはない。けど、ゲーム依存症は耳が痛い。「独り桃鉄依存症」なんてアホの丸出しだが、かれこれ合計100時間はやっている気がする。。一番ダメダメなのはAOC。合計で1500時間ぐらい遊んだ。。唯一の救いは、2004年の時点でゲームが改悪されてつまらなくなったこと。もしAOCの改善点が治った版が発表されたら、また1000時間ぐらい遊んでしまうかもしれない。確かに独力で1年以内に依存脱却できるかもしれないけど、ギャンブル依存って、こういう思い出し欲求あるからなぁ。

 

病的なギャンブルは遺伝し、女性より男性にはるかに多い。ほぼ確実に言えることだが、ギャンブル依存症の人と近い関係にある人ほどギャンブルに病的にのめり込むリスクが高くなることには、生まれと育ちの両方が関係していりる。《略》男性の病的ギャンブルのうち35%〜55%が遺伝的要因で説明がつくと言える。女性ではそれほどはっきりしたことは言えない。《略》カジノを覗いたことがある人なら、ニコチン依存とアルコールと病的ギャンブルは並存する事が多いという現実を目にしているはずだ。そこにはドーパミン作動性の快感回路の障害という共通の原因が反映している。実際、病的なギャンブラーの場合、アルコール依存症の比率は米国の同年齢層全体に比べて10倍高く、喫煙率は6倍高い(P175)

 

学生時代の友達で、凄境遇の家に生まれた人がいた。

父親が真のギャンブラー。韓国で5億ぐらい当てて、駅前の一等地のマンションに住んでいた。確かに彼の家に行くと日中でも父親がいた。その彼は当時はギャンブルにはまっていなかったけど、今はどうかな?最近は年賀状ぐらいなのであまり分からない。今の日本ではギャンブル=パチンコ・パチスロ、競馬、競輪、競艇ぐらいなのかな。リアルなお金が稼げるという面では(オンラインゲームのRMTは知らない世界)。あまり周囲に該当者がいないのですが、遺伝性について特に否定したい何かがあるわけでもない。

 

不確実性の快感

「働いていて得た99ドルより道ばたで拾った1ドルの方が嬉しい。それと同じで、トランプや株で勝ったお金は気持ちをくすぐる マーク・トウエイン」

《略》

最近、サルやラットの実験から別のモデルが提案されている。それによると脳はもともとある種の不確実性に快感を見出すようにできているという。《略》サルの実験結果から導き出せる解釈の一つは、人間の脳はもともとリスクのある出来事から快感を得るように出来ているということだ。このモデルでは、ギャンブル好きになるのに初期の報酬は必要ないということになる。むしろ、見返りの不確実性そのものが快感を導く。

 進んでリスクをとろうとする神経系は、進化上も適応的だったというシナリオが提案されている。《略》人間の祖先では、狩猟をするオスのほうが、採取をするメスよりもリスクを取ることに適していた可能性があり、そのことが、現在の人類で男性の方がギャンブル依存や衝動のコントロール障害のリスクが高いことの由来となっているとも考えられる。

 

非常に良い本。素晴らしい。働いた99ドルと拾った1ドルの嬉しさは個人差大きいと思うけど。そういう意味ではギャンブル中毒の可能性は付き合っている時に分かるかもね。女性としてはかなり要チェックポイントかも。けど、こういう理論を知っておいた方が絶対に良い。このレベルはネット上のコンテンツでも、TV番組でも有りえない。来年の新入社員への推薦図書リストには入れなかん。

 

この本は他にも興味深い記述が多い、ある有名な痩せ薬は自殺を誘発するという副作用から禁止になったと。結局、プリミティブな欲求を下手に薬でコントロールすると、生きる意欲→ストレス耐性も減るんだね。。それは凄く納得。

 

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いかん、ギャンブル欲に引っ張られすぎた。

本題に行こう。

 

美です。

いま、写真芸術論が気になっている。とりえあえず、ネットで見つかるのは以下の三つ。どれも興味深い。そもそも写真は芸術なのか? 

http://park7.wakwak.com/~ueno/archive/92/sv9206shashin.html
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub1-2.html
http://book.asahi.com/reviews/column/2012030900005.html

 

もっともっとプリミティブな地点から考える。芸術は何かしらのインプットが必要であり、何かの感覚器が必要。その中で味覚と触覚と嗅覚について、ここに訴える美ってあるのかな? 味覚については料理は芸術といってもいいのかもしれない。普通は料理の味だけでなく、皿も含んだ見た目もあるね。確か味覚は5チャンネル。嗅覚は香水。これって芸術のジャンルになりうるんだっけ? ラリックの香水瓶とかはガラス工芸だからなぁ。そして触覚。マッサージも最近は英国式、タイ式とかあるけど、やっぱり芸術のジャンルでは無いような・・・。嗅覚と触覚には癒しはあっても美は無い様に思える。

 

すると「癒し」と「美」の違いを考えなくては。。

そもそも美人って、癒しの意味しか無いのでは??

 

うーん、面白い結論になってきた。ここら辺を掘り下げて、コンパで美人の横に座った時に「美人って大変でしょ〜」から始まって、美と癒しの関係。「結局、美人は美じゃなくて癒しの意味しかないんだよ」と言ってみる。う〜ん、成功の時と失敗の時の差が激しいな。ただ、こうやって知識の幅を広げ自分なりに掘り下げいてく楽しさこそが大切。ここら辺の話を中学生ぐらいで聞けると将来が伸びるのは間違いない。遺伝が大事なのでなく、こういう環境が大事。それが家の無形文化財。今でも覚えているのは、名著の誉れ高い岩井克人の貨幣論。当時、親がハマっていて夕食時に話題にしていた。あのエッセンスを高校生で知れたことは今でも感謝している。二世論でも書いたけど、こういう環境ってあまり無いから、少しでも次代に繋げようとしているのかもね。これも、ある意味では、人の欲望か。

けど、何の欲望なんだろう。

 

 

 




美食と美酒と美 〜ホヤと三木成夫と吉本隆明〜

ホヤを食べる。

生まれて初めてホヤを食べたのは2014年の女川の漁船の上。

会社の復興支援プログラムの漁業体験で、メインはホタテの殻掃除だったけど、漁師さんが厚意でその場で捌いてくれた。めちゃくちゃに美味かった。

 

