佐藤航陽 - 『お金2.0』

これが佐藤航陽の実力か。。びびった。

魚川さんのことは素直に認めれた。けど、ICTスタートアップの会社の方がコアに近い分だけ、エゴが邪魔する。40歳を超したら、どれだけ年下で尊敬できる人を見つけるか、だけなんだね。

 

数年前に田原総一郎が気合いれて日本のベンチャー企業をインタビューしてた。ホリエモン〜Gree、ドワンゴ、メルカリに続くベンチャー群の社長たち。その中で一番凄かったのが佐藤航陽。それ以来、ずっと気にしてたけど、ここまでとはね。。

 

佐藤さんと同じレベルの経験を重ねてここまでの結論に到達した人は日本に10人もいないだろう。それぐらいに凄い。精神面での新しい時代は魚川さんが作るけど、生の経済は佐藤さんが作る。

 

間違いない。

この前の坂爪真吾氏もそうだけど、、ほんと面白くなっているね。この3人の本を読めば、狭い世界で悩むのが超アホらしくなるよ。それだけのレベル。




山に登り、山で死ぬ。高さでなくルートで競う時代の危険さ

 

まさか会社でも聞かれるとは。それだけ栗城氏は有名だったのだろう。「死んじゃいましたよね」「え、ホント。あの栗城が?」とついつい仕事中の雑談時なのに、声のサイズが一回り大きくなってしまった。もしかして登山家としては一番有名なのかも。実績から野口氏や竹内氏の方がメジャーであって欲しいが。。。雑談している相手は感情理解力が高いから、「え、なんかありました?」と聞かれてしまった。

 

 

「栗城はねぇ、登山をガチでやってる人から見ると微妙な位置づけなんだよね」「え、そうんなんですか」

 なぜ微妙なのか説明するのは難しい。だから家に帰って探して、この記事を見つけたときは嬉しかった。

 

「登山をショービジネス化した」

といのは本当に素晴らしい一言要約。もちろんイモトもそうだけど、誰もイモトを登山家とは思わない。けど、栗城氏は登山家だから。無酸素登頂の意味をちゃんと調べれは、すぐに彼の謳い文句に「?」がつくことは分かるけど、登山に興味が無い人は調べないよね。もちろん00年代からの急激なICT機器の発展に合わせて、登山をダイレクトに届けたのは凄く価値がある。上の世代はこういうことに生理的拒否反応をする人も多いから。

 

別にショービジネス化が悪いことじゃないし、(山でゴミ捨てしないとかのルールさえ守れば)どんな人だって山に登っていいんだし、外野がとやかくいう話じゃない。それを分かっているからこそ登山界は基本的にスルーしてきた。その中で、あえて批判覚悟で踏み込んだ森山さんは素晴らしい。

 

やっと残雪期に富士山に登ったレベルの私ですが、ここからもう一歩考えたい。

 

 

「なぜ山に登るか? そこに山があるからだ

と言ったのは私も調べないと分からないけど、この台詞は凄く有名。けど、山に登ればそれだけで前人未到のチャレンジになった時代じゃない。だからこそ、時期とルートを選ぶ事で前人未到になる。けど、それ自体がかなりヤバイよね。わざわざ危険な道を選ぶのだから。歩道があるのにわざわざ車道の真ん中あるくようなもの。まだ速度で競う方が危険度は少ない。それはすなわち山岳レースになるけど。

 

 

「エベレストなんてイモトもなすびも登ったのに」と別の人から言われた。そりゃルート毎の難易度の違いなんて普通はわかんないよね。僕だってエレベストのルートの難易度の違いなんて調べないと分からない。けど、行けば体感で分かる。富士山だって西側は結構ハード(登山道無いレベル)。日本2位の北岳もバットレスはやばい。そのバットレスを横目に登る 大樺沢 →八本歯のコースは好きだけど。

 

 

人工の厳しさと、自然が作った厳しさは違う。

車道の真ん中を歩く事に意味はないけど、自然が作った岩壁を攻略するのには意味があると思う。けど、僕はその気持ちまでは無い。

 

酸素濃度

富士山ですら10人連れて行ったら3,4人は高山病になる。8合目から登れなくなる人も1,2名は出る。何度か後輩を連れて行って、ポイントが5,6合名の休憩タイミングだと分かった。けど、8000m級はこんなもんじゃない。そこを酸素ボンベ無しで行くのはありえない。ある意味、素もぐりに近い。

 

時期は違う。とことん拘る。


時期の難易度には興味零だけど、冬の晴天は別物。澄み切った空気感と突き抜ける見晴らしの良さ。自己の内面まで同じ透明感で満たされる感覚は何ものにも代え難いから。

 

 

 

本当の山の高さって何?

今は海面から測る。けど、地球の中心部から測る場合もある。その時、最高峰はエベレストでなくチンボラソ。そして、これまでの登山経験からも、麓からの高さが一番相応しい基準。そしたら問答無用でデナリ。日本なら駿河湾からの高さになる富士山。麓の定義も実は難しいけど、頂上から裸眼で見える範囲で一番低い場所かな、一応。

 

「周りに高い山がひとつもない」というのも結構大事。西日本には2000mを超す山はないけど、だからといって日本アルプスの2500mぐらいの山よりは四国最高峰の石鎚山とかの方が格が上だと思う。

 

登山が趣味の人の中でも、途中まで車で行く人もいれば、麓から登ろうとする人もいる。

個人的には「使える道具は使えばいいじゃん。いけるとこまで車やロープーウェイで行けばいい」という気分。もちろん歴史がある登山道は別。富士山の1合目の馬返しから3合目まで登って、その価値がよく分かったよ。

 

 

高い所からの見晴らしならば、登る必要ないじゃん

という意見もある。飛行機の窓からの眺め。確かに良い。けど、あれは窓が小さすぎる。TVを見るのと大して変わらん。そしてあくまで別空間だから、頂上の空気じゃない。じゃあヘリコプターで頂上に下ろしてもらったら?

 

ここら辺まで来ると結構迷う。値段が高いなら金額的に無理だけど、「1万円で頂上までひとっとび」とか言われたら??

