初冬の嵐の中、白い雷鳥に出会う

第一の使徒鳳凰、第二の使徒雷鳥



静岡在住の頃、毎年富士山に登ろうとして9年間で7回。行けなかった年はシーズン最後の予定に台風がきて断念。他の時は一緒に行く友達が仕事でドタキャンで単独する気になれず。北岳は今年で7回目。異常気象で10月末に台風が来る中、単独で行ってきました。

 

思った以上に普通の雨天。流石に慣れてるからハイペースで肩の小屋に行く。その手前で「雪が動いている」と思ったら、冬毛に生え変わった雷鳥だった。天気が荒れている時ほど雷鳥に出会って癒される。それだけが夏の暴風雨の救い。けと、まさか白い雷鳥に会うとは・・・神の使いと言われる鳥だけど、やっぱり白の方が神々しいね。

 

北岳山荘でテントを建てたら暴風雨になってテントが横に1mずれる。慌てて素泊まりに。再接近の時は山小屋だから、タイミングはドンピシャ。ゆっくり寝れた。台風一過の天気の良さに賭けて行ったのに、次の日(10/30)の朝はイマイチ。一瞬、日の出で富士山が見えたので最悪ではなかったけど。稜線はマイナス5℃の強風で、ニット帽を被っていても口の周りが寒すぎる。だから断念して下山し始めたら、最後の方では天気が凄く良くなっていた。。もうちょっと粘るべきだったかも。

 

 

登山バスと列車を乗り継いで、16時には神奈川の自宅に着いた。夕方の天気も良く富士山も綺麗に見える。それだけでなく日本2位4位の北岳・間ノ岳、その横の農鳥岳までの白峰三山が見える。片付けしているうちに陽が沈んだ直後の深い藍の時間帯に。

 

これだけ空のグラデーションが綺麗なのも年に数度しかないけど、この日は本当に特別。拡大したのがこちら。これこそが台風一過の良さ。

元の予定では会社の2年目新人達を北岳に連れて行くつもりが台風21号で断念。次の週も22号が来る中、本当に行くのか自問自答していたけど、「この場でルールを変えるのは単なる怠惰。もし状況が変わって10回行く必要が無いと決めるとしても、それは頂上で決めよう」と結論を出したら不思議とそれ以上悩まなくなった。ルールを決めることも大事だけど、ルールを変更するルールを決める方が大事だと痛感。

 

そして、北岳頂上で、やっぱり10回連続にトライすることを決定(笑)。今の生活では千日回峰行大峯奥駈道も出来ないけど、せめて北岳には10回連続で行く。改めてそう決心した登山だった。

 

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これまでホームグラウンドは愛鷹山だったけど、七回登ったからそろそろ北岳をホームと言えるようになったと思う。何度も登ってる&家から見える が登山におけるホームグラウンドの定義だから(笑) 「一度決めたことは変えない」というのが一番美しいルールを変更するルールだけど、有効期間が10年ならばやっぱり見直すタイミングはあっていいと思う。今後も心が弱っているときに見直さないようにしなくちゃね。




真の出羽三山と越三山

 

今年は宮城出張が計3回あった。過去2回は仙台周辺の山に行ったが、3回目は色々と考えて月山(がっさん)に行くことにした。やっぱり霊山だしね。祭られている月読命(ツクヨミ)自体がアマテラス、スサノオと兄弟ながらも不明点が多い。朝日岳や大日岳といった太陽の名前を持つ山は多くても、月に焦点を当てた山は月山だけでは。そんな意味で昔から気になってた。

 

月山を初めて知ったのは大学時代にスキー部の友達から。冬にオープンしてなく、春と初夏だけ営業しているスキー場と聞いた。そんな意味ではパワースポットよりもレジャーの第一印象だったけど、家庭教師先の家では出羽三山の掛け軸が居間にあった。月山が信仰の山として東北地方で一番有名なのも、暮らしていれば自然と知るから。

 

 

 

 

 

せっかくなので湯殿山口から登ろうと思ったが、朝5時前についたら自動車道が閉まってる。。しょうがなく志津口に移動してリフトが動く前に上り始めた。道の整備状況が半端無い。全て木か石でしっかり作ってある。さすが信仰の山。早朝の人がいない牛首下を歩いていると、その澄み切った空気と湿原の眺めに感動。こういうときほど答えは降りてくる。

 

月山の正しい登り方は、満月の夜にヘッドライト無しで登る

これだけ道がしっかりしていたら不可能じゃない。さすがに一度も行ったこと無い山ではこんな登り方できないけど、次回に月山に行く機会があれば、かならずこの方法で登る、と決心。問題は誰を誘うかだけど、ある程度センスがあれば伝わるんじゃないかな。


登山自体はハイキングレベル。頂上についたら神主さんが常駐していた。三霊山は、富士山、立山、白山、御岳から3つが選ばれるけど、これらと遜色ない。4つの山から3つを選ぶ曖昧さよりも素直に月山も入れて五霊山でいいと思う。それぐらいのレベル。頂上から鳥海山が見えた。あの眺めは不思議と誘われる。そりゃ北岳とか穂高・槍とかに登れば周囲の山から「こっちにもおいで」と呼ばれる感覚を受けるけど、今回の鳥海山はかなり訴えてくる。確かに登ってみたくなる山容。何よりも日本海から立ち上がる姿が美しい。「鳥海山もいつか行くか」と思って下山してたら、リフト稼動後は沢山の人が登ってくる。百名山なら当然だね。その人たちとすれ違いながら帰りはリフトを使用。

 

そして残りの出羽三山に行こうと思って運転していたらネイチャーセンターの看板が。ついつい寄って説明を聞いてたら、もともと出羽三山は月山、羽黒山、鳥海山の三つだったが、鳥海山の登山は大変なので、葉山が選ばれていた時期もあった。そもそも湯殿山は月山と一体として認識されており、奥の院の扱いだったと。(こちらにも記載されてるね)

 

それを聞いて、「まじかよ・・・さすがにここまで聞いたらすんなり帰れないか。レンタカー屋に電話して延長できたら、しょうがない登るか」と決めたら、三連休なのに見事に延長可能。天気も台風が近づいているけど明日(9/17)の午前までなら雨も無い。じゃあ朝の4時から登れば12時過ぎには下山可能。

 

結構、乱暴なんだよね。逃げれない時って。

 

そして湯殿山に行く。ご神体は「語らずべからず」だから言わないけど、靴を脱ぐ場所でちゃんと泉質はチェック。あれだけマグネシウムが入っている温泉は初めて見た。湯殿山の裸足歩き後、駐車場まで行くと仏像の御開帳。そこでなんと温泉に入れるじゃん。レストハウスの上にある建物。基本、出羽三山の信者のための宿泊所なんだろう。浴室に神棚がある珍しい形。丹生鉱泉からお湯を引いてて、確かに成分は湯殿山のご神体に似てる。いま、ネットで調べてもほとんど情報がないけど、あれは絶対に行くべき。こういう采配があるから、素直に流れに身を任せる面はある。