ホヤ自体はいつからか知っていた。匂いが凄いらしい、珍味だと。生物学上、大切な位置づけにいることは大学時代に進化論を乱読している時に知った。ホヤの幼体から魚に進化したと。

 

そして今年。ホタテが貝毒で手に入らず、代わりにホヤを買った。思った以上に捌くの楽だった。内液は確かに味噌汁に入れると美味い。けど、ホヤのクリームスパゲティの美味さはウニスパを越すね。

 

今日は内液をクリームスパゲティにしたあと、冷凍保存していた身を刺身で食べる。解凍してもけっこう、いけるじゃん。たまらなく日本酒が飲みたくなる。

 

学生時代に、日高見で初めて日本酒の本当の美味さが分かった。はっきり言って飲み放題のアルコール入り日本酒で満足できるのは味音痴。純米酒じゃないと米から作る意味がない。それ以来、美味い日本酒を探している。久保田も越乃寒梅も、 獺祭、飛露喜、十四代、田酒と美味いと言われる日本酒は殆ど飲んだけど、最終的には「愛宕の松」に落ち着いた。同じ系統として「瞑想水」と「ねぶた」がある。ほとんど水のようなお酒。甘くもなく辛くも無い。瞑想水という名前が示唆的。このお酒は1時間の座禅を30分にするぐらいの良さがある。けど、関東のスーパーで手に入るのは「ねぶた」だけ。コストパフォーマンスとしても申し分ない。(愛宕の松は川崎町のふるさと納税で手に入れてる)

 

 


そして、食事後に吉本隆明の『言語にとって美とは何か』を読み始める。

わたしはやっと今頃になって表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ、と簡単に言えるようになった。《略》たとえば、「花」とか「物」とか「風景」とかいう言葉を使うとき、これらの言葉は指示表出のヨコ糸が多く、自己表出のタテ糸は少ない織物だ。

 

《略》いま眼のまえの絶景(たとえば松島)を眺めて、あまりのいい風景に「松島やああ松島や松島や」と芭蕉の句のように感嘆するばかりだったとする。このばあい「ああ」は文法的には感嘆詞と呼ばれている。《略》おおきな自己表出性と微弱な指示表出性の織物だといえよう。

 

《略》たとえば眼前の風景をみて「美しい風景だ」と言ったとする。この「美しい」は指示表出性と自己表出性が相半ばしているといえる。風景の状態を「美しい」と指し示しているとともに、じぶんの心が美しいと感じている自己表出性もおなじ位含んでいるからだ。

 

《略》指示表出性が一番大切な言葉は人間の感覚器官との結びつきが強い言葉だ。それは感覚が受入れたものを神経によって脳(大脳)につたえ、それによって了解する。自己表出性の強い言葉は、内臓の動きの変化、異変、動きなどに関係が深い。《略》わたしはこれを解剖学者三木成夫の遺された業績と、わたし自身の言語論の骨組とを関連づけることで考えるようになった。言語のタテ糸である自己表出性は内臓の動きに、ヨコ糸である指示表出性は感覚(五感)の動きと関係が深いと見なされると言っていい。

(文庫本まえがきより)

 

あれだけ進化論を本を読み漁ったつもりだったけど、三木成夫を知ったのは西原克成氏の本。三木成夫を継いだのは間違いなく西原克成。いま学生ならば、その間にこれらの本は読んだ方がいい。美は感情であり内臓なのだ。そこを文系と理系で分けているから教養が片手落ちになる。まさか吉本隆明が三木シンパとはね。超一流ならば当然か。三木を踏まえて美を語る凄さ。

 

今日は久々に点と点が全部繋がった。もう三木成夫も吉本隆明もこの世にいないけど、この本を理解しAIに載せること。今の改・マズローをどこまで変更する羽目になるのか逆に楽しみになってきた。昨日までの登山にもって行ったら雨で大変なことになって、透明テープで応急処置した本。内臓まで開いたかのような状態になったけど、まるでホヤの中身のようで、これこそが幸せなのかもね。

 

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リクエストがあったので、お店はこちらです。女川には年に計6日間は行っているので、ある意味、実家よりも多くいるなぁ(笑

 




そして雲となって、雨が降り、川は海に往(ゆ)く

 

前回の続きとして、 泉ヶ岳〜船形山〜定義観音の一泊二日コースに行ってきました。

 

そもそも泉ヶ岳は仙台の小学生が行事として登るぐらいの山。昔、家庭教師時代に富士山の話をしたら「僕が登ったのは泉ヶ岳」と言っていた。山麓にあるスキー場に6年間一度も行かなかったのは後悔してる。当時はスキー場のサイズばかり気にしていたけど、仙台の夜景にダイブするようなナイターは行くべきだった。今回、スキー場の中にある登山道を歩きながら、「どれだけ登山から遠ざかっていても、さすがに泉ヶ岳ぐらい学生時代に来るべきだった」と痛感してた。

 

学生時代にやるべきことを全部やったか

入学した当時は南米〜中米放浪を志して第二外国語もスペイン語を選択したのに、二度の入院等があって出来ず仕舞。未だにコンプレックスがある。特にインド放浪をした人。会社の元先輩はインド放浪ベジタリアンだけでなく、会社入寮時の持ち物がボストンバック一つというミニマリスト。インドに行く勇気もなければ、未だに肉ラマダンの状態、紅茶の缶自体が山ほどあって同期がびっくりするほど荷物が多かった僕にとっては本当に憧れの人。今年の新人にも興味深い娘が。前日までの会社行事に50Lのザックで来てたから「学生時代に登山してたの?」と聞いたら「ヒッチハイクしてました」 確か90年代後半には同乗中の事故における賠償問題から長距離トラックは軒並みヒッチハイクを断るようになって文化も廃れたと思ったのに、そういう学生時代を過ごした人がいるとはね。久々にいい意味でショック。ずっと「思考」「運動」「感性」の三つを突き詰めれば良いと思っていたし、そこは悔いなくやったと思っていたけど、やっぱり泉ヶ岳ぐらいは学生時代に登るべきだった。

 

夏特有の空気のために途中晴れていても仙台の中心部は見えない。頂上では隣の山も見えないくらい曇っていたけど、一時的に雨が降った後は見晴らしが良くなった。特にスキー場の上に浮かぶ夏の雲を眺めていると前回から気づきが増えた。

 