 

結局、「何かに向かって困難を乗り越える経験」だけなんだろうね。それが上に向かって歩く登山になっているだけ。そういうシンプルな部分から、随分と遠くに来てしまった人の存在。

 

10年以上前かな、栗城氏がデナリに登るために色々と苦労重ねて、、、という文章を読んだ記憶がある。あの頃が一番、彼にとって充実していたのかも。スポンサーがついても、分かりやすい基準を求めるし、分かりやすい基準が減っている登山だからこそ、デナリの先で道が分かれるような気がしてる。

 

僕はなんといっても山野井さんを尊敬してます。生き方を含めて。あの人には今からでもいいから8000m峰制覇をして欲しい。けど山野井さんには簡単すぎるんだろうね。セブンサミット(7大陸最高峰)の価値が減っている今、山岳グランドスラムまで言われても何かが飽和状態になっている気もするから。

 




言語哲学の地平線 〜意志とはなにか〜

この本:『中動態の世界 〜意志と責任の考古学〜』國分功一郎著は久々にきた。昨年のウォーフと同じレベルの胸アツ。かつ一気に全部読むと消化不良になるのでとりあえず、半分で休息。頭のクールダウンのためにBlogUP。

 

言語学と哲学が交わる地平線にAIをもってくる事

それが次のブレイクスルーになる。

 

メンタルとは、言葉を使わない思考を自己がコントロールできなくなった時

これがいまのうちの達成地点。この仮説にどれだけ納得してくれるかだよね、一緒にやれるかどうかは…。

会社にいると、メンタル強い→超ポジティブ→ゴリラみたいな脳 ってな風潮も感じるけど(笑、そんなワケない。ポイントは如何に言葉にならない思考をコントロールできるかなんだよ。

 

 

そもそも「言葉を使わない思考」というものが存在するのか議論なんだけど。言葉を使わないものは全て感情に分類したいけど、ある種のイメージはある。けど、単なるイメージの羅列は思考ではない。イメージの羅列といえば、一番馴染みがあるのは「夢」だけど、あれは単なる脳の短期記憶→長期記憶に向けた情報整理というのが、現在の一番の仮説だったハズ。じゃあ、夢って思考? 逆に「無意味な羅列に無理やり意味を見出そうとするのが夢」という仮説の方が個人的にはスキ。

 

AIにおける生・死や、AIが感情もてるかとか、そんな色々考える前に、

 

まず、意志っすよ旦那

って気分。意志が自明すぎるのが現代社会の特徴で、そういや数年前にここら辺を考えてて、弁護士やってる兄貴にメールしたっけ。今探すと出てこないけど、もうちょっと法体系というか刑法も意志の問題に踏み込んだ方が良くない?と。

 

別人格が万引きと認定 刑事責任能力を限定的とする異例の判決

    窃盗罪に問われた30代女性の裁判で、極めて異例の司法判断が下された
     東京高裁が、解離性同一性障害により女性とは別人格が犯行に及んだと認定
     刑事責任能力を限定的とする判決は、同種事例に影響を与える可能性がある

 

結局、意志なんだよ。生死はいい。まだ真面目に取り扱わない方がいい。感情もいい。山場は意志なんだって。

 

先週も日曜にさくっと登ってきたけど、今週も行ってきます。この仮説の検証にもなるからね。

最近、こんなのばっかだけど、体感時間は加速しているからイイ感じ! そろそろ波来たかも(笑

 




Googleの嫌がらせ。。

ふざけんな!

前々から違和感あったけど、今回はほんとブチ切れ。P2S2R&Bで検索したら、なんでこうなっちゃうの??あまりに切れたから魚拓としてここに貼っておく。

 

あのさーどんなAIつかったらこんなレコメンドになるんだよ。点数ランキングを出してくれるのは素晴らしい。けど、勉強方法ってetc配下だろ。リンク階層構造ぐらい解析しろよ。「魅惑のブス」の中に音楽に関連する単語はどこまで入っているんだよ・・・。お前真面目に仕事してるか? Regret&Babyってさ、Blogからもってくるならもうちょっとマシな記事があるだろ。いっぺん、アルゴリズムを説明に来い。

 

 

Google I/O 2018で発表された10個のコト:AIがもう、凄すぎる

なんてテキトーに持ち上げるから勘違いするんだよ。Google Homeにお願いすればAIが電話して予約してくれるなんて、予約される店側になってみろよ。単語つなげただけのAIに電話されるなんて、イタ電よりちょいマシなレベル。って、もしかして決まった事しか言えないAIの方が電話先でごちゃごちゃ言う人間よりもストレスレスでやり取りできるかも。

 

 

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人間は、感情的に反応する場合、それ相応の理由がある。

眼の前で怒り狂う人を見ながら、じっとその理由を探す。

すると大体、相手はもっと怒るけど。

 

どうせビジネスなんて腕力は使えないし、できるMAXが首切るぐらいなら、そんなのは経済的な面だけ。とりあえず1年分の年収を貯金しておけば、何とかはなる。相手が感情的になればなるほど、こちらは冷静になること。それを無意識でできるのが、あの幼年時代の唯一の利点。普通は「仕事をしている大人の方が大変」という。それ、ほんと?ある種の場所では子供の方が大変なんだよ。そりゃ家のローンとか抱えているなら経済的な打撃はでかい。けどさ、いいじゃん。子供部屋の有無よりも家族の笑顔が増える方が本当は大事じゃないの? 「大きなお家が欲しい」「パパのメンタル的にローン抱えて仕事はキツイんだよ。大きなお家よりパパの笑顔の方が大事だよね」って腹割って話してみるだけで、ストレス耐性上がる。社会人になって経済面で独立して、そこで苦労して、やっと子供の世界の腕力よりもお金の方が怖いことを知るんだけどね。

 

 

僕はいつだってGoogleには愛憎半ば。それはしょうがない。根本的に狙っている究極目標が同じだから。そのレベルでは自らの感情をコントロールできているつもりだけど、ウチの音楽サイトにまでGoogleが出来損ないのAIでちょっかい出してくると、コントロールが聞かなくなる。やっと10分たって落ち着いてきた。。ふぅ。

 

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大学院卒業時にGoogleに入社できなかったのはいい。当時、日本法人は採用なんてしてなかった。理想は米本社かもしれないけど、そのためにはアメリカの大学卒業。指導教官は見込みがある学生はスタンフォードに紹介してやると言ってたけどさ。どうせ教授の恩師のマッカーシーの弟子でしょ。AIを論理的に作るなんて当時から失敗してたのに、それを認めてない人の下で研究するワケ無い。

 

過去にIFは無いけども、あのまま親がアメリカで働いていたら、父親の先輩のお子さんのようにスタンフォード卒業して、同級生達でベンチャー立ち上げてGoogleに買収されて、そのままGoogleで働く道もあったのかもしれない。そこまでデキルとも思えないけど、アメリカで過ごす幼年時代を夢想するとどちらが良かったのか分からない。60年代前半にテキサスのど田舎で1年間。日本人が物凄く珍しく、交換留学生で日本人の女子高校生が来た事自体が地元の新聞の記事になったという。その当時の経験から、「わたしはこの国で子供をマイノリティーとして育てなくない」という母親の一言で日本に帰国が決まった。

 

まったくかすりもしないなら考えないのに、色々チャンスがあったからこそ、考えちゃうことはある。

 

 2005年頃かな、Googleの日本法人が採用開始。けど、確かTOEICが700以上。当時、僕はやっと600。。もうちょっと新人時代に真面目に英語をやっておくべきだったね。2008年にはもうGoogleに行きたいとは思わなくなった。それぐらいにはやりたい方向で積み重なったから。それでもまだ怒るというのは、、弱さか。ちくしょう。色々とまだ残ってる。組織で動くという意味もそう。なによりも3月に読んだ本が通奏低音のように響いてる。