 

で、羽黒山に行き、有名な五重の塔も見て、どうしようもなくオーブも写り、ある意味で凹む。鳥海山の登山口まで運転中にたまたま寄った余目駅では駅前に庄内町新産業創造館クラッセがあって、米粉のピザが食べれた。美味しかったです。温泉といい食事といい、都会では味わえない素晴らしい体験!! もう一度行きたくなるほど。

 

 

ところが次の日の鳥海山はハードだった。最初のうちは秋田の日本海沿岸を眺めながらの登山で順調だったけど、山形側から雲が押し寄せていて御浜から先はまったく何も見えない。雲の中は霧雨状で濡れることこの上なし。行者岳から新山は見えなく、頂上まで行ったけど視界3m。下山中は暴風になって散々な登山。今までも色々な登山状況があったけど、今回ほど風が強いのは初めて。片足あげた瞬間に横に持ってかれるから、斜めに歩いてやっと真っ直ぐ。重心を風上にもっていくので、常に体が傾いている。だから一瞬、風が止まると倒れる。。せっかく鳥海山の頂上から月山を眺めたかったのにね。世の中、山あり谷ありというべきか。

 

それでも、真の出羽三山である月山、羽黒山、鳥海山に登って分かった。

 

石動山と立山と白山が越三山。間違いない。

2つは泰澄が開山しているしね。石動山は羽黒山並みの修験道の本拠地だったのだと。行けば分かる。その佇まいは今でもあるから。羽黒山と違って、石動山の忘れ去られたような趣は俗界から離れた雰囲気が残っていて、観光バスががんがん来る羽黒山とは違う。真に霊山を極めたかったら越三山に行くべき。泰澄の想いが垣間見れる。それにしても蜂子皇子が女性ってほんとかな。そこまで断言できるほど僕は分かっていないけど、羽黒山の蜂子皇子の墓には確かに感じるものがあった。




『失楽園』

なんなんだ、この面白さは。

 

英文学の最高峰とも称されるミルトン作の『失楽園』だが、文章がオペラの台本みたいで3P読んで挫折してた。このお盆に白山に登ってやっと耐性がついた。西洋の最深部には聖書があるけど、聖書以上に大事な本と言われるのもダテじゃない。そもそも非西洋文明の人間からみると旧約聖書には困惑が多すぎる。「ヘビにそそのかされ、食べてはいけない知恵の実を食べてしまい、楽園から追放された」のは一般常識だが、そもそも「なんでそんな食べゃいけない実が楽園になってるの?」という疑問。やっぱりここから掘り下げないと、妄信の誹りをまぬがれない。

 

以前に三浦綾子の「旧約聖書入門」にはその解説が載っていて感激した。それだけでなく、アダムはイブにそそのかされたと言い訳し、イブはヘビにそそのかされたと言い訳した。神が激怒したのは、食べるなといった知恵の実を食べたこともさることながら、その言い訳なんだよね。ここら辺を若い頃に読めたのは感謝している。


この『失楽園』はルシファー(サタンの旧名)の反逆から人間創造までが一つのストーリーになっている。これこそが大事なんだとやっと分かった。なんで神様が人間を創造したのか? それは天使の1/3がルシファーにしたがって反逆して地獄に落とされて、だからこそ人数調整なんだと。これって一般常識なの? まじ? ほんと? この歳で初めて知ってショックなんだけど。。。

 

彼は復讐を企てて、残り少なになった天使の数を補おうとした。しかし、かつての創造力を消耗してしまい、新たに天使を造る事ができなくなったのか、《略》 それとも、われわれに対する面当てのためかはともかく、われわれのあとを土から造られた人間で補おうとし、かかる身分の卑しい人間を栄光のある地位につけ、これに天来の賜物を、本来われわれのものである賜物を与えようと決心するにいたった。(下巻93P)

この本は上記のようにルシファーの視点から書いている箇所もあって、その部分がすごく良い。心の弱い部分と、だからこそ隠すための尊大な態度の描写。

 

根本的には「なぜルシファーが反逆したか」だけど、こういうまっとうな疑問を持てる人はぜひこの本を読んでください。以前にR. Kellyで書いたように、知恵の実を食べて初めてしたことは、お互いの性器を葉っぱで隠す事 これは人類の共通知識とも言えるが、

 

神の御手によって導かれてきた彼女でしたが、無邪気さや、乙女らしい羞恥(はにかみ)や、美徳や、自分の価値の自覚が、つまり、口説かれたい、求められずに靡(なび)きたくない、それでいて大胆でも出しゃばりでもなく、いや、むしろ控え目で、だからこそいっそう望ましく見える―要するに、まだ少しも罪の思いに穢(けが)されていない自然の情そのものが、その心のうちに動いたらしく、彼女は私の姿を見るや否や、急に背を向けて逃げようとしました。私はあとを追いました。彼女は婚姻の尊さを知っておりました。そして、私の切なる願いを厳粛にしかも素直に聞き入れてくれました。夫婦の契りを結ぶにふさわしい四阿(あずまや)へと、曙のように顔を紅(あか)らめた彼女を私は連れていきました。(下巻73P)

 

「求められずに靡きたくない」というのは女性心理の一般的な面だが、「アダムに初めて会ったイブは逃げようとした」のは、それを端的に表しているというか、ちょっとびっくりというか、性器を隠すこと以上に大事な情報だと思える。そもそも性器を葉っぱで隠す前に淫らな欲望がわきあがって、木陰でSEXしていたのね。そりゃ子供用の聖書にはこういうことは書いてないか。ここら辺は中学の国語の時間にでも紹介したほうがいいんじゃないかな。

 

これで日本、インド、イスラム、西洋と、メインの神話・聖典は読んだことになるのかな。ヴァルキリーに代表される北欧神話やククルカンのマヤ神話とか全制覇の道は長いけど、この失楽園を読んだから比較宗教学のポイントは抑えたと思える。

 




美と快感

『快感回路』リンデン著は名著の誉れ高いから、3ヶ月ぐらい前に買って一通り読んだ。この数週間は芸術理論を分析しているので、改めて読み始めたら、169ページ「ギャンブル依存症」

 