山に還った思い出は雲となる。

泉ヶ岳も船形山も著名な山だけど、日帰りするコースを選ぶ人が多く、この二つの山を結ぶ登山道はかなり道が不明瞭。17時過ぎにやっと船形山の頂上避難小屋についた。ガス(霧の中)でまるっきり何も見えなかったけど、次の日の朝は小雨が降った後に仙台の中心部のみならず太平洋まで見えた。後白髪山から見ると仙台観音と中心部が一直線になるんだね。 夏の登山としては想像を超える風景を眺めながら、「何も無くて全てがあった大学時代」全体を感謝すべきなんだと、やっと分かった。

 

 

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宮城の山としては蔵王と栗駒山が有名だけど、それぞれが地元で、かつ当時に一緒に行けなかったから、今でも行く気になれない。山友達に誘われたら断るほどじゃないけど、1人で行くのはこの先も無い。改めてそう思った。

 




思い出は山に還る


ストレスフルな時の気分転換の方法は色々あると思うけど、個人的には屋上に行ってポケーと景色を見るタイプ。半年ぐらい前に行ったスカイツリーは非常に良かった。東京近辺の人ほどスカイツリーに行かないと思うけど、都心の高層ビル群を見下ろす形で眺めていると、「この一つ一つの明かりに人生のドラマと四苦八苦があるんだろうなぁ」と思える。自己の悩みがこれら沢山の悩みの中で一番重いワケもないし、まずは相対化できるかどうかだから。


登山が趣味の人って、自分が住んでる場所から見える一番高い山には登るのが基本中の基本。高校時代までは名古屋だったから御岳。社会人になってからは富士山。大学時代の仙台は蔵王:スキーで行く&頂上まで車でいけるし、3000mの山もないし、登山のモチベーションが零だった。逆に街の中心部に近い小山にキャンパスがあって、建物の屋上からの眺めが良かった。何度も行ったけど、どちらかというと街を見ることよりも、逆側の山を見る事の方が多かった。やっぱり雪山の厳粛さが好きなんだよね。住んだまちの中では、手に取るように雪山が見えたのは仙台だけ。

 

卒業後も出張があるたびに学生時代に行けなかった観光名所に寄っていたけど、今回、やっと仙台で登山をしてきました。あれだけ色々あった大学時代なのに留年もせずにちゃんと卒業できたのは、屋上から眺めていた山のおかげだと痛感しているから。
 

―保の奥の二口渓谷から登り始めて大東岳〜面白山を縦走し、仙山線の面白山高原駅に降りる日帰り縦走コース

∪凜岳〜船形山〜定義観音の一泊二日のコース

 

登山地図を眺めながら二回に分けて計画し、昨日は,帽圓辰討ました。マイナーな山&紅葉の季節でもないから殆ど登山者がいない。コースタイムで9時間だけど、バスの関係で登山口には10:30到着。だから日が長いこの時期じゃないと日帰り縦走は難しい。特に大東岳から権現様峠に下る道は地図でも点線扱い。マイナーな山のマイナーな登山道はこのレベルなのね。。年間で歩く人が数名程度なのだろう。ある意味、登山スキルは向上したと思うけど・・・。一応、18:45に面白山高原駅についたし、ヘッドライトも使わずに済んだけど、かなり疲れました。。

 

もともとは雨の予報だったけど、前日の夜から当日の朝にかけて降ったのでセーフ。最初の大東岳の頂上はガスでまったく景色が見えなかったけど、そのうち光も差すようになり、爽やかな風も吹き始めて、初夏の気持ちの良い登山。夕方についた面白山の頂上からは仙台も山形も両方とも見えた。こういう時は本当に山の神様に感謝する。

 

デキる人ならば部屋で座禅していても心を整流できるけど、僕みたいな凡人にはそれは無理。ある程度、肉体的にもハードなことをしないと雑念は消えない。なぜマラソンでなく登山なのかというと、都会の空気が嫌いで、山の方が癒されるから。別に山でなく海のアウトドアでも良いと思うけど、単純に山派なんだと思う。その選択に深い意味があるのでなく、血液型みたいなもので生まれた時には決まっている事柄なんだと。

 

学生時代にずっと眺めていた山を、当時聴いてた音楽を聴きながら登ること。色んなことが思い出されて、その全てを山で解放してくるような登山。古い日本では、人の魂は近隣の山に還っていくというけど、ある種の思い出もそうなのかも。

 

これだけ不動明王にはまったのも秋保不動明王がきっかけだけど、その奥宮が大東岳の頂上なんだね。頂上の祠で護符を見たときは凄く感慨深かった。最後の最後まで残っていたある種の思い出は今回でやっとあるべき場所に落ち着いたと思える。

 

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先日、仕事で落ち込んでる会社の後輩を見かねてラーメン屋に誘い、「昨日も新橋で人が立ち入って朝のダイヤが大幅に乱れたけど、ああいう事はやめてね。「気づいたら青森のホームに立ってました」ぐらいがいいと思う。なんか、西に行くよりも北に行ったほうがストレスの深刻さが伝わる気がするんだよね」と言ったら笑って同意された。自分なりのストレスの対処法は25までに確立しておく方がいい。30過ぎても持ってないと、その後の人生が大変だろうね。

 

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大学時代の指導教官はソフトウエア理論の分野で日本一を豪語していて、確かに外国人も含めた300名規模の国際会議を主催してた。事務局として会議の受付をしていたら、他の大学の先生達が「○○研の学生?頑張ってねー」と同情された。一番驚いたのは就職活動時のOBによる説明で、日立で課長してる40過ぎの先輩が「今までで一番大変だったのはこの研究室にいたとき」 あの時はマジかよ、と思ったけど、今になったら良く分かる。ストレスから肌が荒れて、夏でも長袖着ている人もいるような場所。そんな中でも、先輩達がヒヤヒヤするぐらいに僕は教授とぶつかってた。卒業して8年ぐらいたって教授を囲む会があった時に、「自己写の定義が単純すぎるからトポスはAIで使えない」と言っておいたけど、どれだけその意味が伝わったかな。当時は理論系は苦手だったけど、今はそのポイントは大体分かる。全ては素数の奥深さと美しさなのだと。その深遠まで繋がって無い理論なんて、クソぐらいの価値しかない。チャーチの定理はどこまで繋がっているのだろうね。

 

 




超感性!?