 

『スタートアップとは君が世界を変えれると君自身が説得できた人達の集まりだ』

3人でいいんだよ。俺を入れて3人で。それがいつまで経ってもできない。だからこんなしょーもないことでこんなに怒っちゃうんだ。それを認めないと。頭では分かってる。けど、そのレベル。

 

 

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まだGoogleが無い時代、「リンクはTOPページのみ」というルールを掲げるサイトも多かった。検索エンジンの機能向上とともにウヤムヤになったけど。公開している限り、どこにどうリンクを張られても別にそれは文句を言う話じゃない。けど、このサイトはこうです、って概要っぽく勝手にまとめられると、ちょっとムカつく。純粋にウチのサイトのページビューが基準ならまだ分かる。「勉強方法」は確かにマッチ棒問題を載せてるからアクセス多いのかも。「魅惑のブス」もぶっ飛んだ名著を紹介してる。けど、Regret&Babyが検索で多いなんて有りえんだろ。

 

中途半端なAIはやめてくれ。

純粋に人を傷つける。

 

まるでデキの悪いAI搭載した自動運転車に公道で轢かれた気分だよ。え、言いすぎ? 傷つくのオカシイ?まあしょうがない。Googleとはそういう関係だから。最初から完璧なんてありえないからこそ変更権限は渡すべき。シンプルに言えばこれだけ。Googleはそれがない。それがムカつく。他山の石とせねば。前回もちょっとあったけど、こちらもファイル名変えて対応できた。今回はそれができない。。

 

 

Googleなんてほっとけばいい。100年たってもウチのサイトの自動翻訳なんてできないから。確かに音声アシストの類似音声から単語判定は素晴らしい。3単語前までは解析しないと出来ないレベル。アルゴリズムは70年代から進歩ないけど、これだけの的確さとスピードは純粋に賞賛できる。けど、意味の意味から逃げて大量文章の統計データだけじゃ、これ以上、自動翻訳は進歩しないよ。それはおたくが一番知ってるんじゃないの。意味の意味を突き詰める恐ろしさ。言語をつかって言語を分析する事自体、「木製のストーブで薪を燃やす」というレベルだから。

 

とりあえず、週末は山と巨石に遊びに行ってきます。

Google本社の人もたまにはセドナにでも行ってきたら?人間は興味の範囲の30%ぐらいしから理論化できないし、プログラムで表現できるのは更にその中の30%だから。そしたら最初の範囲にはセドナも入るのが正しい。あそこら辺の岩(モニュメントバレー)が太古の世界樹の化石という説が載ってるこの前のムーは面白かった。一読に値する。グランゾート世代としては胸アツ。アメリカの代表的な巨石があそこなら、日本はこっちなので。

 




答えを求めて残雪期の富士山へ

雪と氷の世界の先にある静けさと、富士大神の正体


冬の富士山は世界有数の難易度という。逆に夏の富士山は楽で有名。今までずっと澄み切った富士山にトライすべく経験を重ねてきたけど、今回5月2日に登って来てレベル感が分かった。残念なことに5/5に同じ登山口から登った人は滑落して死亡。富士山登山については玉石混合の情報がネットに溢れているから、本当のところで何が大切なのか、それを明確にしたい

 

  1. なだらかで岩場も少ない登山道。夏は高山病さえクリアすれば困難なポイントは少ない
  2. 冬の富士山が困難なのは強風。独立峰で海岸から一気に3700mまであがる地形から風が強くなる。9月末の時点で吹き飛ばされるレベル
  3. どんな山だろうと、アイスバーンの上に20cm雪が積もったら、アイゼンしていても滑る


シンプルに言えばこれだけ。夏の富士山で失敗するのが1の高山病。10人中4人くらいは頭痛で断念。これまでの10回の登山の経験上、大事なのは5,6合目の速度。8合目で頭が痛くなったら酸素缶使うぐらいじゃ登頂はホボ無理。いかに5,6合目を休憩をコマメにするか。極論、7分登って3分休憩ぐらいでいい。2は秋・冬の富士山を越す雲の早さを見れば一目瞭然。北条早雲の名前は富士山の雲が早く流れることから命名されたという。静岡に住んでいるとき秋に富士山5合目ハイキングに行ったけど、あまりの暴風で中腹にある宝永山山頂に行くのに匍匐前進だったから。風で飛ばされても両側はなだらかな傾斜だから怪我は無い。逆にアトラクションとして最高。下手に富士急ハイランドに行くよりもよっぽど楽しい。家に帰ってからも耳や鼻から富士山特有の黒い砂が出てきた。それぐらいのレベルの風。あの風で氷は有りえん。スケート場をノーマルタイヤのバイクで走るレベル。

 

そして3。雪だけだったり氷だけならアイゼンで大丈夫だけど、3だったらどんな山でも絶対に滑る。僕が下山してから麓は雨だったので5合目以上は雪だったのだろう。行った時点で完全にアイスバーンだったから、そこから20cmぐらい積もったんだろうね。そういうときは登頂を諦めて帰らないと。春の嵐が終わった4月中旬以降、GW前にスカイラインが開通して5合目まで車に行けるようになるので、雪山経験がある人にとってこの時期の富士山はそこまで大変じゃない。実際に登山中に15人ぐらいと会ったし、頂上の剣が峰で珈琲&ラーメン作っている間に8人ぐらいと入れ替わりで雑談したから。流石に明け方、シュラフマットつけて降りてくる人が2名いたのにはびっくり。確かにこの時期の富士山にテントで一泊するのはありかも。

 

 

 

ここまでが基本的な登山の話。

ここからがパワースポットとしての富士山。

 

愛鷹山と足柄山に登ったので、4月に足和田山に行ってきました。富士の三足とも言われるけど、足和田山はかなりマイナー。真面目にこの3つを登った人なんて100人もいないのでは? けど、wikipediaの記事を見て、この3つには直感でMUSTを感じた。足和田山の頂上の波動の高さは結構すごい。位山レベルだね。

 

富士山の浅間神社で一番古いのは山宮浅間宮。ここには祭神が富士大神→浅間大神→コノハナサクヤヒメと変遷したことが書いてる。富士山にコノハナサクヤヒメを結びつけたのは江戸時代からと結論が出ているのだから、問題は富士大神の真の姿。御姉様に仁義を切るために大室山雲見浅間神社に前々日から行った。登山だけが趣味の人はここら辺は無関心だし、興味有る人はこの時期の富士山には流石に登らない。両方やらないと見えてこない世界がある。

 

 

興味深かったのが雲見浅間神社。思った以上の急な山道。一番上についたらカップルと年配の男性が1人。雑談してたら娘さんが彼氏を地元に連れてきて、お父さんが張り切って案内していることが分かった。近くで旅行関係の仕事をしているらしく、先日、伊豆西海岸のパワースポットとして安室奈美恵を此処につれて来たといっていた。さすがセドナに行くだけのことはあるね。確かにパワースポットとしての富士山を語る上で雲見浅間神社を知らなければ純粋に問題外だから。

 

雲見浅間神社の山の頂上から富士山が見えた。数年前に行ったときは富士山が見えなかったけど、今回は山宮浅間神社の遥拝所からも富士山が綺麗に見れた。そういうことの積み重ね。家で座禅で心を整流できない器の人間は、これぐらいをしないと見えない世界がある。そして、どれだけバカと言われてもいいから、最初の疑問を大切にすること。初心者の素直な疑問こそが実は一番大切。

 

浅間山は他にちゃんとあるじゃん。なんで富士山の神社は浅間神社なの?それも8合目以上は県境未定で全てこの神社の土地というじゃん。浅間神社は浅間山、富士山は富士神社のほうが良くない?