そうだ、今日は日本にとって大事な日じゃないですか。「横浜市長選挙」 

残念ながら神奈川在住でも横浜市の隣の市に住んでいるので選挙権が無い。けど、この選挙はそこらの国政選挙よりも日本の将来に大きな影響を与えると思っている。それが「カジノ解禁」。お台場の案もあったけど、菅幹事長のお膝元が横浜なのでこちらがメイン候補地となっている。カジノ利権については菅幹事長と横浜港湾の藤木会長の蜜月が有名だし、今の日本を実質的に仕切ってるのは菅幹事長だから。

 

先日、金曜日のクソ暑い午後、桜木町駅前で長島候補が演説してた。隣にいたのがパンチコ依存症の本の著者の人。かなり興味深かったけど、出張帰りで演説聞く時間なくて残念。今回はカジノ推進派の林市長と反対派の長島候補、伊藤候補。この時点でダメだろ。反対派が2名って共倒れじゃん。反対派の票が分散する。陰謀論的に言えば、どちらかの候補はカジノ推進のための刺客だよ。本気でカジノSTOPしたいなら一本化の話し合いぐらいしてくれ。それぐらいに日本の未来に大きな影響を及ぼす選挙。

 

2012年にアメリカ旅行で、ラスベガスに行った(メインはグランドキャニオンとヨセミテ)。確かにギャンブルは大きな観光資源になる。そもそも中国が2000年以降に国力が伸びたとき、マカオの果たした役割が大きかったと。以前に「マカオがラスベガスを抜いた」という記事も見た記憶がある。今後の日本が観光立国を戦略とするのは同意だし、そこにカジノがあった方が良いと言う意見も分からないことはない。

 

昨日、久々にラウンド1にボーリング&ダーツに行った。メダルコーナーではそこそこの人が遊んでいた。こういう人たちもカジノ解禁になったら、カジノに行くんだろうなぁ。そしたら、やっぱりギャンブル依存症から眼をそむけるわけにはいかない。カジノ解禁するなら、東南アジアの某国(うろ覚えだから国名忘れた)のように、自国民には高い入場料(10万円とか)をとって、外国からの観光客は入場無料にするようなルールにするしかない、と思っています。


 

ギャンブル欲=一発逆転夢想+勝利欲(承認欲求レベル)+金銭欲

ギャンブル欲については、以前にこう分析した。これはこれで達成感もあるけれど、実際の最新理論は興味がある。

 

しかし、行動上の依存症は、物質(薬物、アルコール、食べ物)依存症と必ずしも同じ経緯をたどるわけではない。実際、最近の社会ベースの研究(治療中の患者をベースとしない研究。患者は社会の代表例ではない)からは、ギャンブル依存症やゲーム依存症者の三分の一ほどは、他人の助けを借りずに独力で一年以内に依存から脱却できることがわかっている。薬物依存症では、まずありえないことだ。

 現在では、薬物もセックスも食べ物もギャンブルもゲームその他の強迫的行動も、すべてを含む幅広い依存症の定義に妥当性があると考えるに足る生物学的根拠が存在する。ここで考えられているのは、内側前脳快感回路の活性化と変化がすべての依存症の核心にあるということである。(P171)

 

中学校の同級生はパチプロになっていた。パチンコ発祥の名古屋だと当たり前の風景なのか、それは謎だけど。3年ぐらいで足を洗ったらしい。ずっと椅子に座ってるから痔になりやすいとか。プロの間は月20万は稼いでいたみたい。もちろん僕はギャンブル依存症になったことはない。けど、ゲーム依存症は耳が痛い。「独り桃鉄依存症」なんてアホの丸出しだが、かれこれ合計100時間はやっている気がする。。一番ダメダメなのはAOC。合計で1500時間ぐらい遊んだ。。唯一の救いは、2004年の時点でゲームが改悪されてつまらなくなったこと。もしAOCの改善点が治った版が発表されたら、また1000時間ぐらい遊んでしまうかもしれない。確かに独力で1年以内に依存脱却できるかもしれないけど、ギャンブル依存って、こういう思い出し欲求あるからなぁ。

 

病的なギャンブルは遺伝し、女性より男性にはるかに多い。ほぼ確実に言えることだが、ギャンブル依存症の人と近い関係にある人ほどギャンブルに病的にのめり込むリスクが高くなることには、生まれと育ちの両方が関係していりる。《略》男性の病的ギャンブルのうち35%〜55%が遺伝的要因で説明がつくと言える。女性ではそれほどはっきりしたことは言えない。《略》カジノを覗いたことがある人なら、ニコチン依存とアルコールと病的ギャンブルは並存する事が多いという現実を目にしているはずだ。そこにはドーパミン作動性の快感回路の障害という共通の原因が反映している。実際、病的なギャンブラーの場合、アルコール依存症の比率は米国の同年齢層全体に比べて10倍高く、喫煙率は6倍高い(P175)

 

学生時代の友達で、凄境遇の家に生まれた人がいた。

父親が真のギャンブラー。韓国で5億ぐらい当てて、駅前の一等地のマンションに住んでいた。確かに彼の家に行くと日中でも父親がいた。その彼は当時はギャンブルにはまっていなかったけど、今はどうかな?最近は年賀状ぐらいなのであまり分からない。今の日本ではギャンブル=パチンコ・パチスロ、競馬、競輪、競艇ぐらいなのかな。リアルなお金が稼げるという面では(オンラインゲームのRMTは知らない世界)。あまり周囲に該当者がいないのですが、遺伝性について特に否定したい何かがあるわけでもない。

 

不確実性の快感

「働いていて得た99ドルより道ばたで拾った1ドルの方が嬉しい。それと同じで、トランプや株で勝ったお金は気持ちをくすぐる マーク・トウエイン」

《略》

最近、サルやラットの実験から別のモデルが提案されている。それによると脳はもともとある種の不確実性に快感を見出すようにできているという。《略》サルの実験結果から導き出せる解釈の一つは、人間の脳はもともとリスクのある出来事から快感を得るように出来ているということだ。このモデルでは、ギャンブル好きになるのに初期の報酬は必要ないということになる。むしろ、見返りの不確実性そのものが快感を導く。

 進んでリスクをとろうとする神経系は、進化上も適応的だったというシナリオが提案されている。《略》人間の祖先では、狩猟をするオスのほうが、採取をするメスよりもリスクを取ることに適していた可能性があり、そのことが、現在の人類で男性の方がギャンブル依存や衝動のコントロール障害のリスクが高いことの由来となっているとも考えられる。

 

非常に良い本。素晴らしい。働いた99ドルと拾った1ドルの嬉しさは個人差大きいと思うけど。そういう意味ではギャンブル中毒の可能性は付き合っている時に分かるかもね。女性としてはかなり要チェックポイントかも。けど、こういう理論を知っておいた方が絶対に良い。このレベルはネット上のコンテンツでも、TV番組でも有りえない。来年の新入社員への推薦図書リストには入れなかん。

 