先日からの本を読んでる。「超感性」って初めて見た単語。詞的・文学的な文章に使われるなら、まだいい。けど、論述的・分析的な文章でこういう単語が出てくると困るんですけど・・・・。そもそも感覚と感情を明確に分離できるかどうかも謎。どこかで線を引かないと区別はできないと感じてる。「感性」は一般用語だけど、感覚と感情と感性の三つの違いを明確化することすら大変。感覚は感覚器で感じるけど、感情と感性はそもそも何で感じるのか、まずこの問いから答えないと。

 

そして「超感性」。これって「スゲー鋭い感性」なの? それとも「感性を超えたもの」なの? 接頭辞としての「超」は常に多義性をもっている。本を読んでるともちろん「感性を超えたもの」だが、造語をするなら元になる言葉は明確にしてくれ。「表象を伴わない概念」って、表象も概念もクリアに定義するのが難しい単語だけど、「表象を伴わない概念」は概念では無いような。単なる「もやもやしたイメージ」といわれたほうが腹落ちできる。

 

この表象を伴わない概念が、言語規範の媒介を受けて感性的な性格を付与される過程も取り込んでいるところである。三浦は、この過程のあり方を《概念の二重化》と呼んでいる。(『言語過程説の研究』 P83)

 

この「概念の二重化」の定義は、すみません僕にはさっぱりわかりません。定義の文章で使われている単語の説明もない(概念とは何か等)し、その組み合わせも「?」がある。言語にはある種の規範(犬という物体を犬と呼ぶルール等)があるのは納得。けど、その媒介をうけたら、感性的な性格が付与されるの? 逆じゃないの?感性的な面が削り落とされるのでは?

 

「宇宙人が犬らしきペットをつれていた」場面を考えよう。外見は犬にちかい。しかし全身メタリック色。ロボットかと思ったが、あまりに動きがなめらかで、生物に思える。鳴き声はまだ聞いてない。

 

この時、「表象を伴わない概念」とは何ですか? 「犬らしきペット」と思った時点でもう普通の概念ですか。 犬という言葉を使って表現すると、メタリックで機械的な見た目(=感性)が伝わらなくなる。だから、「犬らしき」と表現し、「全身メタリック色」と形容する。

 

頼むからこういう場面設定をして、その上で議論してください。じゃないと、言語学の中だけでの議論になっちゃう。ウチみたいに人工知能の中間言語を作ろうとしているなら、その中に入っていくけど、それでも途中でイヤになる。こういう箇所を真面目に読み解くヒマあったら、零から自分で作った方が早いと本気で思う。そしたら「概念」は採用しても「表象」なんて単語はそもそも採用しない。「感覚」と「感情」は採用するけど「感性」はいらない。感性を捨てるのは勇気がいるけど、やっぱりいらないな。

 

 

「超感性」なんて、昔の女子高生の「チョベリバ」と同じぐらいの限定単語だと思った方がいいと感じる。一般的にもそんな結論になりそうだけど、独自の用語満載の哲学書って妙に「俺は難しいことやってんだぜ」感があるんだよね。本当に新しい用語を作る必要あるのか?日常単語で表現できないのか? つねに考えるべきだと思ってます。ちょっと前に話題になった(もう二年前か)、この「アンチ・エビデンス論批判」は凄く興味深い。本サイトも批判側につきます。「最大限、日常単語を使え」と。

 

「ほっぺたとあごの間に名前つける」

と言ったのは誰か忘れたけど、名前をつけるだけの必要性は絶対にいる。整形とかやってるお医者さんにとっては、ここら辺に名前をつける必要あるかもね。問題なのは、物体的なものは見れば誰でも分かるけど、感性とか感覚とか内面的な部分で新しい用語が出来ても、その用語が指す範囲を皆が理解するのが難しい。だからこそ、より詳しく説明してくれないと。そのためには人間の理解の全体構造も必要だし、そもそも理解の部分だけ取り出して議論してもしょうがないんだよね。「理解」という言葉がカバーする範囲自体が人によって違うから。もっと大きな系として捉えないと。ここまでやれば、AIまで後一歩かな。

 

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言語学、心理学、哲学を網羅するからAIは理系の中では一番文系に近いと思ってる。今、流行りのDeep Learningは数学寄り。けど、数学における意味論って集合への写像だけなんだよね。その集合を誰が作るかとか、どんな中身なの、一切無視。まあその割り切りこそが数学なんだけど。言うだけなら誰でもできる。実際に作る場面になって、変な用語増やせば増やすほど自らの首を絞める。確かに音楽のレビュー書いているとついつい普段あまり使わない用語とかを使用してしまうから、「全く使うな派」ではないけど。それでも節度は必要だと思ってます。

 




名詞と動詞の世界観

 

ホピ語では、「いなずま、波、焔、流星、煙を出す事、鼓動」は動詞である。常に短い期間しか継続しないできごとは動詞としか扱われないのである。「雲」や「嵐」は名詞として必要な継続のもっとも短い限界である。

 

《略》

バンクーバー島のヌートカ族の言語では、すべての語が動詞のように思える。《略》家というできごとをあらわす語は語尾によって、長らく存在する家、一時的な家、未来の家、かつて家であったもの、家になりそうだったものなどのことを表すのである。(P.159)

やっと見つけた。名詞と動詞の区分に疑問を持つこと。ずっとずっと探してた。前回から読んでる『言語・思考・現実』(B.L.ウォーフ著)の凄さ。

 

真に根源的な問いは、真の孤独を要求する。

2010年頃かな、ロングマン2000単語を整理してる時、動詞・名詞・形容詞に変化する概念はその基本形を決める必要があると痛感した。英語も日本語もその点がアバウトすぎる。一番シンプルな自然物を見渡しても、山はいい。誰がみても名詞。川は? どうみても動いてるよ。あれって本当に名詞でいいの? 波は? もっと名詞じゃないような・・・風は? 