誰だって最初に聞いた時は驚くし、こう思うと思うよ

 

 

結論として、浅間という単語は噴火・溶岩を意味するんだと。富士山の噴火で麓が莫大な被害をこうむったからこそ浅間神社とした。じゃあ、富士大神は何かというと、今の神体系がやってくる前の地元の神さまでしょう。そのご神体はこの龍だよ。まさか笠雲の中がこんな状態だとはね。「笠雲は雨」とよく言われるけど、笠雲につつまれた富士山は雲の中から見ると霧だと思っていた。まさかドームとは。。今回は見事に白いドームにつつまれて不思議な空間。その先端に泳ぐ龍雲の見事さ。以前の2010年に登った時も龍雲と出会った。あの頃は、この価値がまったく分かってなかったね、俺は。



一歩前に進めると、ひとつ扉が開く。道を究めるにはこの繰り返ししかない。

 

情報としては登る前からあるハズなのに、その情報にアクセスできるのは何故か登ったあと。最初に家でネットを調べてるときはなぜか見つからない。下山後に改めててネットで調べて面白いサイトを見つけた。このサイトが日本でTOPでしょう。ここまで古文書等をちゃんと引用しているのはそういう専攻だったんじゃないかな。そのレベル。特に興味深い点は下記。

  • 頂上の火口の底は標高で言えば8合目。火口の底に浅間大神がいる。だから8合目以上が神聖な場所
  • 徳川幕府が8合目以上を富士宮の浅間神社の社有地と認めた
  • 干支で庚申の年は富士山のご縁。もともと伝説では琵琶湖と富士山は考霊天皇5年の庚申の年に同時に1日で出来たという伝説があるから。ちなみに次は2040。
  • 登山と下山で登山口を変えるのは「山を裂く」といわれ、良いものとはされなかった。
  • 表富士は静岡側。山梨側もそれは認めていた。江戸時代になり江戸に近い山梨県側の登山口が栄えた
  • 北条早雲や武田信虎も登った。昭和天皇は皇太子時代に登頂。8合目まで馬。秩父宮も皇太子徳仁も登頂。
  • 1000円札や昔の5000円札の富士山は本栖湖からの眺め
  • 末代、角行、村上光清、食行身禄が富士山登山としては大切。さすがに役行者は伝説レベルか。
  • 山頂にコノシロ池がある。。雪解けから7月中旬までしか見えないらしい。。

 

真面目に登山をしてれば誰でもびっくりする。それが日本6位で山脈名にまでなっている赤石岳の中腹に大聖寺平という御岳の遥拝所があること。御岳は日本14位なのに赤石岳の中腹から御岳に祈りを捧げるってことは、御岳のほうが上。結局、単純な標高が山の格を決めるわけではない。古くからの価値観では火山の方が上。御岳は火山としては日本2位だから。そして御岳がこれだけ霊山扱いなのは、日本で一番高い湖があるのも理由。けど、まさか富士山の頂上に池があるとはね。。今回で11回目だけど、一回も見た事が無い。次に行くとしたら、この池のためだね。

 




シンギュラリティ? そろそろ足元見つめようよ

 

2030年展望と改革タスクフォースの委員を務める新井紀子(国立情報学研究所社会共有知研究センター長で、受験ロボット「東ロボくん」の開発者)は、非現実的な展望だとして「シンギュラリティが来るかもしれない、というのは、現状では『土星に生命がいるかもしれない』とあまり変わらない」「土星に土星人がいるかもしれない、ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか」などと批判している。

 

こちらに載っていたけど(ついでに画像も借りたけど)、ほんとこの通り。

 

 

というよりも、新井先生もこういう発言をメディアでもちゃんとしてよ、、と痛感。せっかく科研費の追い風が来ているのだから、自ら逆風をおこしたくないのもわかるけど、、、人工知能はいつだって波が激しくて、社会から大きすぎる期待&批判を交互にうけてきたわけじゃん。そろそろ過去に学ぼうよ。

 

巷では未だにシンギュラリティの熱が冷めてないけど、そろそろ振り返って内省したほうがいいのでは。シンギュラリティ説の誇大妄想さについては脳科学の専門家の本を読んでいるときも書いてあった。どの本か正確には覚えてないから引用がアヤフヤだけど、いくら計算速度が指数関数的に伸びても、専門分野がブレイクスルーする(論文数が指数関数的に伸びる)のは新しい理論が呼び水になってから。今、そんな理論が出来たわけじゃない。計算機の速度向上によって解析スピードがあがって想定外の関連性が見つかる可能性はゼロではないけど、その可能性を最初から組み込んでおくのは夢物語と変わらない みたいな解説で当時(2年前かな)、すんなり腹落ちした。

 

 

結局、画像処理以外には本質的に何も進んでいないのは以前に書いた東大ロボットの断念の時点で明白じゃん。何度も言うように、Deep Learningといってもニューロコンピューティングの一種であり、70年代からどうやってニューロレイヤー上にロジカル層を創発させるかが問題だったじゃん。それが解決したならば、俺もシンギュラリティーを50%信じる。いまは冷静に見て10%。土星の生命と言い切った新井先生と同じスタンス。ちなみにこの宇宙に人類以外の知的生命体の可能性は90%信じるし、この地球は宇宙の端の銀河系の端だから人類よりも知的な生命体はいて、太陽系はインドネシアのオラウータン保護区のような扱いだと思っているけど、ここら辺は70%ぐらい。

 

今、大学で人工知能を学んでいる若者は、何を感じているのだろうね。

AI暗黒の90年代に過ごした僕よりも、もしかして不幸なのかも。

 

ムーアの法則は、根本的に計算方法が分かっているときに意味があるのであり、そもそもDeep Learningはニューロンのトレーニング方法であり、どんな対象をトレーニングさせるかの方が大切。もっと簡単に言えば、高性能な金槌やドリルみたいなもので、幾らそれが手に入ったからといって、住みやすい家が達成できるわけでもない。200階建てのマンションが作れるようになるわけでもない。

 

その上で、このPezyコンピューティングはポストムーア時代の興味深いハードだと思っていたけど、ここまで中身が無いならば、また一段とシンギュラリティーの確度は下がったね。まあ、そういうもんだよ。僕らはこの文章をかみ締めてから再出発なのだと。

 