この本は他にも興味深い記述が多い、ある有名な痩せ薬は自殺を誘発するという副作用から禁止になったと。結局、プリミティブな欲求を下手に薬でコントロールすると、生きる意欲→ストレス耐性も減るんだね。。それは凄く納得。

 

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いかん、ギャンブル欲に引っ張られすぎた。

本題に行こう。

 

美です。

いま、写真芸術論が気になっている。とりえあえず、ネットで見つかるのは以下の三つ。どれも興味深い。そもそも写真は芸術なのか? 

http://park7.wakwak.com/~ueno/archive/92/sv9206shashin.html
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub1-2.html
http://book.asahi.com/reviews/column/2012030900005.html

 

もっともっとプリミティブな地点から考える。芸術は何かしらのインプットが必要であり、何かの感覚器が必要。その中で味覚と触覚と嗅覚について、ここに訴える美ってあるのかな? 味覚については料理は芸術といってもいいのかもしれない。普通は料理の味だけでなく、皿も含んだ見た目もあるね。確か味覚は5チャンネル。嗅覚は香水。これって芸術のジャンルになりうるんだっけ? ラリックの香水瓶とかはガラス工芸だからなぁ。そして触覚。マッサージも最近は英国式、タイ式とかあるけど、やっぱり芸術のジャンルでは無いような・・・。嗅覚と触覚には癒しはあっても美は無い様に思える。

 

すると「癒し」と「美」の違いを考えなくては。。

そもそも美人って、癒しの意味しか無いのでは??

 

うーん、面白い結論になってきた。ここら辺を掘り下げて、コンパで美人の横に座った時に「美人って大変でしょ〜」から始まって、美と癒しの関係。「結局、美人は美じゃなくて癒しの意味しかないんだよ」と言ってみる。う〜ん、成功の時と失敗の時の差が激しいな。ただ、こうやって知識の幅を広げ自分なりに掘り下げいてく楽しさこそが大切。ここら辺の話を中学生ぐらいで聞けると将来が伸びるのは間違いない。遺伝が大事なのでなく、こういう環境が大事。それが家の無形文化財。今でも覚えているのは、名著の誉れ高い岩井克人の貨幣論。当時、親がハマっていて夕食時に話題にしていた。あのエッセンスを高校生で知れたことは今でも感謝している。二世論でも書いたけど、こういう環境ってあまり無いから、少しでも次代に繋げようとしているのかもね。これも、ある意味では、人の欲望か。

けど、何の欲望なんだろう。

 

 

 




美食と美酒と美 〜ホヤと三木成夫と吉本隆明〜

ホヤを食べる。

生まれて初めてホヤを食べたのは2014年の女川の漁船の上。

会社の復興支援プログラムの漁業体験で、メインはホタテの殻掃除だったけど、漁師さんが厚意でその場で捌いてくれた。めちゃくちゃに美味かった。

 

ホヤ自体はいつからか知っていた。匂いが凄いらしい、珍味だと。生物学上、大切な位置づけにいることは大学時代に進化論を乱読している時に知った。ホヤの幼体から魚に進化したと。

 

そして今年。ホタテが貝毒で手に入らず、代わりにホヤを買った。思った以上に捌くの楽だった。内液は確かに味噌汁に入れると美味い。けど、ホヤのクリームスパゲティの美味さはウニスパを越すね。

 

今日は内液をクリームスパゲティにしたあと、冷凍保存していた身を刺身で食べる。解凍してもけっこう、いけるじゃん。たまらなく日本酒が飲みたくなる。

 

学生時代に、日高見で初めて日本酒の本当の美味さが分かった。はっきり言って飲み放題のアルコール入り日本酒で満足できるのは味音痴。純米酒じゃないと米から作る意味がない。それ以来、美味い日本酒を探している。久保田も越乃寒梅も、 獺祭、飛露喜、十四代、田酒と美味いと言われる日本酒は殆ど飲んだけど、最終的には「愛宕の松」に落ち着いた。同じ系統として「瞑想水」と「ねぶた」がある。ほとんど水のようなお酒。甘くもなく辛くも無い。瞑想水という名前が示唆的。このお酒は1時間の座禅を30分にするぐらいの良さがある。けど、関東のスーパーで手に入るのは「ねぶた」だけ。コストパフォーマンスとしても申し分ない。(愛宕の松は川崎町のふるさと納税で手に入れてる)

 

 


そして、食事後に吉本隆明の『言語にとって美とは何か』を読み始める。

わたしはやっと今頃になって表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ、と簡単に言えるようになった。《略》たとえば、「花」とか「物」とか「風景」とかいう言葉を使うとき、これらの言葉は指示表出のヨコ糸が多く、自己表出のタテ糸は少ない織物だ。

 

《略》いま眼のまえの絶景(たとえば松島)を眺めて、あまりのいい風景に「松島やああ松島や松島や」と芭蕉の句のように感嘆するばかりだったとする。このばあい「ああ」は文法的には感嘆詞と呼ばれている。《略》おおきな自己表出性と微弱な指示表出性の織物だといえよう。

 

《略》たとえば眼前の風景をみて「美しい風景だ」と言ったとする。この「美しい」は指示表出性と自己表出性が相半ばしているといえる。風景の状態を「美しい」と指し示しているとともに、じぶんの心が美しいと感じている自己表出性もおなじ位含んでいるからだ。

 

《略》指示表出性が一番大切な言葉は人間の感覚器官との結びつきが強い言葉だ。それは感覚が受入れたものを神経によって脳(大脳)につたえ、それによって了解する。自己表出性の強い言葉は、内臓の動きの変化、異変、動きなどに関係が深い。《略》わたしはこれを解剖学者三木成夫の遺された業績と、わたし自身の言語論の骨組とを関連づけることで考えるようになった。言語のタテ糸である自己表出性は内臓の動きに、ヨコ糸である指示表出性は感覚(五感)の動きと関係が深いと見なされると言っていい。

(文庫本まえがきより)

 

あれだけ進化論を本を読み漁ったつもりだったけど、三木成夫を知ったのは西原克成氏の本。三木成夫を継いだのは間違いなく西原克成。いま学生ならば、その間にこれらの本は読んだ方がいい。美は感情であり内臓なのだ。そこを文系と理系で分けているから教養が片手落ちになる。まさか吉本隆明が三木シンパとはね。超一流ならば当然か。三木を踏まえて美を語る凄さ。

 

今日は久々に点と点が全部繋がった。もう三木成夫も吉本隆明もこの世にいないけど、この本を理解しAIに載せること。今の改・マズローをどこまで変更する羽目になるのか逆に楽しみになってきた。昨日までの登山にもって行ったら雨で大変なことになって、透明テープで応急処置した本。内臓まで開いたかのような状態になったけど、まるでホヤの中身のようで、これこそが幸せなのかもね。