ここら辺を真面目に考えると、頭が破裂しそうになる。

 

ホピ語には、すべて飛ぶところのものを指す一つの名詞がある。《略》ホピ族は現に、昆虫や飛行機や飛行士を全て同一の語で指し、別に不便だとも感じない。《略》逆にイヌイット(エスキモー)の人たちなどから見れば、われわれのsnow(雪)という範疇は広すぎるのである(P159)

ここら辺はどの言語学の入門書でも触れている。最初にこういう部分を指摘したのもウォーフなんだね。けどさ、これって名詞の中のカバー範囲じゃん。ここよりも名詞と動詞の相互変換の方がよっぽど大事だと思うのに。この本を39歳で読むハメになったのは、今までの言語学者がみんなスルーしたから。なぜ俺はこの文章を18の時に読めなかった?? そしたら10年は早く先に進めた。俺の10年間を返してくれよ。。

 

人は、己がもつ問題意識の中でしか、生きていけない。

ウォーフ以外の言語学者は名詞のサイズの問題意識はあっても、名詞と動詞の相互変換を問う事に必要性を感じなかったんだね。それは、素直に言えば凄くさびしい。自分だけが変人だとずっと思ってた。

 

 

そういえば最近、「よく零時近くに帰ってから本読めますね」と言われて「俺は仕事で殆ど頭使ってないから」と言ったら、冗談だと思われた。けどさ、誰だって通勤のために頭つかっていると思う人なんていないでしょ。本当は物凄く高度な情報処理をしているし、未だに人と一緒に電車を使って通勤できるロボットなんて実現できてない。誰がどうみても車の自動運転よりも高度。だけど「いやー、今朝の通勤に頭つかったよ」っていう人はアホ扱いされる。それと同じで、既存のフレームワークの中で頭を回転させることは、慣れればそんなに疲労じゃないんだよ。

 

真の頭の疲労は、フレームワークがぶっ壊れるとき。

 

以前にこう書いたけど、

英語を2000単語まで絞ったロングマンは素晴らしいけど、2000語を丁寧に見てみな。こんなにいらないから。本気でやれば、この二割でいける。それがうちのやり方。そしたらぶち当たるのが、名詞と動詞、どちらがプリミティブか。この答えまで同じなら、俺と一緒に手を組まない? 

読んだ人の99.99%は意味不明なんだと思う。だから、ずっと僕は一人ぼっちだった。というより、日本のAIのレジェンドであり、70年代は世界の最先端の自然言語処理を達成して、京大の総長まで勤めた長尾真であっても、ここまでの問いは無かった。こんなこと言うと業界人を全員敵に回すと思うけど、00'S前半に人工知能系の研究者が色んな大学の総長になったのは、研究に行き詰って、しょうがなく政治活動に情熱燃やしたんだと思ってました。ぶっちゃけ。

 

こんな根源的な問いは、頭がイイ人は絶対にしない。

誰だって職業として稼いで食べていかなくちゃいけない。答えが無い問題に取り組むのはリスキーすぎる。だから、別に非難したいワケじゃない。なんども大学の教授の職をオファーされても、自由な研究テーマのために断り続けたウォーフが凄いだけ。言語を比較しながら、根源的な世界像を突き詰めて行く事。確かに他の職で稼いでいないとできない。

 

そういう意味では、今の立場を感謝しなくちゃ。

働き方改革のおかげで日曜の仕事の代休をもらった。さすがに平日は休日よりも気合が入る。AI研究のためにこれ以上の昇進を断ったのに、普通に接してくれる今の上司にも、周囲の人たちにも感謝。今の仕事は楽しいしやりがいもある。そういう意味ではウォーフが化学工場の火災防止検査官の仕事を続けたのと同じなのかも。ただ、己の根源的な問題意識と重なるのはこの分野。認識論の根本に動詞と名詞の区別があると思っていたのに、言語学の誰一人とも話題にしてなくて。。

 

 

勝手にGoogleとかの超一流の研究者と競争しているつもりになっているから(笑、 答えは書いても、理由は書かない。理由こそが大事だから。答えはシンプルだよ。ヌートカ語が正しい。とことんまで名詞と動詞を比較したら、動詞がプリミティブ。

 

逆にダメだと思う理由なら、そろそろ書く(笑

Deep Learningはダメ。根源的な仮説が「人間の脳はニューロンで出来ている。Deep Learningにはニューロンをシュミレートしている。だから原理的には人間の脳で実現できることは、全て実現できる」だから。

 

あのね、人間には魂があるの。

魂がニューロンの上で抽象レイヤーを作るの。ニューロンだけじゃ抽象レイヤーは生まれないの。抽象レイヤーが作れないと、言語は扱えないの。とかいうと、魂の証明とか色々言われるし、魂を否定するのが科学者の正しい態度、みたいな風潮はクソ。魂の存在の証明を今の科学の体系の中でできるわけ無いじゃん。そんな戯れ言のヒマあったら、真面目に生物学の生命と非生命の間、物理学の観測問題を突き詰めなよ。もっと早い方法ある。今すぐ自殺したら?そしたら魂があるかないかすぐに体感できると思うよ。

 

結局、松果体なんだよ。運動を小脳が担当するように、魂と意識の部分は松果体でいいんだよ。けど、過去に「松果体に小人がいる」みたいなモデルを作ったから無限後退になって破綻した。それが失敗なんだって。松果体にはレンズと鏡があるんだよ。アナロジーで言えば。それをシュミレートしたらDeep Learningでも頂上にいけるかもね。中間言語方式で攻めようとしている僕とどちらが早いか、それは、神のみぞ知る。

 

---

ここまで書いたら天佑が下りてきた。動詞がプリミティブなのはこの世。名詞がプリミティブなのがあの世。

 

さすがに「自殺したら?」は言いすぎだね(汗 今の物理法則の不十分さを己の目で確認したかったら、長崎のアンデルセンに行けばいい。サイババ以上といわれる超能力は流石に凄かった。普通に解いてもルービックキューブを6秒。「本気出しますよ。ついてきてくださいね」で1秒でそろえた時は唖然。500円玉をバリバリ食べてる時は口元から煙でるし、その後、「えいっ」と気合入れたら喉からワープさせて元に戻すから。とか書いているとアホだと思われそうだけど。あそこにはまた行きたいね。

 




オーブの撮り方と超ひも理論

 

熊野三山の元宮である神倉神社のゴトビキ岩に行ってきた。日本の巨石の中では一番崇められている石だと思う。この石の右奥に祈る場所があり、写真を撮ろうとしたら、あまりに光が強すぎてホワイトアウト。一旦、空間が落ち着いた後に撮ったら見事ゴッドレイ「すげーパワー。写真がホワイトアウトする」とついつい口にだしたら、近くのカップルの女性が「私が撮ったときはホワイトアウトしなかった。。」と呟いたのが聞こえた。「そんなの、ああで、こうで、これこれやったら1年ぐらいで撮れるようになるよ」とは、さすがに見知らぬ人に話しかける勇気は無い。。ということで、パワースポットの基本中の基本である「オーブ」と撮るまでのステップとして自分の経験を書いておこうと思った。