ホピ語では、「いなずま、波、焔、流星、煙を出す事、鼓動」は動詞である。常に短い期間しか継続しないできごとは動詞としか扱われないのである。「雲」や「嵐」は名詞として必要な継続のもっとも短い限界である。

《略》

バンクーバー島のヌートカ族の言語では、すべての語が動詞のように思える。《略》家というできごとをあらわす語は語尾によって、長らく存在する家、一時的な家、未来の家、かつて家であったもの、家になりそうだったものなどのことを表すのである。(P.159)

 

これがAIの再出発点なんだよ。ここを無視したから思考言語・中間言語が失敗したのだと。高校3年の頃、京都に行って霊長類研究するか、仙台に行って工学部でAIをテーマにするか悩んだけど、もし同じ課題意識から霊長類研究に取り組んでいる人がいるならば、ぜひ「サルは自殺するか」を突き詰めてほしいと思ってる。

 




サイコパスの中間状態。弄るのが無性に好きな人達

 

■映画『凶悪』残虐性は「人間が持つ普遍的な暗部」と描く。だが最新科学は先天的障害であるとする

なんで日曜日にこんなダークなテーマの文章を4時間ぐらいかけて全部読んでいるのか謎だけど、この一連の記事は誰よりも本質に迫っていると思う。猟奇的事件を起す人間について反社会的とサイコパスに分類している点から素晴らしい。

 

以前に四倉さんの記事は読んでいたハズなのに、単なる一つの「へえ」ぐらいの知識になっていた。。今回は実際の殺人事件と絡めて、かつ「サイコパス」と「ソシオパス:反社会性人格障害」を明確に区別しているから全部読んでしまった。こちらの記事も区別しているけど、その区別が中途半端。まだ脳科学的に証明されているわけじゃないけど、科学であっても最初は個人の直感によって先に進むわけで、この人の直感は殆ど信じる。

 

特にサイコパスの快感を「逆転快」と命名しているところからセンスを感じる。

他者の表情から感情を読み取れないことは、サイコパスだけでなく、反社会性人格障害や自閉症の人にも見られる症状ですので注意してください。それらはサイコパスとは全く別の障害です。 

と追記しているのも納得。相手の苦痛の表情が快感になるのは自閉症ではありえない。反社会性人格障害の場合、社会を恨んでいる理由から一部の社会階層の人の苦痛を快感に感じる面はあるけれど、サイコパスはそこにタガがなく純粋に脳の疾患という点は正しいと思う

 

 

多くの自閉症児は、反撃することをしないので、いじめの格好の標的になってしまい、激しいいじめに会う。サイコパスは弱いものを見つけ、いじめを陰湿に、手加減をしないで行う側である。自閉症者はいじめをされる側である。サイコパスと自閉症者は真逆の位置になる。

こちらに端的にまとめている点も素晴らしい。これら3者を分かりやすく表でまとめているのも素晴らしい。

 

扁桃体の機能不全が原因であるが、機能不全であるとなぜ邪悪になり暴力的になるのか?K.A.キール、J.ブレア、M.ストーンはまだ回答に至っていないようなので、私が考えた。おそらく、極限の恐怖の表情や叫び声で機能不全の扁桃体がわずかに反応するのではないかと思われる。このわずかな扁桃体の反応が麻薬のように快感として作用するのではないかと私は考える。麻薬の快感が切れた時に再び快感を求めるように、サイコパスは邪悪な行為を繰り返す。麻薬患者が麻薬以外に関心がなくなるのと同じように、サイコパスは邪悪な行為が最大の関心事になる。機能不全の扁桃体のわずかな反応にすべてを注ぎ込む。扁桃体が反応するまで、より刺激的な拷問や暴力へとエスカレートする。相手が苦しみ悶えれば悶えるほど、恐怖で悲鳴を上げれば上げるほど、自分が暴力をふるって興奮すればするほど、扁桃体が反応し、サイコパスは生きている感覚を束の間だが少しだけ取り戻す。サイコパスの邪悪な行為は、病気の症状から、少しでも逃れようというあがきでもある。

 

この文章のすごさ。書いてる人は精神病系の専門家ではなく一般的なビジネスマンのようだけど、この分析は素晴らしい。真実を捕まえたオーラがある。映画『凶悪』が原作から改悪になった点を指摘し、代わりに「サイコパス」と「反社会性人格障害」の対決とする案も素晴らしい。サイコパスが周囲を巻き込み、周囲を擬似サイコパスにしていく分析も全て正しいと思う。全部読んで、かなり落ち込んでしまったけど・・・、これが人間の事実なんだと。

 

唯一気になったのが、「サイコパスは完全な先天性であり、半分程度サイコパスの人はいない。擬似サイコパスに陥っている人も邪悪なリーダーの影響を抜けたら戻る」という部分。扁桃体の機能不全ならば途中状態もあると思う。相手の血を見るのは嫌でもちょっと困った顔が快感になる人って身近にそこそこいるよ。本人はツッコミ役と自認してても単なる嫌がらせのレベルまで行く人。そもそもお笑いコンビにおけるツッコミは、ボケの面白さをより引っ張り出す役柄なのに、単に弄るだけ。そういう人達も生まれつき快感神経がオカシイという解説が一番腹落ちできる。

 

 

それにしても酒鬼薔薇聖斗の絵はエグかった。。見てるだけで正常な人の精神をヤバくする力がある。全く薦めたくないけど一応リンクは張っておく。。

 

■なぜ、「邪悪な性格」の持ち主は成功しやすいのか

の記事を最後に紹介。あんまり同意してないけどね。サイコパスが戦争に狂喜するように、企業もビジネスにおいて競争をしているから、どうしてもサイコパスがもぐりこむ余地がある。組織の存在理由からみて不可避であり、町内会とかの非競争的組織と違う。 という単純な事実を書いたほうがいいのでは?

「横浜映画サークル」の理論をベースにすれば、「サイコパスは相手の怯えを先天的に見抜く力があるから、出世する」でもいいような。 そういう意味ではHBRでもこのレベル?と思ってしまう面もあるけど。横浜映画サークルの作成中の記事は凄く楽しみ!