 

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リクエストがあったので、お店はこちらです。女川には年に計6日間は行っているので、ある意味、実家よりも多くいるなぁ(笑

 




そして雲となって、雨が降り、川は海に往(ゆ)く

 

前回の続きとして、 泉ヶ岳〜船形山〜定義観音の一泊二日コースに行ってきました。

 

そもそも泉ヶ岳は仙台の小学生が行事として登るぐらいの山。昔、家庭教師時代に富士山の話をしたら「僕が登ったのは泉ヶ岳」と言っていた。山麓にあるスキー場に6年間一度も行かなかったのは後悔してる。当時はスキー場のサイズばかり気にしていたけど、仙台の夜景にダイブするようなナイターは行くべきだった。今回、スキー場の中にある登山道を歩きながら、「どれだけ登山から遠ざかっていても、さすがに泉ヶ岳ぐらい学生時代に来るべきだった」と痛感してた。

 

学生時代にやるべきことを全部やったか

入学した当時は南米〜中米放浪を志して第二外国語もスペイン語を選択したのに、二度の入院等があって出来ず仕舞。未だにコンプレックスがある。特にインド放浪をした人。会社の元先輩はインド放浪ベジタリアンだけでなく、会社入寮時の持ち物がボストンバック一つというミニマリスト。インドに行く勇気もなければ、未だに肉ラマダンの状態、紅茶の缶自体が山ほどあって同期がびっくりするほど荷物が多かった僕にとっては本当に憧れの人。今年の新人にも興味深い娘が。前日までの会社行事に50Lのザックで来てたから「学生時代に登山してたの?」と聞いたら「ヒッチハイクしてました」 確か90年代後半には同乗中の事故における賠償問題から長距離トラックは軒並みヒッチハイクを断るようになって文化も廃れたと思ったのに、そういう学生時代を過ごした人がいるとはね。久々にいい意味でショック。ずっと「思考」「運動」「感性」の三つを突き詰めれば良いと思っていたし、そこは悔いなくやったと思っていたけど、やっぱり泉ヶ岳ぐらいは学生時代に登るべきだった。

 

夏特有の空気のために途中晴れていても仙台の中心部は見えない。頂上では隣の山も見えないくらい曇っていたけど、一時的に雨が降った後は見晴らしが良くなった。特にスキー場の上に浮かぶ夏の雲を眺めていると前回から気づきが増えた。

 

山に還った思い出は雲となる。

泉ヶ岳も船形山も著名な山だけど、日帰りするコースを選ぶ人が多く、この二つの山を結ぶ登山道はかなり道が不明瞭。17時過ぎにやっと船形山の頂上避難小屋についた。ガス(霧の中)でまるっきり何も見えなかったけど、次の日の朝は小雨が降った後に仙台の中心部のみならず太平洋まで見えた。後白髪山から見ると仙台観音と中心部が一直線になるんだね。 夏の登山としては想像を超える風景を眺めながら、「何も無くて全てがあった大学時代」全体を感謝すべきなんだと、やっと分かった。

 

 

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宮城の山としては蔵王と栗駒山が有名だけど、それぞれが地元で、かつ当時に一緒に行けなかったから、今でも行く気になれない。山友達に誘われたら断るほどじゃないけど、1人で行くのはこの先も無い。改めてそう思った。

 




思い出は山に還る


ストレスフルな時の気分転換の方法は色々あると思うけど、個人的には屋上に行ってポケーと景色を見るタイプ。半年ぐらい前に行ったスカイツリーは非常に良かった。東京近辺の人ほどスカイツリーに行かないと思うけど、都心の高層ビル群を見下ろす形で眺めていると、「この一つ一つの明かりに人生のドラマと四苦八苦があるんだろうなぁ」と思える。自己の悩みがこれら沢山の悩みの中で一番重いワケもないし、まずは相対化できるかどうかだから。


登山が趣味の人って、自分が住んでる場所から見える一番高い山には登るのが基本中の基本。高校時代までは名古屋だったから御岳。社会人になってからは富士山。大学時代の仙台は蔵王:スキーで行く&頂上まで車でいけるし、3000mの山もないし、登山のモチベーションが零だった。逆に街の中心部に近い小山にキャンパスがあって、建物の屋上からの眺めが良かった。何度も行ったけど、どちらかというと街を見ることよりも、逆側の山を見る事の方が多かった。やっぱり雪山の厳粛さが好きなんだよね。住んだまちの中では、手に取るように雪山が見えたのは仙台だけ。

 

卒業後も出張があるたびに学生時代に行けなかった観光名所に寄っていたけど、今回、やっと仙台で登山をしてきました。あれだけ色々あった大学時代なのに留年もせずにちゃんと卒業できたのは、屋上から眺めていた山のおかげだと痛感しているから。
 

―保の奥の二口渓谷から登り始めて大東岳〜面白山を縦走し、仙山線の面白山高原駅に降りる日帰り縦走コース

∪凜岳〜船形山〜定義観音の一泊二日のコース

 

登山地図を眺めながら二回に分けて計画し、昨日は,帽圓辰討ました。マイナーな山&紅葉の季節でもないから殆ど登山者がいない。コースタイムで9時間だけど、バスの関係で登山口には10:30到着。だから日が長いこの時期じゃないと日帰り縦走は難しい。特に大東岳から権現様峠に下る道は地図でも点線扱い。マイナーな山のマイナーな登山道はこのレベルなのね。。年間で歩く人が数名程度なのだろう。ある意味、登山スキルは向上したと思うけど・・・。一応、18:45に面白山高原駅についたし、ヘッドライトも使わずに済んだけど、かなり疲れました。。

 

もともとは雨の予報だったけど、前日の夜から当日の朝にかけて降ったのでセーフ。最初の大東岳の頂上はガスでまったく景色が見えなかったけど、そのうち光も差すようになり、爽やかな風も吹き始めて、初夏の気持ちの良い登山。夕方についた面白山の頂上からは仙台も山形も両方とも見えた。こういう時は本当に山の神様に感謝する。

 

デキる人ならば部屋で座禅していても心を整流できるけど、僕みたいな凡人にはそれは無理。ある程度、肉体的にもハードなことをしないと雑念は消えない。なぜマラソンでなく登山なのかというと、都会の空気が嫌いで、山の方が癒されるから。別に山でなく海のアウトドアでも良いと思うけど、単純に山派なんだと思う。その選択に深い意味があるのでなく、血液型みたいなもので生まれた時には決まっている事柄なんだと。

 

学生時代にずっと眺めていた山を、当時聴いてた音楽を聴きながら登ること。色んなことが思い出されて、その全てを山で解放してくるような登山。古い日本では、人の魂は近隣の山に還っていくというけど、ある種の思い出もそうなのかも。