 

まず、一番の基本が「オーブ」→「光の球」のことで、パワースポット系の本やサイトを読むと普通に知る単語。最近はブームを通り越して常識の感もあるパワースポットだけど、オーブが撮れないなら単なる観光旅行。その土地のパワーと自己の思念が感応した結果がオーブだから。そのためにはある程度の自己の準備も必要なのだと。

 

もちろんオーブといっても「.メラのレンズと光の関係」で撮れるものと、「▲僖錙璽好櫂奪函廚世ら撮れるものに大きく分類される。,砲弔い討こちらのサイトが凄く分かりやすい。(量が多いけど、ゴッドレイとレンズフレアの部分)

,和亞兩上に並ぶ。6角形とかもある。これが基本。それ以外の区別では「オーブの色や中身の模様」で判断できると。もちろん両者とも「空気が綺麗」「強力な光源」というのは共通だと感じている。その上で、オーブが撮れるかどうかは本人の精神的パワーと関係がある。最後に、「ぜ分自身に縁のある土地じゃないとオーブは撮れない」

 

 

オーブ現象を理論的に裏付けるのは、超ひも理論の畳み込まれた6次元への作用だと思っています。超ひも理論では、この世は10次元であり、私達が認識できるのは空間3次元と時間1次元の合計4次元のみ。けど、思念は畳み込まれた6次元へ作用できると。超ひも理論については、こちらのベストセラーが一番じゃないかな。ブルーバックスなのにブラックな本。それだけの意気込が詰まった本。個人的には映像で見る方が分かりやすいと思うのでNHKスペシャルをオススメします。この「神の数式」と「ポアンカレ予想100年の格闘」「リーマン予想 天才たちの150年の闘い」の3つは美術センスのある文系の人には絶対にオススメ。美の深遠を垣間見れる。

 

オーブを「水滴」や「空中の埃」が写りこんだとみなす人もいる。確かにこの愛鷹山の大棚の滝の写真を撮ったときは、「随分と水滴が写りこんだなぁ」としか思わなかった。けど、その後にも色々と他の滝の写真を撮っても、ここまで写りこんだのはこれだけ。オーブを一つ一つみても、やっぱり中身が違う。改めてこの写真を見ると、社会人になって沼津配属になったのも愛鷹山に呼ばれていたからだと痛感する。そこら辺が宮下文書に繋がるんだよね。

 

初期に撮れたオーブとしては一番分かりやすいのが、日光にある東武ワールドスクエアの写真。青と透明の二種類のオーブが場所も離れているので、,鉢の説明にはなっているかな。なぜ東武ワールドスクエアなのかはさっぱり分かりません。もちろん東照宮でもオーブは撮れたけど、ワールドスクエアだからねぇ。。この場所に昔、何があったのか凄く気になってます。

 

 

もちろん精神を鍛える方法は沢山あるけど、欲を鎮めるのは大切。スポーツでもヨガでも座禅でもいい。ただ、純思考系で達成するのは実は大変。禅の無念無想なんて僕ら凡人には無理。それよりは声に出して読んだ方がいいよ。基本は仏教系なら般若心教、神社系なら祝詞かな。言葉のリズム感では日本固有の祝詞の方がいいかもね。数年前は一年くらい毎日〜三日に一度あげてた。凄くシンプルにいうと、男性にとって女性の裸の写真の真逆の作用をする。考えに考えをぶつけるのでなく、行動をぶつけた方が効果は大きい。スポーツで昇華とはよく聞くけど、言葉で喋るのも、一つの行動と当時痛感したなぁ。

 

 

その上で、一番大事なことは、自分に縁のあるパワースポットに行く事。

昔から仏教系には凝っていたけど、初めてオーブを撮れたのは高野山に行ったときなんだよね。父親が和歌山出身だから、物心つく前におんぶされて行ったらしい。言葉を覚える前の記憶は無意識に染み込むと聞くけど、そこである種の精神的なスイッチが作られ、成人して自分の意志で再び訪れた時にONになる。そんな仮説を立てています。比叡山には以前に行ったし、せっかくマヤのピラミッドに行くのだから、その前に高野山にも行っておくか、という軽い気持ちだったのにね。なぜあれだけ建物も仏像もある中で大黒天なのかは謎だけど。

 

最近で一番嬉しかったのは、やっぱり金峰山かな。この二色のオーブは、もしかして同行者のパワー??なぜか大極印のオーブは高い山でしか撮れない。 理由は分かってない。金峰山は去年だけど、こちらの大キレットは2014年だから、そろそろ再び行こうかな。

 

 

 

 

そして今はレインボー/ウエイブが撮れるようになったけど、まだそれは3箇所程度。いつかはキが撮れるようになるのだろうか。目標はそこだけど、キはかなり先だと思っている。。多分、今の自分の状況だと、ベジタリアンにならないと、無理なんじゃないかな、と感じてる。この一年はずっと肉ラマダン(太陽が出ている間は肉食しない)をやっているけど、仕事帰りの零時前にラーメン食べてるからなぁ。道は長い。。

 




零と矛盾の禁欲

 

先週末、ネットを色々と調べて、時枝文法→三浦つとむ の先にあるのは川島正平だと思った。ところが絶版&Amazonで中古2万円。増刷するか、角川ソフィア文庫にでも収録してくれ〜 と思って、悩んでいたら図書館の書庫にあるのが判明。この週末で読みたかったので、金曜日の昼休みにダッシュで借りてきた。

 

 

で、今読んでます。こちらに書いたように吉本隆明が絶賛する三浦つとむの理論だけど、やっぱり色々と納得できてない部分がある。

 

零記号の使いすぎ

弁証法の使いすぎ

 

一番の違和感はこの2点かな。もちろん時枝文法の時点で零辞があったけど、三浦つとむは使いすぎな気がする。数学における零記号は「0」という形があるけど、零辞は形もない。以前にあったものを省略したならいいんだよ。過去を調べれば証明できるから。けど、時枝文法における零辞は本当に影も形もなくて、省略ですらない。

これは認めた瞬間に何でもありだよ。すげー卑近な例でいれば、恋愛において「私のこと好きでしょ」「はぁ!?」「そんな態度も行動も全くないけど、分かってる。零辞だからね」って無茶苦茶な世界。

 