 

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そういえば名古屋大学女子学生殺人事件も犯人はサイコパスだけど、事件現場は僕の地元なんだよね。帰省したときに事件が起こったマンションまで聞いてゲンナリした。こういうのを見ると、発生学的に一定の割合でこういう脳の障害をもった人は生まれてくるワケで、犯人の家族もずっと前から「うちの子はヤバイんじゃないか」と思っていたという記事を当時見た記憶がある。家族のその後については知らないけど、流石に色々と影響を受けるだろう。サイコパスという病名と原因がもっと広まって、確実に判定・治療できる世の中になってほしい。無期懲役にする前に、もっと科学的検査をやるべき。そんな面でも「横浜映画サークル」に完全同意です。

 

 

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なぜ「横浜映画サークル」のサイトに辿りついたのか今日の午前なのに記憶の彼方(これも重い記事からくる一時的記憶亡失?)だけど、その30分ぐらい前にワイン投資を読んでいたんだ。その中でもこちらの記事が凄く良かった。

 

そもそも投資や資産運用に限らず、人間の日常生活というのは本来は地味なものなのです。あるいは地味な中に、本質的な価値がある。そのことを認めないかぎりは、真面目な人ほど”意識高い系”の病にかかる危険性がある。それを詐欺師は巧みに利用するのです。

現代社会は、“普通”であることの価値を非常に低く見がちです。でも、普通であることは、とても価値あることです。投資や資産運用も同じではないでしょうか。普通の投資でいいんですよ。リターンだって普通でいい。個性は人生の中で発揮するものであって、投資なんかで奇をてらっても意味がありません。人と違う投資手法に魅力を感じたり、そういったことに関心を持つ自分を特別だと思うのは、しょせんは“意識高い系”の病です。そもそも投資などは、しなくて済むならそれに越したことはないものなのですから。

 

サイコパスとワイン投資を一つの文章の中に書いていいのか謎だけど、ついつい太字にしてしまったところは、妙にリンクすると思う。快感というか、「幸せ」を感じれるかどうか。それは本当に先天的に完全に決まるのだろうか? サイコパスは本当に苦痛の表情にしか幸せを感じられないのだろうか。僕らが脳内快感物質の奴隷であり、そこから逃げれないのだとすれば、人生が終わって残るのは空しさだけになるのだけど。

 




若冲の守破"離" − 石峯寺/石峰寺の石仏群

[2016.6.4]
関西地方に一度も住んだことがなくても、京都観光は8回目。これだけ通った観光地は京都だけ。金閣寺・清水寺、嵐山といった有名所、枯山水のための龍安寺・南禅寺、半跏思惟像のための広隆寺、お茶と日本精神のための高山寺。今回は有名すぎて後回しにしていた東寺、伏見稲荷に寄りつつも、一番のメインは若冲の最期の寺として有名な石峯寺/石峰寺。正式名称が常用漢字じゃないと、Web検索時代には辛いね。Wikiは正式漢字で、お寺の正式サイトは峰だから。

TV番組で若冲特集を見て以来、いつか石峯寺に行こうと思っていた。さすが黄檗宗。細部にいたるまで中国的な建築デザイン。若冲自体が伝統的な日本画からはみ出ているから、個人的にはマッチしていると感じる。この門も手すりの卍も良い。

石峰寺には晩年の有名な絵があるけど、一番の見所は間違いなく石仏群。現在は写真禁止なので、正式サイトか禁止前に撮影された写真を見てもらうしかない。裏山としては想像以上に広いし、五百羅漢というには狭い。仏像のデザインとも交じり合って凄く不思議な空間になっている。

ある線を超せる人は、普通の人には無い業を抱えている。
 画家もそう。次に生まれ変わっても同じく画家になるぐらいの業。
 殆どの著名な画家の絵を見ていると、来世も画家になると思わせる業を感じる。
 けど、この石仏群を見ていると、「若冲は生まれ変わったら次は画家を選ばないだろう」と感じた。
 それが、若冲の守破


この事実を体感できたのが一番の収穫でした。

結局、これだけ若冲を追っかけても、彼の心の奥にある狂気の源は分からなかった。あそこまでの禁欲生活をしないとコントロールできないものなのに。その狂気の片鱗はこの先でも見つからないかもしれない。 けど、この石仏の笑顔は、そいういう拘り方を溶かす力がある。この表情こそが若冲の到達地点ならば、来世は画家になる必要がない。この体感は、若冲を突き詰めた人が行けば自然に感じると思うよ。


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 守破離という言葉は有名になっているけど、この言葉が生まれた由来についてネットに情報が無い。だから
こんな解説になる。大量に読んできた本の記憶だから原典を明示できないけど、もともとは古代中国の弓の名人の話。独自の流派を立てるのは"破"であって、"離"ではない。本当の離は、その存在からもFly Awayすること。

 細部まで覚えているわけではないが、その名人は弓を極めて、一本の矢で複数の鳥を打ち落とすようになっただけでなく、最後は矢がなくても念だけで射落とせるようになった。そして、最期は弓という存在も射落とすという行為も忘れて死んで行った。これこそが真の離。この由来を「超能力なんて有りえない。最期はボケただけだろ」という人とは同じ空気を吸えないね(笑。 少なくとも、離が自己流派という浅い解釈だけは辞めたほうがいい。この石峰寺にくれば真の離が体感できる。京都に行ってよかった。


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[2018.4.21]

守破離の原典をやっと見つけた。僕は他の人が紹介していた原文を見たけど、中島敦が小説化しているとはね。記憶にある内容よりもビビットで読んでいて純粋に面白い。

 

紀昌の家にび入ろうとしたところ、に足をけた途端に一道の殺気が森閑とした家の中からり出てまともにを打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来(じらい)、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方はけてり道をし、い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。 

原典にこの部分があったら絶対に記憶の片隅にある。だからこそ、これが中島敦独自の肉付けなんだね。いいじゃん! これまで『山月記』しか知らなかったけど、才能ある作家だとしみじみ思う。最後のくだりも感動した。この文章が皆に読まれれば、巷に広まった守破離の間違った解釈も無くなるだろう。国語の教科書は『山月記』でなくこの『名人伝』を収録すべきでは?と思うほど。




「意識の形而上学」と成長実感。そして「やれたかも委員会」

五年ぶりにこの本を読んでやっと全部理解できたと思う。逆に五年前は惹かれていても、ほとんど理解はできてなかったのだろう。だから凄く久しぶりに成長感がある。

 

子供の成長は物理的だからわかりやすい。身長が伸びる、歩けるようになる。誰でも分かるし、客観的に計測できる。けど、この指標は中学生ぐらいまで?もちろんその後も身長伸びる人もいるが、本人以外にはそんなに大きな話題でもない。

内面の成長も子供の頃は分かりやすい。まずは言葉をしゃべれるようになること。言葉でコミュニケーションできるようになるのはやはり革命的。こちらの意図を理解するたけでなく、自身の意図を伝えれるようになる。それは魔の三歳児みたいに面倒なこともあるけど、本人にとっては大きいだろう。それとトイレコントロール。これは意志と生理的欲求の兼ね合いとして大きな内面的進歩であるし、周囲にとっても下の世話から解放される大きなチャンス。この前、兄貴の子供達3人がちょうどここら辺の前後だったので非常に見ていて考える部分が大きかった。

 

 

 問題はこの先の成長。単にスポーツや勉強の成績を指針にするとおかしくなる。けどそれ以外の汎用性・有用性をもつ指針も難しい。本人の中での指針もある。本当は「本気で打ち込めることを見つける」だけど、見つけても勉強に費やす時間が減って親から文句言われる。子供が自発的に勉強に打ち込むなんてのはレアだよね。

 