 

これだけ不動明王にはまったのも秋保不動明王がきっかけだけど、その奥宮が大東岳の頂上なんだね。頂上の祠で護符を見たときは凄く感慨深かった。最後の最後まで残っていたある種の思い出は今回でやっとあるべき場所に落ち着いたと思える。

 

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先日、仕事で落ち込んでる会社の後輩を見かねてラーメン屋に誘い、「昨日も新橋で人が立ち入って朝のダイヤが大幅に乱れたけど、ああいう事はやめてね。「気づいたら青森のホームに立ってました」ぐらいがいいと思う。なんか、西に行くよりも北に行ったほうがストレスの深刻さが伝わる気がするんだよね」と言ったら笑って同意された。自分なりのストレスの対処法は25までに確立しておく方がいい。30過ぎても持ってないと、その後の人生が大変だろうね。

 

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大学時代の指導教官はソフトウエア理論の分野で日本一を豪語していて、確かに外国人も含めた300名規模の国際会議を主催してた。事務局として会議の受付をしていたら、他の大学の先生達が「○○研の学生?頑張ってねー」と同情された。一番驚いたのは就職活動時のOBによる説明で、日立で課長してる40過ぎの先輩が「今までで一番大変だったのはこの研究室にいたとき」 あの時はマジかよ、と思ったけど、今になったら良く分かる。ストレスから肌が荒れて、夏でも長袖着ている人もいるような場所。そんな中でも、先輩達がヒヤヒヤするぐらいに僕は教授とぶつかってた。卒業して8年ぐらいたって教授を囲む会があった時に、「自己写の定義が単純すぎるからトポスはAIで使えない」と言っておいたけど、どれだけその意味が伝わったかな。当時は理論系は苦手だったけど、今はそのポイントは大体分かる。全ては素数の奥深さと美しさなのだと。その深遠まで繋がって無い理論なんて、クソぐらいの価値しかない。チャーチの定理はどこまで繋がっているのだろうね。

 

 




超感性!?

先日からの本を読んでる。「超感性」って初めて見た単語。詞的・文学的な文章に使われるなら、まだいい。けど、論述的・分析的な文章でこういう単語が出てくると困るんですけど・・・・。そもそも感覚と感情を明確に分離できるかどうかも謎。どこかで線を引かないと区別はできないと感じてる。「感性」は一般用語だけど、感覚と感情と感性の三つの違いを明確化することすら大変。感覚は感覚器で感じるけど、感情と感性はそもそも何で感じるのか、まずこの問いから答えないと。

 

そして「超感性」。これって「スゲー鋭い感性」なの? それとも「感性を超えたもの」なの? 接頭辞としての「超」は常に多義性をもっている。本を読んでるともちろん「感性を超えたもの」だが、造語をするなら元になる言葉は明確にしてくれ。「表象を伴わない概念」って、表象も概念もクリアに定義するのが難しい単語だけど、「表象を伴わない概念」は概念では無いような。単なる「もやもやしたイメージ」といわれたほうが腹落ちできる。

 

この表象を伴わない概念が、言語規範の媒介を受けて感性的な性格を付与される過程も取り込んでいるところである。三浦は、この過程のあり方を《概念の二重化》と呼んでいる。(『言語過程説の研究』 P83)

 

この「概念の二重化」の定義は、すみません僕にはさっぱりわかりません。定義の文章で使われている単語の説明もない(概念とは何か等)し、その組み合わせも「?」がある。言語にはある種の規範(犬という物体を犬と呼ぶルール等)があるのは納得。けど、その媒介をうけたら、感性的な性格が付与されるの? 逆じゃないの?感性的な面が削り落とされるのでは?

 

「宇宙人が犬らしきペットをつれていた」場面を考えよう。外見は犬にちかい。しかし全身メタリック色。ロボットかと思ったが、あまりに動きがなめらかで、生物に思える。鳴き声はまだ聞いてない。

 

この時、「表象を伴わない概念」とは何ですか? 「犬らしきペット」と思った時点でもう普通の概念ですか。 犬という言葉を使って表現すると、メタリックで機械的な見た目(=感性)が伝わらなくなる。だから、「犬らしき」と表現し、「全身メタリック色」と形容する。

 

頼むからこういう場面設定をして、その上で議論してください。じゃないと、言語学の中だけでの議論になっちゃう。ウチみたいに人工知能の中間言語を作ろうとしているなら、その中に入っていくけど、それでも途中でイヤになる。こういう箇所を真面目に読み解くヒマあったら、零から自分で作った方が早いと本気で思う。そしたら「概念」は採用しても「表象」なんて単語はそもそも採用しない。「感覚」と「感情」は採用するけど「感性」はいらない。感性を捨てるのは勇気がいるけど、やっぱりいらないな。

 

 

「超感性」なんて、昔の女子高生の「チョベリバ」と同じぐらいの限定単語だと思った方がいいと感じる。一般的にもそんな結論になりそうだけど、独自の用語満載の哲学書って妙に「俺は難しいことやってんだぜ」感があるんだよね。本当に新しい用語を作る必要あるのか?日常単語で表現できないのか? つねに考えるべきだと思ってます。ちょっと前に話題になった(もう二年前か)、この「アンチ・エビデンス論批判」は凄く興味深い。本サイトも批判側につきます。「最大限、日常単語を使え」と。

 

「ほっぺたとあごの間に名前つける」

と言ったのは誰か忘れたけど、名前をつけるだけの必要性は絶対にいる。整形とかやってるお医者さんにとっては、ここら辺に名前をつける必要あるかもね。問題なのは、物体的なものは見れば誰でも分かるけど、感性とか感覚とか内面的な部分で新しい用語が出来ても、その用語が指す範囲を皆が理解するのが難しい。だからこそ、より詳しく説明してくれないと。そのためには人間の理解の全体構造も必要だし、そもそも理解の部分だけ取り出して議論してもしょうがないんだよね。「理解」という言葉がカバーする範囲自体が人によって違うから。もっと大きな系として捉えないと。ここまでやれば、AIまで後一歩かな。

 

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言語学、心理学、哲学を網羅するからAIは理系の中では一番文系に近いと思ってる。今、流行りのDeep Learningは数学寄り。けど、数学における意味論って集合への写像だけなんだよね。その集合を誰が作るかとか、どんな中身なの、一切無視。まあその割り切りこそが数学なんだけど。言うだけなら誰でもできる。実際に作る場面になって、変な用語増やせば増やすほど自らの首を絞める。確かに音楽のレビュー書いているとついつい普段あまり使わない用語とかを使用してしまうから、「全く使うな派」ではないけど。それでも節度は必要だと思ってます。