そして弁証法フリークもダメだね。全ての対立が止揚を求めているワケじゃない。子供の喧嘩や、男女の性差や、単なる誤解もあるワケで。そこら辺もすべても「矛盾」という言葉を使われると、「家に帰ってもそんなノリで会話してたら奥さん出て行くぞ」と思える状態に近いのかも。零記号も対立と止揚の弁証法も物凄く強力なフレームワークだからこそ、使用には禁欲的にならないと。

 

三浦理論のコアである認識の分裂は凄く興味深いけど、「この俺が引き受けた」という表現における「この」の意味を「認識の分裂」まで使って説明する必要性は謎。単なる強調でいい気もする。「過ぎたるは及ばざるが如し」というけど、及ばざるよりは絶対に良いけど、それでも使い過ぎると本質からズレるのを痛感。ここら辺を川島氏がどう料理してくれるか、楽しみにしながら、いま、読んでる。そんな週末。

 

--

[6/10]

川島正平氏本人のサイトがあって、メールアドレスが公開されていたからメールしてみた。幸運にも2,3度やり取りをさせてもらった。おかげで言語過程説に関する自分のスタンスが決まった。メールを書きながら、疑問点まとめたので、ここにおいておきます。

 

◆主体、客体と零辞の関係

『言語過程説の研究』P.152をみると、客体の認識とは「誰が表現しても同じ表現になる」と暗黙的に述べていると思える。
主体表現=個の意見表明、客体表現=客観的な事実描写として読み替えることで、時枝氏の理論も、三浦氏の理論も、川島様の理論も理解できるのか、三者の間に主体と客体の定義の違いは存在しないのか。
P.154を見ると時枝氏は主体表現は概念過程を含めない場合があるとしている。個人的にも「怒りの雄たけび」などは概念過程を含んでいないと感じる(雄たけびは言語では無いという区分なのかもしれないが)。

 

『言語過程説の探求 第一巻』には、「概念化されない認識はあるか」「表象をもたないと概念とは言えないか」「客体化されない概念はあるか」等の点では、人によって異なる解釈が行われている(P342) と書いてあるが、この差が実は一番大事で、零辞はその微妙な差をうやむやにする力があるように感じる。客体を突き詰めるのは難しく、「純粋な客観があるのか」、「客観=他人の主観」とするのか、の対立に近い。
これは片方が間違っているかどうかでなく、認識モデルの違い。世界観全体の中でのバランスの問題であり、認識モデルだけ取り出して議論してもしょうがない。

 

 

◆認識の二重化
頭の中で観念的な対象を設定して、それを見るとき、

 仝充太こΔ砲い覆ら、観念世界とその中の対象物を見ている
 ⊆ら二重化して、観念世界の中に自分の分身が存在し、それが像が見ている

この両者はモデリングの違いであり、どちらが正しいのか証明はできないと感じる。もちろん色々な言語の時制等を理解するときに、△里良い説明ができるのは非常によく分かる。だからといって、△鉢,鮴擇蠡悗┐道箸辰討い覯椎柔は零でない。特に「この」という単語は、殆どを,悩僂爐茲Δ粉恭个あり、「この俺」という表現まで△噺世錣譴襪函¬な違和感を感じる。

 


◆関係意味論
個を主として関係を従とするのが西洋哲学とすれば、関係を主として、個を関係の束として捉えるのが東洋哲学の本質だと理解している。関係意味論は、関係を主としたい衝動をもちながらも、それを言語化(自己認識)できず、理論化が中途半端となっている。この部分は、主関係、従関係という分類を作り、もっと考察を進めるべきだと思っている。

 




言語比較とパラダイム

ビバ働き方改革!

平日にこれだけ早く帰ったのは久しぶり。月の残常時間が平均20H未満だった静岡時代が懐かしい。あの頃に自作スピーカーとか遊びすぎた。。

 

コンピューター言語比較。4年ぶりだね、ここまで戻ってきたのは。

久々に零から調べたら面白いサイトが多くなっている。コンピュータにまったく疎い人は、コンピューター言語は一つだと思っているだろうね。ちょっとでもかじると、逆にコンピューター言語が沢山ありすぎてびっくりすると思う。自然言語の方はバベルの塔という、この世の言語が複数になった神話があるし、この展覧会に行くべきか悩んでいるけど。

 

※自然言語とは人間が日常的に使っているすべての言語の総称。コンピューター言語と比較した場合、こう呼ばれる。

 

ぶっちゃけ個人的には、自然言語は成人になってからの学習コストが高いだけなんだと思ってます。5歳児ぐらいまでにマスターしないと、スゲーめんどい。もしこういう脳の可塑性の問題がなければ、とっくの昔に世界統一言語があるような・・・。

 

コンピューター言語の数が多い理由はこちらが一番分かりやすい。シンプルに言えば、ドライバーだってプラスやマイナス、星型とかの種類もあるし、プラスドライバーにだって眼鏡のネジ用の小さいのから、大きいのまで沢山種類がある。道具ってそういうもんだよ。ぐらいかな。世の中、ハサミだって左手用と右手用があるんだぜ! みたいな?

 

その上で、詳しい人ならばこのサイトの意見はかなり納得できると思う。「ですがRubyはあまりにも良く出来過ぎているため、小学生でも使えるサブマシンガンみたいな感じがして使ってる人が怖いです。」なんて言い得て妙。PHPのことは知らないけど、Perlは後からObject指向を入れたから汚い。自然言語で言えばピジン語に近いのでは。2000年当時は消去法でRubyにしたけど、まさかここまで人気がでるとはね。

 

言語の種類じゃなくて、もっと奥あるもの。

それをコンピュータ言語では「パラダイム」という。以前の投稿で取り上げたガウディ本の発売から10年。そろそろその先が知りたいと思って調べたけど、このサイトぐらいか。こちらは要点まとまっていて、大学院の授業をこれだけ公開してくれているのは素晴らしい。Egsionは面白い言語だけどパターンマッチングを拡張しただけで「新しいパラダイム」と言っていいの? 個人的には実行モデルすなわち分岐と繰り返しのやり方に独自性がないとダメだと思う。

 

新しいコンピューター言語が必要だと思って考え始めたけど、どうやら本当に必要なのは新しいパラダイムらしい。まじかよ、こういうのやめてほしい。新しいパラダイムの作り方なんて大学院でも習ってないし、あのガウディ本にも載ってないし、どうにかしてくれよ・・・ここら辺をサクっとできる人っているのかな? 