社会人になったあとの成長もそう。年収の増加や出世で測る?それも寂しい。けど、若い頃に学業で測るぐらいの有用性があるのも確か。内面的には、うーん、結局は自分の子供の成長にリンクさせる面が大きいのかもね。親としての態度、子供に真に伝わった事からも、子供の成長に投影するのはそんなには間違ってないともおもう。

 

 

ここまで考えた上で本題にもどる。

五年経っても読み返しくなる本。そこから明確な理解の差を感じれるのは、一つの幸せなんだと。単なるハウツー本にはここまでの深さはない。内容が薄い本なんてもっとない。何よりも最初の時点で「分からないけど魅力を感じる」ことの難しさ。

 

今までここに該当するのは、ベルクソンのあの本ぐらいだった。もちろん他の哲学書も分からない本は多いけど、五年経っても読み返したくなる魅力は感じなかった。その魅力を井筒俊彦には感じてるんだね。当たり前か。そして、やっと胸を張って言えるようになった。この本を心底理解したと。

 

心底の理解とは行動ではない。行動を促す本ではないから。もちろん行動を促すハウツー本もあるし、それはそれで役に立つ。読み返すと出来てない部分にショックを受けることもある。けど、こういう思考系の本は、完全理解=どれだけでも分かりやすく説明できること、だと思ってる。だから今度書きますね。

 

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なぜだか謎だけど、井筒俊彦はいつだって正反対の場所に繋がる。5年前もそう

平安朝における「眺め」とは、折口信夫によれば、春の長雨期の男女間のもの忌につながる淡い性欲気分でのもの思いだという。たしかに例の伊勢物語の「起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ」や、古今集の小野小町の「花の色はううつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」などの「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺洩していることはいなめない。「意識と本質 精神的東洋を索めて」 井筒俊彦著 P54

 

こんなこと書いちゃダメなんだよ。ちょと小頭が良い真面目だけがとりえの内気な男の子のパンツを引きずり下ろすぐらいの乱暴さ。

 

そして今日は「やれたかも委員会」かよ。。。話題になっているのは知ってたけど、今読みました。なんなんだ、この親近感

 

若い頃を振り返って後悔をしてる。そこに漂う濃厚な90年代感

それが重低音のようにうちらの心に訴えかける。無性に自身の記憶が呼び起こされて、爆笑の先にある何かを連れてくる。寝起きに色々と考えてたら朝9時。自家製珈琲のんで研究開始。チューリングとチャーチの間に攻めて行ってそのままんま敗退。。しょうがなくBlogUP。昼にラーメン食ってもMP回復しないからAmazonアンリミティッドでこの本を見つける。

 

全然、井筒と関係ない?、、いやいや違うんだよ。この漫画の良さは表紙の月満子氏の冷静な突っ込みと塾長の能島明の最後のコメント。味がある。だからこそ、「この世に完全な片想いがあるか」にスタンスをはっきりとした本サイトとしても明言したい。

 

30歳を過ぎて、ふっと気づいた「やれたかも」は成長の証

これこそが本当の真実では。当時の次の朝に思った「昨日はやれたかも」は違う。そこでもっとアクティブに攻めても敗北が酷くなるだけ。もし、攻めて上手くいくならその時に君の本能が感じるし、本能が感じれば自然と攻めているから。あの場で引いたのは本能がそう感じたからであり、それは間違いない。

 

けど、30過ぎて気づいた「やれたかも」は別の攻め方(アプローチ)に気づいた証拠。

もちろんそれはもっと数日前の布石だったかもしれないし、あの時の意外性に満ちた攻撃(行動や言葉)かもしれないけど、難攻不落な城がありえないように、どれたけ我欲を抜いても「あの時やれたかも」と思うのはそれだけお互いに心の震えがあったというシンプルな事実。心の交流と体の交流は常にテンポが同じなワケではない。こんな部分まで30歳を過ぎると気づくようになるし、そこまで気づいた上での「やれたかも」は人間成長の証なんだと。

 

30代のときは20代のやれたかもを凄く考えていた。けど、20代のときに10代のやれたかもを凄く考えることは無い。そもそも10代にそんなやれたかも、なんてない。そして、30代のやれたかも40になって考えるかと言われたら、、、それすらも薄くなるのかもね。最近、そんな気がしてる。

 

井筒俊彦はさすがにオススメしないけど、こちらの漫画は誰でもOK。できれば30歳以上。興味出た人はこちらで途中まで読めるし、4月からTVドラマにもなるみたいだしね。それにしても、委員会のメンバーって男2名はいつも「やれた」だし、女性陣の月満子氏は「やれたとは言えない」だし、いつも多数決で勝たせてあげてるけど、女史のコメントはグサっとくるね。逆に女性が登壇者のときは「やれた」って、ちょっと同性に甘くないか(笑 まあそこも含めて世の中の真実なんだろうけど。

 

 




流浪の敵王子:シャアと、精神の底にいるカミュウ


ガンダムORIGINをvol4まで観ました。やっとガンダムについて自分の中に整理できた。突き詰めるとシャアの魅力に尽きる。「流転の王子」を骨格としたストーリーはギリシャ神話を筆頭に数多い。けど、敵の王子が流転するという構成は珍しい。ジオン公国なのに支配しているのはザビ家。なぜザビ公国じゃないのか、初心者が素直に思う疑問こそが、ガンダムの真の骨格。ロボットアニメとしてのガンダムの良さは今回は省く。あくまでもストーリーとしての良さを突き詰めたい。それぐらいにORIGINは感動したから。

 

 

同時代で見たガンダムが、その人の人生に影響を与える

とまで言ったら言い過ぎ?いや、僕らの世代は最後に発狂したカミュウが衝撃的すぎて・・・・世代が抱えるトラウマだよ。ナイーブな男の子が多いのも、カミュウがナイーブだったから。Zガンダムの放映時(1985)は小学3年生。全部観たけど、殆ど記憶が無い。百式のプラモデルを買ったこと、オープニングソングの「水の星へ」が物凄く良かったこと、そして最終話の最後に主人公のカミュウが発狂=精神の底に沈んだこと。

 

まさかカミュウがロダンの2番目の妻:カミュウ・クローデルから命名されているとは・・・

殆ど話題になってないけど、wikipediaで知ったときは衝撃だった。発狂というエンドも同じだから。日本でこれだけカミュウ・クローデルに拘っている人も少ないけど、ロダンを突き詰めればカミュウなんだよ。最近、横浜ではロダンの接吻のポスターが沢山飾ってあるけど、「おまえ、男女の恋愛について本気で考えた事あるか?」と思う。あれはポーズも含めて誰でも思いつくレベル。フギット・アモールこそロダンしか造れないレベルの作品だし、彼のSoulが込められている。

 

誰がZガンダムの主人公:カミュウ・ビダンの名前をカミュウ・クローデルから名づけたのかは分からない。

けど、その人は僕と同じくらいの認識にいるんだね。全く別の分野で本気で気に入ったモノが実は繋がっていると知ったときの喜びは言葉に代え難い。あの当時、カミュウのラストが己のコアに刻印された同世代の中で、何人がカミュウ・クローデルまでたどり着いているか。今からでもいいからぜひとも突き詰めて欲しい。