 




名詞と動詞の世界観

 

ホピ語では、「いなずま、波、焔、流星、煙を出す事、鼓動」は動詞である。常に短い期間しか継続しないできごとは動詞としか扱われないのである。「雲」や「嵐」は名詞として必要な継続のもっとも短い限界である。

 

《略》

バンクーバー島のヌートカ族の言語では、すべての語が動詞のように思える。《略》家というできごとをあらわす語は語尾によって、長らく存在する家、一時的な家、未来の家、かつて家であったもの、家になりそうだったものなどのことを表すのである。(P.159)

やっと見つけた。名詞と動詞の区分に疑問を持つこと。ずっとずっと探してた。前回から読んでる『言語・思考・現実』(B.L.ウォーフ著)の凄さ。

 

真に根源的な問いは、真の孤独を要求する。

2010年頃かな、ロングマン2000単語を整理してる時、動詞・名詞・形容詞に変化する概念はその基本形を決める必要があると痛感した。英語も日本語もその点がアバウトすぎる。一番シンプルな自然物を見渡しても、山はいい。誰がみても名詞。川は? どうみても動いてるよ。あれって本当に名詞でいいの? 波は? もっと名詞じゃないような・・・風は? 

ここら辺を真面目に考えると、頭が破裂しそうになる。

 

ホピ語には、すべて飛ぶところのものを指す一つの名詞がある。《略》ホピ族は現に、昆虫や飛行機や飛行士を全て同一の語で指し、別に不便だとも感じない。《略》逆にイヌイット(エスキモー)の人たちなどから見れば、われわれのsnow(雪)という範疇は広すぎるのである(P159)

ここら辺はどの言語学の入門書でも触れている。最初にこういう部分を指摘したのもウォーフなんだね。けどさ、これって名詞の中のカバー範囲じゃん。ここよりも名詞と動詞の相互変換の方がよっぽど大事だと思うのに。この本を39歳で読むハメになったのは、今までの言語学者がみんなスルーしたから。なぜ俺はこの文章を18の時に読めなかった?? そしたら10年は早く先に進めた。俺の10年間を返してくれよ。。

 

人は、己がもつ問題意識の中でしか、生きていけない。

ウォーフ以外の言語学者は名詞のサイズの問題意識はあっても、名詞と動詞の相互変換を問う事に必要性を感じなかったんだね。それは、素直に言えば凄くさびしい。自分だけが変人だとずっと思ってた。

 

 

そういえば最近、「よく零時近くに帰ってから本読めますね」と言われて「俺は仕事で殆ど頭使ってないから」と言ったら、冗談だと思われた。けどさ、誰だって通勤のために頭つかっていると思う人なんていないでしょ。本当は物凄く高度な情報処理をしているし、未だに人と一緒に電車を使って通勤できるロボットなんて実現できてない。誰がどうみても車の自動運転よりも高度。だけど「いやー、今朝の通勤に頭つかったよ」っていう人はアホ扱いされる。それと同じで、既存のフレームワークの中で頭を回転させることは、慣れればそんなに疲労じゃないんだよ。

 

真の頭の疲労は、フレームワークがぶっ壊れるとき。

 

以前にこう書いたけど、

英語を2000単語まで絞ったロングマンは素晴らしいけど、2000語を丁寧に見てみな。こんなにいらないから。本気でやれば、この二割でいける。それがうちのやり方。そしたらぶち当たるのが、名詞と動詞、どちらがプリミティブか。この答えまで同じなら、俺と一緒に手を組まない? 

読んだ人の99.99%は意味不明なんだと思う。だから、ずっと僕は一人ぼっちだった。というより、日本のAIのレジェンドであり、70年代は世界の最先端の自然言語処理を達成して、京大の総長まで勤めた長尾真であっても、ここまでの問いは無かった。こんなこと言うと業界人を全員敵に回すと思うけど、00'S前半に人工知能系の研究者が色んな大学の総長になったのは、研究に行き詰って、しょうがなく政治活動に情熱燃やしたんだと思ってました。ぶっちゃけ。

 

こんな根源的な問いは、頭がイイ人は絶対にしない。

誰だって職業として稼いで食べていかなくちゃいけない。答えが無い問題に取り組むのはリスキーすぎる。だから、別に非難したいワケじゃない。なんども大学の教授の職をオファーされても、自由な研究テーマのために断り続けたウォーフが凄いだけ。言語を比較しながら、根源的な世界像を突き詰めて行く事。確かに他の職で稼いでいないとできない。

 

そういう意味では、今の立場を感謝しなくちゃ。

働き方改革のおかげで日曜の仕事の代休をもらった。さすがに平日は休日よりも気合が入る。AI研究のためにこれ以上の昇進を断ったのに、普通に接してくれる今の上司にも、周囲の人たちにも感謝。今の仕事は楽しいしやりがいもある。そういう意味ではウォーフが化学工場の火災防止検査官の仕事を続けたのと同じなのかも。ただ、己の根源的な問題意識と重なるのはこの分野。認識論の根本に動詞と名詞の区別があると思っていたのに、言語学の誰一人とも話題にしてなくて。。

 

 

勝手にGoogleとかの超一流の研究者と競争しているつもりになっているから(笑、 答えは書いても、理由は書かない。理由こそが大事だから。答えはシンプルだよ。ヌートカ語が正しい。とことんまで名詞と動詞を比較したら、動詞がプリミティブ。

 

逆にダメだと思う理由なら、そろそろ書く(笑

Deep Learningはダメ。根源的な仮説が「人間の脳はニューロンで出来ている。Deep Learningにはニューロンをシュミレートしている。だから原理的には人間の脳で実現できることは、全て実現できる」だから。

 

あのね、人間には魂があるの。

魂がニューロンの上で抽象レイヤーを作るの。ニューロンだけじゃ抽象レイヤーは生まれないの。抽象レイヤーが作れないと、言語は扱えないの。とかいうと、魂の証明とか色々言われるし、魂を否定するのが科学者の正しい態度、みたいな風潮はクソ。魂の存在の証明を今の科学の体系の中でできるわけ無いじゃん。そんな戯れ言のヒマあったら、真面目に生物学の生命と非生命の間、物理学の観測問題を突き詰めなよ。もっと早い方法ある。今すぐ自殺したら?そしたら魂があるかないかすぐに体感できると思うよ。

 

結局、松果体なんだよ。運動を小脳が担当するように、魂と意識の部分は松果体でいいんだよ。けど、過去に「松果体に小人がいる」みたいなモデルを作ったから無限後退になって破綻した。それが失敗なんだって。松果体にはレンズと鏡があるんだよ。アナロジーで言えば。それをシュミレートしたらDeep Learningでも頂上にいけるかもね。中間言語方式で攻めようとしている僕とどちらが早いか、それは、神のみぞ知る。