◆論理型    解を求めるのに公理と推論ルールを用いる点が特徴である    Prolog、OPS5
◆宣言型    解を求める方法ではなく、解を記述する    XSLT、SQL、Prolog

◆書き換えモデル     関数モデルや論理モデルで与えられた表現を変形し、意味の自明な表現を導く。
◆代数モデル     処理対象となるデータを集合として捉え、 集合に定義された演算により、新たな集合の生成や要素の特定を行う。

 

 

自然言語にもどって考える。自然言語ではパラダイムとは言わないが、英語等のSVOや日本語のSOVとか「語順」は結構大きな違い。対格と能格の違いも面白い。日本人にとっては能格言語って目からうろこだね。ただ、何か違う気がするな。ある種の状況においては、対格言語の方が正しいし、違う状況では能格言語の方が正しい。

 

‖析困走る

太郎が本を読む

この場合は、動作主体はどちらも太郎だから対格言語が正しい。

 

財布が落ちた

ぢ析困財布を落とした

こちらの場合は、両方とも物理的に落ちたのは財布であって太郎じゃないから、能格言語が正しい。

 

なんでこういう議論を言語学畑の人はしてないの? それとも僕の探し方が不十分? 言語学を死ぬ気でやった人ってどこかにいないかな?宗教哲学は魚川氏がいるし、本当に必要になったらメール書いてみよっかな。

 

いかん、流石にそろそろ寝なければ。調べながら書いていたらもうこんな時間。。ぶっちゃけ、「うん、そこまで行けば新しいパラダイムが必要なんだよ。新しいパラダイムの作り方? 俺も知らん。世の中に本当のパラダイムなんて、5個か6個ぐらいしかないのだがら、そんなもの教えれる人なんていない」の一言が欲しいだけなのだが、それをスパッと言い切れる人ってどこにいるのかなぁ。

 

お、今日、改めて色々と調べて、「少数総合的言語」のページは凄く興味深い。昔はこのページ自体なかったような。エスペラント語には失望したからなぁ。マヤ語には期待できるかも。もともとマヤのピラミッドから始まったパワースポット探訪だから、もしかして点と点が繋がった?!ホントかよ(笑

 

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[5/16]

 

ウォーフの本が届いた。文庫本なのに3ページずつしか読めない。。3ページ読んだら30分は寝てしまうなんて、20年ぶりぐらいの経験。当時、ベルクソンの本はそんなペースでしか読めなかった。経験値があがると、「理解できない自分がバカ」「難解にしか書けない著者がバカ」の区別ができるようになる。今一番お勧めなのがこちらに書いた木田元の本。けど、いくら木田元であっても『現代の哲学』になると分かりやすさが減る。著者自身のメインテーマになると客観性が弱くなって、自己の想いのほうが強くなる。かっちりとした哲学書でもその傾向が出るのは、ある意味で面白いのだが。

 

パワースポット系ではホピ族の第4の太陽の話は凄く有名。「世界は3回滅んだ」という説は「神々の指紋」の立場からすれば、すんなり納得。けど、まさか言語体系自体もここまでぶっとんでるとは。。

ホピ語にはわれわれの言う「時間」とか、過去、現在、未来とか、持続や継続とか、《略》 といったものを直接指すような語も文法的形態も構文や表現もない。《略》

それでいて、ホピ語では宇宙の全ての観察可能な現象を実用的、あるいは操作的な意味で正しく説明し、記述することができるのである。《略》

このようなホピ族の見方では、時間の概念が消失し、空間も変貌し、その結果、われわれのいわゆる直感、ないしは古典的なニュートン力学に基づいた均質的で同時的は、無時間的空間というようなものではもはやなくなるのである(P.15)

 

この時点であんぐり。過去形も未来形もない。でも正しく説明できる。オイオイ・・・・いかん瞼が重くなってきた。。

 

確かにトコトン突き詰めたら、最後はここにくる。以前にサイトに書いたように「唯心論的物理学の誕生」を発売当時に読めたのは大いなる幸運。この人こそが現代のガリレオ。100〜200年後には証明されると思う。その時までに人類が滅んでいなければ。どちらか二択しかない。そう断言できる本。今の常識である「時間と空間と意識のモデル」は不十分。だけど、文明は発達している。なぜかって、レベルの低い部分だけで回しているから。DNA操作と核操作は禁断の技術。両方持った文明は意識レベルを上げないと亡びる。以前にどっかの本で読んだけど、正しいと思う。

 

 

今の現代社会の世界モデル・言語体系と、ホピ・アステカ・マヤに代表される世界モデル・言語体系との中間地点を見極めて、ウォーフが真に望んだ「少数総合的言語」を作り上げ、それをコンピューター上に載せること。そんだけじゃん。僕がすることは。

 

ずっと先人がいないと思っていた。ちがう。ウォーフこそが先人。やっとわかった。彼の見果てぬ夢を引き継ぐのが僕の仕事。

 

物凄く簡単に言えば、「祈る」意味。それをどうモデリングするか。ここが山場なんだと感じる。

 

今の人工知能はワトソンだろうとペッパーだろうと「祈り」のモデリングから逃げてる。それが当たり前なんだけどね。現代社会では、祈る効果は「運を引き寄せる場合もある」ぐらい。この落し所はそんなには間違っていないとも思っていて、HHAIもこれでスルーしようとずっと思っていたけど、、、

 

そもそも現代の科学では祈りの効果を証明できない。けど、気づいたら祈ってることは多々ある。祈りの力は欲望と反比例。これが直感的な真実。エゴが零になれば祈りの力はMAXになる。祈りMAX=奇跡の発生であり、悟る=エゴが零であり、奇跡の発生こそが凡人にも分かる悟りの証明。けど、エゴが零になった時の想いは全て相手目線。すると、その相手の心にエゴがあればいくら尊い想いであっても現実化しない。これが極論。

 

 

やった事ある人は痛感すると思うけど、3P読んで、30分寝て、そんなの数回繰り返したらもう寝れない(笑 だから昔の写真を漁ってた。何が一番ショックだったって、このチェチェンイッツアのピラミッドはもう上に登れないこと。アメリカ?のデブなオバサンが転げおちて死んでしまって、それ以来禁止なったと現地で説明された・・・このピラミッドの上に登れるなら、必ず現地に再び行く。当時はオーブが撮れなかったけど、今ならかなり撮れると思っている。まあこれもエゴなんだけどね(笑

 




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