 

ZZガンダムはクソ

カミュウの衝撃的なラストの次の年に始まったZZガンダム。そのオープニングソングが「アニメじゃない、アニメじゃない、ほんとのことさ〜」で始まった瞬間、「つくったやつはクソ」だと思った。本当はあのときTVを叩き割りたかったんだね。それだけのレベル。アホとかバカとか頭悪いとかそんなレベルじゃない。魂がクソのレベル。確かにこの歳になると、「Zガンダムはやりすぎた。ZZではバランスとらないと」という思考も分かる。けど、さすがに「アニメじゃない」はダメだろ。。歌もジャニーズアイドルのような軽さ。五反田君なら「クソが干からびてる」と言うレベル。

 

|かがリスクをとって勝負をかける

△修療時は明確な成功にならない

その後、バランスをとって逆に振る

 

どんな世界でもありえる話だけど、10年20年経過すると真の答えは出る。歴史に残るのは,世院どんな分野の仕事でも,鯡椹悗紘要がある。もちろんを担当する場面もあるけど、,汎韻献譽戰襪料曚いないとはクソに成り果てる。それだけは確かなんだね。

 

いくらZZに失望しても、F91は映画館に行きました。悪くは無いけど、凄い感動もなかった記憶がある。以降、ずっとガンダムシリーズから離れていた。そして2010年に静岡でファースト・ガンダムの再放送。全部観ました。凄く良かったです。だから、Zガンダムを全部借りてきて見直して、「逆襲のシャア」を見て、やっとORIGINをVol4まで観た。それが一昨日。

 

ちょっとカミュウについて熱く書きすぎたけど、同年代なら皆同じ想いだと思うな。

 

「逆襲のシャア」は絵がありえない。もうちょっとZの時のシャア:クワトロ大佐とタッチを同じにしろよ。髪形が変わった以上に、変になってないか?アニメだとそういう基本的なところで躓くこともあるからなぁ。ORIGINの良いところは絵。幼い頃や学生の頃のシャアの絵が良い。それ以上に歌の良さ。やっぱり「水の星へ」世代としては、ここは要チェックポイント。どれも良いけど、一番気に入ったのは「星屑の砂時計」です。メロディーも歌手も良い。引退したのにわざわざお願いしただけの透明感がある声。なにより歌詞の深さ

 

千億の星屑が 私に降りかかる
   自分の小ささに すくむの心が
   運命の箱船が 旅立つ時間(とき)の海
   音のない序曲が ひびき始める

 

この歌詞を作った人は才能ある。「千億の星屑が私に降りかかる」「音のない序曲がひびき始める」の部分は才能が必要。ありえないレベル。歴史に残る。だからこそサビの部分について文句を言いたい。

 

 

ねえ私 この世に
   生まれてよかったの?

 

これは態度の問題だけど、これは発してはいけない種類の問い。もちろん誰だって思うときはある。けど、「何故生まれたかを問うのでなく、どう生きるべきかを問え」というのが至言だから。

 

答えのないまま 月は
   欠けて 満ちて
   私のなかの 少女が
   大人になってゆく 

 

という部分は良いと思う。アルテイシアの気持ちが良く表現されてる。そんな点では、2番目の歌詞は良い。

 

なぜ人間(ひと)は愛し合い 傷つけ憎み合う 

孤独な星たちが 引き合うみたいに 

でも今は信じたい 夢という遺伝子が 

苦しみも涙も 越えて行くって 

 

ねえどんな あしたが 私を待ってるの?

たずねてみるけど 月は ほほえむだけ 

 

誰も知らない 未来へ 

砂時計 落ちてゆく

 

サビも良くなっている。「孤独な星」はガンダムの歌詞では必須のフレーズ。「夢という遺伝子」も一瞬亜然とするけど、考えてみると納得。「誰も知らない未来へ砂時計落ちていく」という情景描写は本気で凄い。このセンスはぜひ学びたい。


 

けど、大サビはまたがっかりなフレーズなんだよね。。結局、この作詞家は非常に才能があるけど、「やっちゃいけない問い」という指針が無い。「アルテイシアはそう思っているハズ」という言葉は無意味。真の芸術といえるアニメソングは子供に正しい道を教えるべきだから。「ねえ私、この世に生まれて良かったの?」は破滅の道。

 

「千億の星屑よ 私もきらめこう」も違和感。星達ならわかる。けど星屑は、きらめこうには合わない。逆に降りかかるならば星屑。星が降りかかるのはオカシイ。そういう意味では、曲の最初のフレーズが良くて、それをタイトルにしたから、ここでも使っちゃったんだろうね。全く。。

 

もっと厳密に書く。「私はこの世に生まれてよかったの?」は、「私はなぜ生まれたの?」よりも斜め下の問い。「なぜ生まれたか」は哲学の範囲だけど、「生まれて良かったのか」は良い・悪いという価値判断を含むから宗教レベルの問いだぞ、オイ。この問いを発していいのは、生まれた時から周囲に害悪を与える宿命(さだめ)をもつひとだけ。アルテイシアじゃない。シャアだろ。ORIGINでも復讐のために本当のシャアを身代わりにしてる。そんな意味では、シャアをメインした「風よ」歌詞としては違和感ない。言葉の組み合わせに感動は無いけど、違和感は零。

ただ、そもそも音楽がなぁ。ただ、そこは好みの問題だからいいです。

 

このアニメ、音楽への拘りがハンパないけど、それを痛感したのがJazzバークラブエデンの歌手ハモンの声。声優が歌ってみましたレベルじゃない。深みがしっかりある女性ボーカル。「紅の豚」での加藤登紀子レベルと言ったら褒めすぎ? 慌てて調べたら澤田かおりなんだね。ジオン・ダイクンの二人目の妻:アストライアはこのJazzバーの出身だからこそ、ここを拘ることがハモンだけでなくアストライアの魅力描写になり、それが母親と引き裂かれたシャアとアルテイシアの悲しみまで繋がる。細部まで手を抜かない。素晴らしい。

ついつい澤田かおりの父親もネットで調べてしまった。彼女自身も色々背負ってるね。じゃないと、あの声は出ないか。世の中には背負わないと出ないレベルの声がある。それを求めてBlack Musicを聴きこんでいる身としては、澤田かおりは全曲集める気になったぐらい気に入りました。星屑の砂時計を歌ったyu-yuもいいけど、良家のお嬢様すぎて、、、深部には届かない気もする。

 

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いまやっとVol5を観た。戦争が激しくなりクラブエデンも閉鎖間際。そこでのハモンの歌の良さ。あまりに良いから、「え、これも澤田かおり?」と思いながら聴いてた。やっぱり名作映画に名曲と名歌手は必須なんだよ。前回のBy Your Sideよりもこちらの曲の方が哀愁があって澤田かおりの深さが良く出てる。素晴らしい。久々にファンになりそうな。

 

 




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