 

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ここまで書いたら天佑が下りてきた。動詞がプリミティブなのはこの世。名詞がプリミティブなのがあの世。

 

さすがに「自殺したら?」は言いすぎだね(汗 今の物理法則の不十分さを己の目で確認したかったら、長崎のアンデルセンに行けばいい。サイババ以上といわれる超能力は流石に凄かった。普通に解いてもルービックキューブを6秒。「本気出しますよ。ついてきてくださいね」で1秒でそろえた時は唖然。500円玉をバリバリ食べてる時は口元から煙でるし、その後、「えいっ」と気合入れたら喉からワープさせて元に戻すから。とか書いているとアホだと思われそうだけど。あそこにはまた行きたいね。

 




オーブの撮り方と超ひも理論

 

熊野三山の元宮である神倉神社のゴトビキ岩に行ってきた。日本の巨石の中では一番崇められている石だと思う。この石の右奥に祈る場所があり、写真を撮ろうとしたら、あまりに光が強すぎてホワイトアウト。一旦、空間が落ち着いた後に撮ったら見事ゴッドレイ「すげーパワー。写真がホワイトアウトする」とついつい口にだしたら、近くのカップルの女性が「私が撮ったときはホワイトアウトしなかった。。」と呟いたのが聞こえた。「そんなの、ああで、こうで、これこれやったら1年ぐらいで撮れるようになるよ」とは、さすがに見知らぬ人に話しかける勇気は無い。。ということで、パワースポットの基本中の基本である「オーブ」と撮るまでのステップとして自分の経験を書いておこうと思った。

 

まず、一番の基本が「オーブ」→「光の球」のことで、パワースポット系の本やサイトを読むと普通に知る単語。最近はブームを通り越して常識の感もあるパワースポットだけど、オーブが撮れないなら単なる観光旅行。その土地のパワーと自己の思念が感応した結果がオーブだから。そのためにはある程度の自己の準備も必要なのだと。

 

もちろんオーブといっても「.メラのレンズと光の関係」で撮れるものと、「▲僖錙璽好櫂奪函廚世ら撮れるものに大きく分類される。,砲弔い討こちらのサイトが凄く分かりやすい。(量が多いけど、ゴッドレイとレンズフレアの部分)

,和亞兩上に並ぶ。6角形とかもある。これが基本。それ以外の区別では「オーブの色や中身の模様」で判断できると。もちろん両者とも「空気が綺麗」「強力な光源」というのは共通だと感じている。その上で、オーブが撮れるかどうかは本人の精神的パワーと関係がある。最後に、「ぜ分自身に縁のある土地じゃないとオーブは撮れない」

 

 

オーブ現象を理論的に裏付けるのは、超ひも理論の畳み込まれた6次元への作用だと思っています。超ひも理論では、この世は10次元であり、私達が認識できるのは空間3次元と時間1次元の合計4次元のみ。けど、思念は畳み込まれた6次元へ作用できると。超ひも理論については、こちらのベストセラーが一番じゃないかな。ブルーバックスなのにブラックな本。それだけの意気込が詰まった本。個人的には映像で見る方が分かりやすいと思うのでNHKスペシャルをオススメします。この「神の数式」と「ポアンカレ予想100年の格闘」「リーマン予想 天才たちの150年の闘い」の3つは美術センスのある文系の人には絶対にオススメ。美の深遠を垣間見れる。

 

オーブを「水滴」や「空中の埃」が写りこんだとみなす人もいる。確かにこの愛鷹山の大棚の滝の写真を撮ったときは、「随分と水滴が写りこんだなぁ」としか思わなかった。けど、その後にも色々と他の滝の写真を撮っても、ここまで写りこんだのはこれだけ。オーブを一つ一つみても、やっぱり中身が違う。改めてこの写真を見ると、社会人になって沼津配属になったのも愛鷹山に呼ばれていたからだと痛感する。そこら辺が宮下文書に繋がるんだよね。

 

初期に撮れたオーブとしては一番分かりやすいのが、日光にある東武ワールドスクエアの写真。青と透明の二種類のオーブが場所も離れているので、,鉢の説明にはなっているかな。なぜ東武ワールドスクエアなのかはさっぱり分かりません。もちろん東照宮でもオーブは撮れたけど、ワールドスクエアだからねぇ。。この場所に昔、何があったのか凄く気になってます。

 

 

もちろん精神を鍛える方法は沢山あるけど、欲を鎮めるのは大切。スポーツでもヨガでも座禅でもいい。ただ、純思考系で達成するのは実は大変。禅の無念無想なんて僕ら凡人には無理。それよりは声に出して読んだ方がいいよ。基本は仏教系なら般若心教、神社系なら祝詞かな。言葉のリズム感では日本固有の祝詞の方がいいかもね。数年前は一年くらい毎日〜三日に一度あげてた。凄くシンプルにいうと、男性にとって女性の裸の写真の真逆の作用をする。考えに考えをぶつけるのでなく、行動をぶつけた方が効果は大きい。スポーツで昇華とはよく聞くけど、言葉で喋るのも、一つの行動と当時痛感したなぁ。

 

 

その上で、一番大事なことは、自分に縁のあるパワースポットに行く事。

昔から仏教系には凝っていたけど、初めてオーブを撮れたのは高野山に行ったときなんだよね。父親が和歌山出身だから、物心つく前におんぶされて行ったらしい。言葉を覚える前の記憶は無意識に染み込むと聞くけど、そこである種の精神的なスイッチが作られ、成人して自分の意志で再び訪れた時にONになる。そんな仮説を立てています。比叡山には以前に行ったし、せっかくマヤのピラミッドに行くのだから、その前に高野山にも行っておくか、という軽い気持ちだったのにね。なぜあれだけ建物も仏像もある中で大黒天なのかは謎だけど。

 

最近で一番嬉しかったのは、やっぱり金峰山かな。この二色のオーブは、もしかして同行者のパワー??なぜか大極印のオーブは高い山でしか撮れない。 理由は分かってない。金峰山は去年だけど、こちらの大キレットは2014年だから、そろそろ再び行こうかな。

 

 

 

 

そして今はレインボー/ウエイブが撮れるようになったけど、まだそれは3箇所程度。いつかはキが撮れるようになるのだろうか。目標はそこだけど、キはかなり先だと思っている。。多分、今の自分の状況だと、ベジタリアンにならないと、無理なんじゃないかな、と感じてる。この一年はずっと肉ラマダン(太陽が出ている間は肉食しない)をやっているけど、仕事帰りの零時前にラーメン食べてるからなぁ。道は長い。。

 




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